大伴旅人 愛妻思慕の人
平成20年6月度
1日 | 旅人は名門貴族 |
安麻呂の長男であり、家持の父である。坂上郎女の異母兄。万葉集には大宰帥大伴卿・大納言卿などの敬称で現れ、自らは書簡文に淡等と署名し、「旅人」の名は一度も見えない。続日本紀には「旅人」「多比等」とある。 |
和銅三年(710)、元旦朝賀において左将軍として騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いる。同七年、父を亡くす。同八年正月、従四位下より従四位上に昇叙される。同年五月、中務卿に就任。養老二年(718)三月、参議を経ず中納言に昇進する(中務卿留任)。名門貴族である。 |
2日 | 旅人の経歴 |
養老二年、長男家持生誕か。同四年三月、征隼人持節大将軍として九州に赴任。同年八月、右大臣藤原不比等が薨去し、勅命を受け京に帰還した。養老五年、従三位。 |
同年十二月七日、元明上皇が崩御、翌日陵墓の造営に当たる。神亀元年(724)二月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙される。同年三月、吉野行幸に従駕し勅を奉じて歌を作るが、奏上には至らなかった。神亀四年(727)末か翌年春頃、帥として大宰府に赴任。 |
3日 | 愛妻は大伴郎女 |
以後、山上憶良ら文人と交流。翌年五月、正妻の大伴郎女を失い、報凶問歌などを詠む。天平二年(730)正月、大宰府の帥邸において梅花宴を開催する。同年十月、大納言を拝命し、やがて帰京。 |
同三年正月、従二位に昇り、当時の臣下最高位となる。同年七月二十五日、薨ず。六十七歳。所謂、筑紫歌壇の中心人物。『懐風藻』にも名が見え、五言一首を載せる。勅撰和歌集への入集は新古今以下に13首。 |
4日 | 二人の名だたる歌人が筑紫に |
旅人は、神亀4−5年頃、大宰帥として大宰府にあり九州探題であった。部下には5ッ年上の筑前守・山上憶良もいた。 |
旅人は筑紫に着任して直ぐ愛妻を失った。旅人、63−4才の頃である。望郷の思いに駆られた上の愛妻喪失であった。 |
5日 | 望郷 |
「わが盛り また変若めやも ほとほとに 奈良の京を 見ずかなりなむ」 巻3−331
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「泡雪の ほどろほどろに 降りしけば 平城のみやこし 念ほゆるかも」巻8−1635 海路1ヶ月の奈良の都の望郷歌である。ほどろほどろ、積もる雪景色の胸に染み入る感あり。 |
6日 | 愛妻を喪う |
筑紫に着くと直ぐ、旅の疲れもあったのかも知れない、直ぐ愛妻を喪った。神亀五年六月二十三日に 「世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり」 |
歌さえ作れない衝撃の時が過ぎていたようである。 |
7日 | 三年後の佐保も |
在りし日の妻の思い出は吐息のようであった。三年後の天平3年12月、旅人が大納言となり平城の都は佐保の家に帰った時も、捨て鉢のようで、変わらない。 |
「なかなかに 人とあらずば 酒壷に なりにてしかも 酒に染みなむ」 巻3−343 |
8日 |
亡妻思慕のやるせなさ |
松浦河に遊ぶ序「松浦仙媛の歌」 「・・花の容双び無く 光れる儀匹無し。柳の葉を眉の中に開き 桃の花を頬の上に発く」 |
女人を見て神女かと空想し その神女と恋をしたらどうなるか、遂に玉島川の上流の景観の中に、「漁する 海人の児どもと 人はいへど 見るに知らえぬ 良人の子と」男が訴えた。 巻5―853 |
9日 | 亡妻思慕が転じて |
男の訴えに女人は歌う、 「春されば 我家の里の 河門には 年魚児さばしる 君待ちかてに」 巻5−859 |
亡妻思慕が転じて、恋のユートピアの世界を歌で描いた。 |
10日 | 松浦佐用比売の悲恋物語 |
「遠つ人 松浦佐用比売 夫恋に 領巾振りしより 負へる山の名」巻5−871 |
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11日 | 最々後の人追ひて和ふ歌二首 |
「海原の 沖行く船を 帰れとか 領巾振らしけむ 松浦佐用比売」 |
「行く船を 振り留み兼ね いかばかり 恋しくありけむ 松浦佐用比売」 巻5−875 |
12日 | 大宰府梅花の宴 |
大宰帥の旅人は、天平2年1月13日、66才、九州全土の国守を集めて「梅香の宴」を催した。 |
「時に初春の令き月、気淑く風和み、梅は鏡の前の粉を披き、蘭は珮の後の香を薫らす」の序の一節。 |
13日 | 風雅・風流貴族の旅人 |
そして歌う「わが苑に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも」巻5−822 |
この梅香の宴は、老年、大宮人の天ざかる鄙の徒然なのであろう。 |
14日 | 佐保への帰途、鞆の浦 |
