新羅系氏族と百済系氏族

伊香連の祖先の伊香臣というのは羽衣伝説の天女の

系統です。つまり伊香臣一族は、羽衣伝説を始祖伝説

に取り入れて系譜をつくった氏族であるということ

です。それでは、なにゆえ羽衣伝説を系譜に取り入れ

たのか---少なくとも伊香臣一族は羽衣伝説をよく知

っていて、その系譜に取り入れる程親しんでいたわけ

です。そして、注目されるのはこの羽衣伝説が朝鮮に

多く分布していることです。

 

註 羽衣伝説

  天女が水浴中に羽衣を盗まれて天に帰れず人妻となって暮らすうち羽衣を探し出して昇天するという伝説。駿河国三保松原(有度浜)、近江国伊香小江、丹後国比治山(以上、風土記逸文)などにあるもののほか全国に類似のものが多い。

 

中臣氏は伊香臣一族と同族で、その伊香臣一族は朝鮮

色濃厚な羽衣伝説をその始祖伝説に入りいれていた

氏族である、とすれば中臣氏が朝鮮からの渡来人を祖

先にもつ可能性は高いといえます。

さらに、近江の国はもともと朝鮮系の人びとが多く移

住していたと考えられるのですが、特に朝鮮の中でも

新羅系一族が非常に多く、近江の国は新羅系氏族の本

拠地であったとみられるのです。そのことは、兵主神

社、新羅明神、白髭神社などと呼ばれる新羅関連の名

の神社が近江の国に多く分布することからも窺がわ

れます。

そこで私は、中臣氏は元来、伊香臣と同祖であって新羅系の帰化氏族であったと考えるのです。そうであれば、百済系の帰化氏族と見られる蘇我氏との関係をみるとき、朝鮮における新羅と百済の宿命的対立関係も何らかのかたちで影響を与えていたのではないかと思えるのです。渡来の時期は大化のクーデターよりはかなり昔のことでしょうが、両氏族が祖先の文化を継承していたと見れば、対立基盤、あるいは対抗意識というものも何らかのすかたちで受け継いでいたかもしれません。

いずれにせよ、中臣氏の系譜についてはまだ今後の解明を待つところが多いのですが、当時の日本の政情を考える上で、朝鮮情勢と帰化人の存在が非常なウエイトを占めることに留意しておく必要があります。

鎌足の野望

個人の願望は必ずしもその本人だけから発したものではなく、往々にしてその成育環境が大きく影響しているものです。新羅系氏族とみられる中臣氏の血を引く鎌足が、どれほどに氏族的影響を受けていたかは今となっては知るよしもありませんが、少なくとも鎌足本人は、蘇我氏によって物部氏とともに滅ぼされた神祇官家。中臣氏の再興、蘇我氏打倒という意識は強く抱いていたはずです。

かって中臣氏は神祇官として物部と手を結んで大和で勢力を築きました。それが蘇我氏によって物部氏とともに中央政界から排斥されたわけで、それ以来、

中臣氏再興は子孫たちの悲願であったといえます。そして舒明・皇極朝になって中臣氏は鎌足という傑出した人物を得、蘇我氏打倒の気運が高まるという時機を得、ふたたび中央政界にのし上がってきたのです。

鎌足は仏教徒の蘇我氏に対して神祇の家として中臣の再興を願い、そのためにも自分が蘇我氏に代わって中央政界の実権を握らなければと考えたのです。鎌足はそうした動機に駈られて立身した人物であり、立身するだけの聡明な頭脳と老獪な策を持った人物だと判断します。

そのような鎌足が、若手で有望株の中大兄皇子を見出し、律令国家体制の理想を皇子に吹き込みながら巧みに蘇我氏打倒のクーデターに誘導していき、同時に聖徳太子の派遣した留学僧・留学生などの新興勢力と手を結び、周到な根回しと綿密な計略によって入鹿の暗殺、蘇我氏滅亡の段取りを着実に進めたのです。

蘇我氏も鎌足には注目していたらしく、自分たちの陣営に引き入れるべく、中臣氏の宿願である神祇伯の地位を鎌足に与えようとしたほどでした。しかし、鎌足はこれを再三固辞し、病と偽って攝津三島に引きこもってしまったのです。

