徳永の「仏教って、なあに?」

はじめに 一夜賢者経

釈迦に「一夜賢者経」というのがあります。それには、

「過ぎ去れるを追うことなかれ。いまだ来たらざるを(おも)うことなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。されば、ただ現在するところのもの、そのところにおいてよく観察すべし。揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、それを実践すべし。ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。たれか明日死のあることを知らんや。まことに、かの死の大軍と、()わずというはあることなし。よくかくのごとく見きわめたるものは、心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん。かくのごときを、一夜賢者といい、また、心しずまれる者とは言うなり。

「ただ現在するところのもの、そのところにおいてよく観察すべし」。   

本当にそうですね、

「明日のことは考えない、今日の私を生かしきれば、よいのでありましょうか。

聖書にも、「明日のことを思い煩うな、野の鳥を見よ」とか「一日のことし一日にて足れり」

こんなことを思っては現実的に日々、生きています。

そして、徳永圀典は

「命とは、動くことと見つけたり」でありまして「身体は、なまけるもの、なまけないように」と日々努めています。

それでも、日々「死へまっしぐら」それが「生あるものの定め」

太陽さえ五十億年後には大爆発、地球はその数億年前に大爆発する。大自然の産物は全てそうであります。お賽銭で自分だけ極楽にはナンセンス。さて、ご縁あり、この大自然で邂逅したお互いに熱い思いを抱き続けていています。

                           平成3061

1日  1-日本仏教概観 

日本の仏教は、インド発祥からシナ大陸を経て渡来したが、世界の仏教のメッカの如き絢爛たる仏像を抱いて、華麗なる古刹寺院が古代から樹林帯の如く奈良、京都を中心に全国に存在している。                                                                 古代仏教は、個人の魂の救済と申すより、鎮護国家を目的とし為政者向きであった。    個人の霊魂救済は、鎌倉時代から戦国の世の中を迎えて庶民が食うや食わずの現世になり戦乱の時代の中で、途方に暮れ、生きるに絶望の様相であった。そこに日本仏教の開祖である、祖師達が現れ庶民救済に街頭進出して布教を始めて、現在仏教の宗派を開いた。お題目、南無阿弥陀仏の法然・浄土宗、南無妙法蓮華経の日蓮・日蓮宗、南無大師金剛遍照の空海・真言宗などなど、お題目を唱えれば、来世はお浄土に行けると説いたのである。それしか、当時の庶民を救済する手立ての無いくらい現世は絶望状態であったのだ。

2日  

信教の不自由性の根源

 徳川時代となり政治的には安定したが、徳川家康は、一向宗に翻弄され宗教の怖さを自覚した。家康の家老が殿様の家康より一向宗に従ったからであった。だから徳川幕府は、江戸時代になると、それまで仏教布教により生き抜いてきた僧侶たちに、戸籍代わりに地域のお寺として僧侶を貼り付けた。これにより坊主たちは布教なくして生活が安定し遂に妻帯可能となり今日に至っている。我々の祖先の墓地は当時から寺の所有であり、言うなれば墓地の石碑を担保に取られた状態で、「信教の不自由」を蒙っていると言える。 徳川家は浄土宗であり、本来は天皇家より一度だけ下賜される大師号を浄土宗開祖法然は50年毎に大師号を下賜される約束を得ており今日までその約束は履行されてきている。法然は大師号を5-6下賜されている。あのシナ大陸より渡来した唐招提寺の開祖・鑑真和尚は、大師号の授与は21世紀の今日まで行われていない、これも不思議なことである。
3日  絢爛豪華の袈裟に関する「一思考」 人間の霊魂救済になぜ、和尚は絢爛豪華の袈裟を羽織らねばならぬのであろうか、不思議に思う人も多かろう。古代の鎮護国家仏教の時代は、金堂の大規模な、数々の装飾は、とても有難みがあり古代人は、そのハッタリに度肝を抜かれる思いに打ちひしがれて平伏し、拝礼したであろう。 曹洞宗の道元開祖は、終生、墨染めの衣で過ごされた。私は、これこそ、宗教者としての態度であると確信する。そして道元は、「只管打坐」と仰せられた。この哲学にも私は諸手を挙げて賛同する。
 6月4日  宗教は、どうあるべきか  現在は、享楽本位の世間となり、現世は、精神的に惨憺たる荒廃の世の中である。霊魂的には末世である。かかる時に、果たして、現代のような葬式仏教、あるいはお布施宗教のままで良いのであろうか。これらの疑問が宗教界から少しも出てこないのも嘆かわしい。寺の住職のビジネス業のような運営に疑問を持たぬのであろうか。寺の清掃は業者任せ、せめて私生活の玄関口くらい、住職が、丁寧に日々朝晩、掃き清めるようであればまだ救われる。私はそれは住職の「現代的最低の修行」だとさえ思うのだが、自宅玄関前の草、茫々、時鐘を鳴らすのは自動、これは本当にビジネス仏教と言われても致し方ない。日本仏教の開祖のように街頭に進出、現代ならさしずめ東京は新宿に、大阪は道頓堀に、盛り場に出て、10代の少女たちに、心の、魂の覚醒を、彼ら未成年に訴えるような坊主が現れて欲しいのである。どれも、これも、ぬくぬくと豊満な坊主が、数珠をつけてテレビで仏像を美術者のように解説するなど最低に見苦しい。実に、末世の日本である。真の宗教者よ、現れよと叫びたい。
 5日  