天平2年11月、旅人は大納言に昇進、12月には平城京は佐保の大伴邸に帰った。途中、瀬戸の鞆の浦の「むろの木」を見て亡妻思慕を募らせた。 |
「吾妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人そ無き」 巻3−446 |
15日 | 京や佐保に向う時にも |
「京師なる 荒れたる家に ひとり宿ば 旅にまさりて 苦しかるべし」 |
「人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり」 巻3−451 |
16日 | 尽きない愛妻思慕 |
亡妻を思う日々は続いている。ぼつぼつ佐保の家の梅の木も咲くころであろうかと・・ |
「吾妹子が 植えし梅の木 見るごとに こころむせつつ 涙し流る」 巻3−453 |
17日 | 庭の木々は茂り・・ |
妻が亡くなってから手入れしていない庭中の木々は木高く茂りに茂ってしまったが生きている木々、だが。 |
「妹として 二人つくりし わが山斎は 木高く繁く なりにけるかも」 巻3−452 |
18日 | 望郷歌 |
旅人は、大宰府の都府楼で、大和の吉野川を偲び望郷の歌を残している。だが、その象の小川は再び見ることなく、67才の生涯を終えた。 |
「わが命も 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため」 |
19日 | わが行は 久にはあらじ |
「わが行は 久にはあらじ 夢のわだ 瀬にはならずて 淵にあらぬかも」 巻3−335 |
筑紫で喪った妻への思慕は終生のものであった。旅人の筑紫の歌の数々の底を流れていたのは亡き妻への募る思いであった。 |
20日 | 都府楼 |
大宰府政庁跡のこと。古くから都府楼の名で知られてきたこの地域は、日本書紀によれば、天智二年(663年)
唐・新羅の連合軍と白村江において百済と共に戦って大敗した我が国が大陸からの侵攻
に備え、博多の那ノ津(当時は官家と呼ばれ現在の |
所)にあった大宰の府(九州一円の統治の拠点であると共に、対外交渉を掌る役所)を移した ところである。大宰府をこの地に置くと同時に、百済からの亡命者の指導により北面の四王寺山に大野城、 南面の基山に基肄城(きいじょう)を、平野部には水城を築いて大宰府を防衛した。 |
21日 |
吉野の歌 象の小川 喜佐谷川 |
吉野山を水源に象山の麓を流れ吉野川に流れ落ちる川が「象の小川」喜佐谷川である。 |
象の小川は、吉野の金峰山と水分山から流れ出た川が合流した川で、喜佐谷の岩の間をぬうように北上し、桜木神社の側を通って、宮滝で吉野川に流れ込む。 |
22日 | 旅人唯一の長歌 |
神亀元年頃「暮春の月、芳野離宮に幸せる時、中納言大伴卿、勅を奉りて作れる歌一首並短歌 いまだ奏上を経ざる歌 |
「み吉野の 芳野の宮は 山からし 貴かるらし 川からし 清けかるらし 天地と 長く久しく 万代に 変わずあらむ いでましの宮」 巻3−315 |
23日 | 反歌 |
「昔見し 象の小川を 今見れば いよよ清けく なりにけるかも」 |
吉野離宮は |
24日 | 帥大伴卿、遥に芳野離宮を思ひて作れる歌一首 |
「隼人の 湍門の磐も 年魚走る 芳野の滝に なほ及かずけり」 巻6−960 |
隼人の 湍門とは薩摩の瀬戸のことで、現在の「黒ノ瀬戸」。 |
25日 | 再び愛妻思慕の歌 |
「愛しき 人の纏きてし しきたへの わが手枕を 纏く人あらめや」 巻3−438 |
「妹と来し 敏馬の崎を 還るさに 独りし見れば 涕ぐましも」 巻3−449(敏馬の崎は神戸、京への帰途) |
26日 | 妻なき空しさ |
「人もなき 空しき家は 草枕 旅にまさりて 苦しかりけり」 |
一瞬、一瞬に、妻の亡き空しさをかこつのであった。同時に望郷の思いとして、野の水の清さを、一瞬たりとも忘れることができない旅人であった。 |
27日 | 妻との思い出 |
「松浦河 河の瀬光り 年魚釣ると 立たせる妹が 裳の裾ぬれぬ」 巻5−855 |
「松浦なる 玉島川に 年魚釣ると 立たせる子等が 家路知らずも」 巻5−856 |
28日 | 大伴旅人とは |
父親は大伴安麻呂、代々宮廷を守ってきた生粋の貴族である。とかも学問がとても深く、詳しく教養豊かな人物。だから九州は、将に「天離る鄙」なのであった。 |
当時、都では、藤原氏がぐんぐんと頭角を現していた。名家・大伴家は没落しつつあった。もとより歌聖・家持は息子。 |
29日 |
酒を讃える歌 |
「天離る鄙」で、愛妻を亡くしてからの日々、そして都での藤原氏の興隆、やりきれぬ思いは「酒を讃むる歌」なのであったろう。 |
「験なき 物を思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし」 巻3−338 |
30日 | やりきれなさ |
「この世にし 楽しくあらば 来む生には 虫にも鳥にも われはなりなむ」 巻3−348 |
この世さえ良ければ、来世は、虫だろうが鳥になろうと構うものか」となるのであった。 |