第38講 太子の出生伝説
聖徳太子の異常出生説話
太子出生にまつわる感生伝説
「日本書紀」「推古天皇記」元年四月十日条には、「厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子に立て摂政として万の政をことごとく委ねる」と記された後、太子の系譜とその出生について次ぎのような記述があります。
「聖徳太子は橘豊日天皇(用明天皇)の第二子なり。母の皇后は穴穂部間人皇女という。皇后、懐妊開胎さむとする日に禁中を巡行して、諸司を監察す。馬官に至り、厩の戸にあたって、労まずして忽に産む」
即ち、聖徳太子の母である間人皇女が、産気づかれながらも所用があって宮中を巡行されたとき、ちょうど馬の司の所に来て厩の扉に体が触れたとたん、それに感じて忽ちにして何の苦痛もなく太子を分娩されたというのです。
この話を厩戸皇子の名前の由来を説明するための説話であるとする説もありますが、私は異常出生を伝える感生説話の一種であると考えます。
異常出生説は東アジアの諸民族の間に共通してみられる伝説の一類型です。始祖伝説に登場する聖人や英雄などは、往々にして一般の人間の出生と異なっていたとする説話がつきまとっています。「物に触れて感じて生む」というよう感生伝説とか、「神と人間の間に生まれる」という神婚伝説と称されるような一般人と異なる出生についての伝承が付け加えられているのです。それらを総括して異常出生伝説と名付けています。
我が国の伝説にも、そうした東アジア諸民族間にみられる異常出生説話が非常に多いのですが、聖徳太子の出生説話もこの類型伝説の一種とみられます。
異常出生説話は何を意味するか
聖徳太子の異常出生説話に関して、かって久米邦武博士は、仏教徒間にす既にその当時、キリストの降誕説話が知られており、その説話が日本にも伝わり、その伝聞を聖徳太子の伝説に付会されたのだという解釈を示されていました。
しかし、キリストの降誕神話と直接関係があるわけではないのです。太子はキリストのように厩の中で生まれたわけでなく、母親の体が少し厩の扉に触れたときの霊感によって忽ち安産されたというのです。キリスト教の伝説とは本筋が違います。
また津田左右吉博士は厩戸皇子という名にちなんで後から説話がつくられたのであると言っておられます。しかし、これも適切な説明とは言えないと私は思います。
私は、これは感生型の異常出生説話であって、太子の神聖性を説こうとするための説話であると考えます。母である皇女が物に触れて受けた霊感によって分娩された、つまり何か神聖な力が関与した出生であって、生まれてきた皇子は一般人とは異なる資質の持ち主なのだということを強調しているのです。
神童・厩戸皇子
聖徳太子がどのように普通の人と異なる資質を持っていたのかと言う点について、「推古天皇記」は異常出生説話に続けて「太子は、生まれて能く言う。聖の智有り。壮に及び、一たびに十人の訴えを聞きて失ち勿く能く弁う。兼ねて未然のことを知る」と記述しています。
即ち、聖徳太子は異常出生によって生まれてきた何か真性なる資質の持ち主であるので、当然のように「生まれてすぐよく言葉を話した」という神がかり的な能力をもっていたことが語られるわけです。そして、その神聖なる能力のゆえに、壮年になって十人の訴えを一度に聞いても誤りなく判断する能力を持っておられたという聖徳太子を殆ど神的な存在として位置づける記述になるわけです。
こう見れば、異常出生説話は太子の神がかり的な能力の必然性を根拠づけるためのものであり、出生説話と資質に関する説話は太子の神聖性を説明するための一連の説話として理解すべきものです。
そして、厩戸皇子という名も、この異常出生説話に起因した命名であり、また太子の生年と崩年がともに午年になっているのも、「日本書紀」の編者が馬に関連する太子の出生に因んで後から紀年上に配分したものと考えるべきものです。
従って、津田左右吉博士のように厩戸皇子という名前から厩に関する出生説話がつくられたのだとするのは全く逆であって、出生の異常性を伝える説話が先にあってその説話を基にして厩戸皇子という名前が付けられたものと解釈します。
なぜ異常出生説話があるのか
「日本書紀」はなにゆえに聖徳太子の異常出生説話を記述したのか。その狙いはどこにあったのでしょうか。
今、見てきたように太子の異常出生説話は主として太子の資質、その能力が神聖なものであることを強調しているわけです。生まれながらに言葉を話され、一度に十人の訴えを聞いてもそれぞれに誤りがない判断を下され、将来のことも知っておられた、つまりは太子のなされることは神的な能力から出たものであり決して誤りはないのだということが強調されているのです。
そして、この太子の誤謬のない神聖な能力は、当然、その政治にも誤りがないのだということを暗に主張していることになります。即ち、太子の行った政治改革、それは一言で言えば律令国家の礎となった政治ですが、その政治は太子の神聖なる決して誤ることのない能力によって推進されたものであるというわけです。
極言すれば、律令国家体制は正に神聖なる国家体制であり、その体制には決して誤りはないのだということが異常出生説話などが強調する太子の神聖性から根拠づけられることになるのです。
日本書紀の編纂期は、まさに律令国家体制の完成期でした。そして、日本書紀は天皇の神聖性をうたいあげ、朝廷の権威を不動のものとして位置づけるとともにも一面では、律令国家体制の正当性を裏付ける歴史書でもあります。そうした日本書紀の編纂者たちにとつて、律令国家体制の礎となった太子の政治は、まさに誤りのない神聖性あるものとして認識されるべきものだったのでしょう。
少なくとも私は、そうした日本書紀の編纂期における意識が太子の異常出生説話に滲み出ているように思います。決して太子の治績は過小評価すべきものではありませんが、さりとて神聖なるものとして全く批判を許さないものでもありません。いわずもがなのことかもしれませんが、戦前の皇国史観が古代史を歪めてしまったように、聖徳太子の神聖性に目をくもらされては聖徳太子像とその政治を正しく理解することはできません。太子の異常出生説話やその神かがり的な能力について、まず私はここで述べたように客観的批判を加えておくことが必要でしょう。