時代の流れを読み取っていた鎌足にすれば、旧体制の下で蘇我氏に与することは論外、新しい中国的な集権国家を築き、その中で自らが最高位の官僚として実権を握ることで中臣氏の再興と自分の野望を満たそうと考えたのです。

そうした鎌足の願望はクーデターに成功して大化の改新を進めていった後の「大中臣氏」と「藤原氏」の繁栄となって現実化しました。中臣氏は鎌足以後、「大中臣」と「藤原」という氏に分かれました。

大中臣は“分家”として従来通り神祇伯の家として神祇を司どる総帥の座を占め、鎌足の藤原氏は中央における官僚貴族となって政治を操ったのです。即ち、神祇伯と太政官という律令国家体制の日本を牛耳る二つの頭になったのでした。

そして、その二つを独占したがゆえに、後世の長期に及ぶ藤原独裁体制も可能になったのです。

 

 

註 摂津 

  現在の大阪府、兵庫県の一部。五畿内の一。上国。古代、津国で難波津・務国(武庫)の水門などの良港があった。

 

鎌足の野心と流血の惨事

血を呼んだ大化の改新

大化の改新が入鹿暗殺という惨劇によって端緒を開いたことは、その後の政局をも血なまぐさいものとしました。もとはと言えば蘇我氏が物部守屋の殺害、崇峻天皇の暗殺、山背大兄皇子一族の惨殺という流血事件によってわが権勢を維持してきたことに端を発しているのでしょうが、大化の改新を推進する新しい政府・政治もまた、そうした流血を容認する体質を持っていたといえます。

流血に始まる大化の改新は、ただ一度の惨劇によって端緒を開いたことは、その後の政局をも血なまぐさいものとしました。元はと言えば蘇我氏が物部守屋り殺害、崇峻天皇の暗殺、山背大兄皇子一族の惨殺という流血事件によってわが権勢を維持してきたことに端を発しているのでしょうが、大化の改新を推進する新しい政府・政治をもまた、そうした流血を容認する体質を持っていたといえます。

流血に始まる大化の改新は、ただ一度の流血だけではおさまりませんでした。血は血を呼ぶ非常の時代となり、クーデターから三ヵ月後には入鹿が後押ししていた蘇我系の皇位継承候補・古人大兄皇子し出家先の吉野で殺害されています。そしてその後も、幾つかの忌まわしい悲劇を重ねながら時代は進行していくのです。

改新の基本政策は、大化五年で一応の成功をみました。その時点において、クーデター直後、蘇我氏滅亡後の事態収拾のため、暫定的な安定政権を目的としてつくられた臨時政権は、取り敢えずその役目を果たしたわけです。

臨時政権は時の政界の有力者によって編成されていました。しかし、大化の改新の基本綱目を施行し終え、政局の安定が不動のものであるとわかれば、お飾り的な存在の長老政権は無用の長物となります。また改新政治をリードしてきた若い皇太子中大兄や中臣鎌足にすれば、もう十分に自分たちだけで政権を維持できるという自信もついたはずです。

とりわけ、政治の中枢に座して実権を握ることを当初からの目的としてクーデターを敢行し、改新政治を実質的に進めてきた鎌足にとって、寧ろ長老政治は邪魔者となったに違いありません。即ち、政局の変化と鎌足の野心がまたぞろ血を呼び込む時節となったのです。

 

左右大臣へ向けられた鎌足の牙

鎌足にとって最も目障りになったのは、左大臣の阿倍内麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂いうお飾り的に長老政治家でした。もとより、お飾りとはいえ彼らの地位は執政の最高位であり、皇太子中大兄皇子と雖も一応は彼らにお伺いを立てて政治を執り行わなければならないわけです。

思い通りに政治を動かしたい藤原鎌足にすれば、政局の安定が確実になった今、さらなる権力を掌中にするには彼らは既に排除すべき対象になっているのです。

そうした折、ちょうど大化五年三月に阿倍左大臣が病没しました。これは鎌足にとって願ってもないことです。それどころか、二人の執政の権威者のうちの一方が消えたことはもう一方も排除するまたとない機会でもありました。もう一方の強力な反撃を受ける心配もなく一方の排除に集中できるからです。鎌足は、これを機に一挙に右大臣も抹殺しようと決断したのです。

