優れた祖先を、知るべし、学ぶべし「索引」6 

平成22年6月度

 1日

南方 (くま)(ぐす) 
1867-1941.

博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者、別名「歩く百科事典」

翌年から明治となる1867年、熊楠は和歌山市の金物商の家に生まれ、6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛、植物採集に熱中し山中で数日行方不明になり、人々は天狗にさらわれたと噂し、「天狗ちゃん」と彼は呼ばれた。
 2日 7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。中学に入学。知識欲はさらに増大し町内の蔵書家を訪ねては百科事典『和漢三才図会』 (全105冊)を見せてもらった。
まだコピー機などない時代であり、熊楠は内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本した。
 3日

1884年(17歳)、熊楠は大学予備門(現・東大)に入学。同期に夏目漱石、正岡子規、クラスには幸田露伴。地方から出てきた熊楠は、

上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものがいっぱい!」と鼻血が出るほど興奮し、大学そっちのけで通いつめた。
 4日 米国で植物学者がキノコ・粘菌などの「菌類」を6千点採集したというニュースを聞くと、がぜん対抗意識を燃やし「自分が記録を塗り替えてやる」。 そんな有様なので当然学業の成績は急降下。
翌年に落第した、良い機会”と自主退学し、田舎の親を仰天させる。
 5日 1886年(19歳)、実家に戻った熊楠は「学問はアメリカの方が先を行ってる!」と父に渡航の意義を力説。だが、明治維新からまだ間もない時代、親にしてみれば国外に行くのは永久の別れも同然。“無茶を言うな”と大反対。 しかし、熊楠は8ヶ月にわたって熱弁をふるい続け、ついに親も根負けした「行って来い!」。
12月22日、横浜から米国に向けて出航!
半月後にサンフランシスコへ無事着。19世紀のアメリカで20歳の若者が一人暮らしを始めたのだ。恐るべき行動力。
 6日

熊楠はシカゴからミシガン州に至る。同地の州立農学校を受験しこれに合格。しかし翌年、学生5人でウイスキーを飲み

泥酔した熊楠が寄宿舎の廊下で爆睡しているところを校長に発見され放校処分。以降独学し、頻繁に山野へ出かけ、植物採集などフィールドワークに汗を流した。
 7日

この過程で粘菌の魅力にとりつかれていく。1891年春(24歳)、知人の研究者から「フロリダは新種の植物の宝庫」という情報を聞くと居ても立ってもいられ

ず、顕微鏡など研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道でフロリダへ。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になりつつ、ひと夏の間採集を続け、秋に南端のキーウエストからキューバに渡った。
 8日 「キューバには日本人はいないだろう」と思っていたら、首都ハバナで公演中のサーカス団に日本人がいてビックリ。両者は意気投合し、熊楠も一座に加わった。 象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米の巡業を共にした(この間も各地で植物採集は続けている)。
 9日 イギリスへ 1892年秋(25歳)、米国滞在の6年間、標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡る。 9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンへ到着。ロンドンで弟の手紙を受け取った熊楠は、優しかった父が夏に病没していたことを知り絶句する。
10日 26歳、下宿で標本整理を続ける一方、天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。 「ミナカタ」の名は一躍知られるようになり、その後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介される。 
11日

熊楠は連日のように大英博物館へ足を運び、気に入った本から書き写した。この頃の熊楠は「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と、人類学、民俗学、宗教学に強く関心を寄せている。

筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』は52冊に及び、紙代を節約する為に小さな字でぎっしり埋め尽くした。 
12日 後年の熊楠は18ヶ国語を操ったと言われ、このぶ厚い『ロンドン抜書』でも、英・スペイン・ギリ シャ・ラテン・仏・独・伊・ポルトガルなど8種の言語で書かれている。
13日 大英博物館の図書部長は熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼した。
彼は大英博物館東洋調査部員となり同館展示品の仏像名を考証するなど様々な形で東洋美術に関る。
冗談好きの熊楠は、袈裟を着た僧侶姿で働くなど(訪英中の高野山管長から貰った)、茶目っ気のあるところも見せた。
当時の彼は亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。
14日

しかし順調なことばかりではない。欧州では東洋人への蔑視がひどく、気の荒い熊楠は屈辱を受けると腕力で返事をした為に、何度も騒動を起こしていた。人類学に造詣が深い彼としては、馬鹿げた人

種差別を人一倍許せなかった。30歳の時には館内で英国人を殴りつけ、一ヶ月間入館禁止になり、翌年にも声高の女性を注意した際に騒ぎになり、とうとう博物館を追放される。
15日 その後は、翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いだが、ついに困窮極まり8年間過ごした英国と別れ、日本への帰国を決意した。
1900
年9月1日午後4時、テムズ川から船は出航した。
日記には短く「夜、しばらく甲板に出て歩く」。熊楠、ときに33歳(この翌月、熊楠と入替わるように日本の国費留学生第一号、即ち夏目漱石がロンドンに到着している)。
16日 14年ぶりの帰国
19001015日、神戸港に到着。14年ぶりの日本。出迎えた弟はボロを着ている兄の姿に仰天し、何の学位もとらずに書物と標本だけ持 ち帰ったことを知り唖然。和歌山への帰郷後は酒屋を営む弟宅(那智勝浦)に一ヶ月ほど身を寄せ、「長く日本酒が呑みたかった」と毎日浴びるように大酒した。
17日