倉山田石川麻呂は蘇我一族でありながら、入鹿の専横に反発し、クーデターにおいても重要な役割を果たした老練政治家です。鎌足は倉山田石川麻呂の女・越智娘を中大兄皇子の妃に斡旋し、両者を身内関係で結びつけておいてクーデター決行の信頼できる仲間として引き入れたのでした。ちなみに、越智娘と中大兄皇子の間に生まれた?野讃(うののさららの)皇女(ひめみこ)が天武天皇の皇后、後に持統天皇になられた方です。

倉山田石川麻呂は実直温厚で人望があったと言われ。そうした点も鎌足にとつては早く抹殺しておかなれれば人物として映ったのかもしれません。

 

蘇我倉山田石川麻呂の悲劇

阿倍左大臣が病没したその月、鎌足は蘇我臣日向を使者として皇太子中大兄に、倉山田右大臣は謀反の意思があると讒言させました。この讒言は全く根拠のないものだったのですが、鎌足を信奉しその傀儡になっているのを認識できないことからも推察できるように、人がいいだけで血気盛ん、事実をよく見極める力量のない皇太子中大兄は、讒言を鵜呑みにして直ちに軍を起こし、倉山田右大臣の私宅を包囲させたのでした。

倉山田右大臣は驚いて私邸を脱出して山田寺に逃げ込みました。

このころは何か事が起こると人はよま寺に逃げました。山背大兄皇子も蘇我氏に襲われたとき斑鳩寺に籠もっています。

なにゆえ寺に逃げたのかと言えば、この当時の寺は一種の要塞だったからです。ほとんど寺はもみな周囲を石垣で囲い、楼門があり、立派な堂屋が立ち並び、防禦のためには有力な拠点になったのです。ですから何か起こると寺へ逃げて立て篭もり寺を盾に戦争するわけです。

この場合も倉山田右大臣は寺へ脱出しました。

しかし、攻撃軍が強大で到底敵わないと見た倉山田右大臣は妻子八人とともに抵抗することもなく自害して果てたまのです。倉山田右大臣は「皇太子も怨みはすまい」と言って果てたといいますが、追っ手は熾烈にも右大臣の首を斬りとり、それを串刺しにして雄たけびをあけだと言います。

しかも、この惨劇後も右大臣の謀反に加担したとされた二十三名が連座して殺害され右大臣派は一掃されたのです。

事件が終わり、右大臣派が一掃された後になって、倉山田石川麻呂には謀反の意思が全く無かったことが明らかになりました。日本書紀によれば、倉山田石川麻呂は自分の持ち物にさえ皇太子の名前を記し私心なく中大兄に仕えていたのです。

皇太子中大兄は讒言をした蘇我臣日向を九州に左遷して事件を糊塗し、ひたすら航海したと言いますが後の祭りでした。

 

註 山田寺

  奈良県櫻井市山田にある法相宗の寺址。蘇我倉山田石川麻呂り発願で641年、舒明十三年、から678年、天武七年に建立。天王寺式伽藍配置で塔跡の北に金堂跡、その北に講堂跡がある。

中臣鎌足の独裁政治

いまわしい事件が終ってみれば、ただ一人中臣鎌足だけが政権の中央に残っていました。あっという間に左右大臣を失って臨時政権は崩壊し、ただ内大臣として残存した中臣鎌足がそのまま一人で位にとどまっていたのです。結果を見れば、鎌足にとっては理想的なかたち、三頭が一頭という状態になっているわけです。鎌足はこれ以後、名実ともに一人で政権を掌握し、思いのままに政治を操るのです。

こうしてクーデター以後、五年足らずで鎌足の野望は完全なかたちで実現しました。そしてこの事実は、蘇我独裁体制に代わって鎌足の独裁政治が出現したことを意味するほかありません。

ただ、蘇我独裁体制と鎌足の独裁政治はその形式においては全く異質です。蘇我氏は氏姓制度の社会、つまり土地と人民の私有という社会体制の中でのし上がってきて権力を握り、天皇を操ったのですが、鎌足の場合は新しい国家体制、つまり中央集権的な律令国家体制の中で、天皇権の強大化を避けながら巧みに利用し、自分は官僚として実権を掌握したのです。