一呼吸つくと日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出した。

1901年(34歳)、訪日中の孫文がはるばる和歌山の家まで遊びに来てくれ、2人は思い出話で盛り上がった。
18日 那智で苔の採集中に小畔四郎という青年に出会う。彼は熊楠の半生を聞いて腰を抜かし、すぐに門弟となった。 彼は船会社に勤めており、各国の寄港地で採集した標本を熊楠に送ってくれた。
19日 これら熊野地方での植物調査は足掛け3年に及び、植物や昆虫の彩色図鑑を作った。また世界の古典文学を読みまくり、 鴨長明の『方丈記』をロンドン大総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み完成させた。孫文やロンドン大総長との交流のように紀州にいてもインターナショナルな熊楠だった。
20日

1904年(37歳)、和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。お寺(和歌山市円珠院)に寄宿した時期もあったが、彼がキノコや藻・苔類などを大量に部屋に

置き、身だしなみも無頓着で不潔だったので寺が悲鳴を上げ、出て行くことになった。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。
21日 1905年、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。これが英の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知された。
1906
年(39歳)、神社宮司の娘・松枝と結婚。翌年、長男熊弥(くまや)誕生。赤ん坊を見た熊楠は「児を見て明け方
まで眠れず」と日記に歓びを刻んだ。生活が落ち着くと採集活動を再開した。田辺周辺で山に分け入り、道に迷って野宿したり、珍しい植物を発見して歓声をあげながらブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性達が天狗が出たと思って逃げ去った等、様々なエピソードが伝えられている。
22日 いつの時代にもバカな日本人がいる 1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出した。 この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減した。
しかもこれにはビジネスの側面もあった。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのだ。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。
23日

熊楠は激怒した!樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあった。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に

回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。
24日 当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁だ。熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、 祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、鎮守の森の破壊は、心の破壊だと憤慨した。
熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を舌鋒鋭く攻撃した。彼は国内の環境保護活動の祖となった。
熊楠が守ろうとした紀州・熊野古道の木々は樹齢800年)。
25日 1910年(43歳)、熊楠は合祀派の県役人が田辺高校の教育講習会に出席することを知り、直談判すべく会場を訪れる。しかし面会を拒否され、植物標本の入った布袋を会場へ投げ込んだ。 彼は「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間拘留された。でも、熊楠はどこでも熊楠。拘置所で珍しい粘菌を見つけた彼は、釈放を告げられると「もう少し置いてほしい」と言い出ようとしなかったという。
26日

1911年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男(民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えた(柳田は熊楠の家に話を聞きに行った)。

この頃から自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関するものも大量に書き始める。
1912年(45歳)、熊楠の猛烈な抗議運動がやがて世論を動かし始め、和歌山出身の議員が国会で合祀反対を訴えた。
27日 1915年(48歳)6年前にアメリカ農務省から省内に入って欲しいと要望書が届いていたが、ちょうど合祀反対運動の開始時で返事をしなかった。すると、この年にわざわざアメリカから農務省の役人が田辺までやって来て、再度の渡航要請をした。しかし彼はまだ反対運動が続いていること、家族のことを考えて辞退した。 この米国農務省の一件は、日本社会に熊楠がどれほどスゴい男・世界的博物学者なのか知らしめた(熊楠は海外では有名だったけど日本では無名に近く、近所の人も変わり者の親父と思っていた、笑)。1917年(50歳)、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見し、英の学会で「ミナカテラ・ロンギフェラ」(ミナカタの長い糸)と学名がついた(和名・ミナカタホコリ)。
28日 1920年、10年間の抵抗運動がついに実を結び国会で「神社合祀無益」の決議が採択された。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努め るようになる。世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、僕らが姿を見ることが出来なかった巨木(樹齢800年の杉等)がたくさんある。
29日 最後まで全力疾走 1925年(58歳)、熊楠は数年前から「南方植物研究所」の構想を練り、建設資金集めに奔走していた。この年に寄付を求める為に書いた「履歴書」が、超密度の濃い人生を象徴するかのように7m70cmという長大なもので、巻紙に細字5万5千字で書かれており、世界最長の履歴書と言われている。 翌年には資金作りの為に『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』という3冊の著書が刊行された。海外への論文は何度も書いてきたが、国内に向けた一般著書はこれが初めて。
59歳での初出版となり、人々は随筆に書かれた熊楠の博識に感嘆した。
30日 御前講義 1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。「アッ」現場にいた者は全員が困まったが、この場はそのまま無事に収まった。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。
後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。
1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。
1933
年(66歳)、白浜の御船山神社境内に天皇の行幸を記念した博物館設立が決まると、「神社に博物館を置くのは文化の破壊」と民俗学者として反対運動を展開し中止させた。翌年、神島の自然を保護するため、島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物の申請書を提出。2年後に政府から認定された。