極楽・あの世「一思考」

太陽系の一つである地球。太陽は年々肥大し、50億年すると爆発し消滅するという。そうなると地球はその数億年前には過熱化して動植物、地球の生き物は絶滅している。
これを、別の表現でとらえれば                                                        1.    人間も他の動植物も大自然の存在としては「同位」にある。                       2.    人間のみ太陽大爆発の時に救われることはあり得ない。             
3
   この事実だけから思考しても「あの世」は無い。
 6日  現世を極楽浄土にするのが宗教 上述の思考から帰納すると、生きている時にこそ我々は浄土にしなくてはならぬのである、娯楽にしなくてはならぬのである。これが徳永圀典の「仏教理」である。
 7日  煩悩とは奇妙な言葉 その生身の人間は、本来、理性的そのものではあり得ない。肉体は、感情の支配要素が高い。理性は属性かもしれない。人間は煩悩の塊りそのものかもしれない。例えば、性欲があるから子供が生まれる。食欲があるから生きておられる。これらを煩悩というが、煩わしい悩みとは実に奇妙な言葉であり、悩みどころか、人間の「根源的人間要素」なのである。これなくして人間はあり得ないのだから。煩悩なんてものではなく、性欲も食欲も人間の本質そのものである。以上を、大前提として私の仏教理を開陳する。
 8日  生身の人間のもつ三つの核心要素 生きている人間は、生の「身」を持つ、そして「口」を使い会話して生きるのだが、中でも「口」、これが実は大変な曲者である。87才まで生きてきて経験的に思うことがある。人よりあと5度深く頭を下げる、5秒長く下げる。挨拶が常に控えめで丁寧であった方、これが出来る人は実力以上の立身出世をしているなということであった。
 9日  宗教の核心は「意、すなわち心」  .身」のこなし方で幸運も悪運も招く。ものの言い方、「口」は災いの元の言葉でもあるが、言い方次第で人間環境は、良くなるのも事実である。運命の好転さえもたらす。そして「意」、心である。心次第で、これまた幸不幸が分かれる。一切は心より転ず、心は巧みなる絵師の如し、これは仏教に由来する。幸いなるかな、心の清き者、汝は神を見んとはキリスト教である。どうやら宗教の核心は「意、すなわち心」に在ると私は見ている。
 10日  その重要ファクター三つ。 一、「(しん)であり  二、()であり、  三、()である。           この三つは、人間の本来持つ「(ごう)」なのである。私は、この三つ「身・口・意」=「しんくい」の養生、即ち、留意し、慎むことにより、本来の煩悩の持つ弊害を抑制させることが可能となるのだと思う。仏教はこの三つを「(ごう)」と判定している。これがポイントではなかろうか。
 11日  良い人生のために 自業自得、これは釈迦の教えでもある。自業の業は行為のこと。自業自得とは行為のことである。善い業は善業、悪い行為は悪業、自業自得とは「自分のした行為に責任がある」ということとなる。
 12日  自分の良い人生を築くためには、  であるから、自分の良い人生を築くためには、                                        一番目に「自分の行為に責任を持つ」こと。行為とは「身業(しんごう)」、「身のこなし方」となる。                                                                           二番目に「口業(くごう)」、「ものの言い方」、そして                               三番目に「意業(いごう)」、「心のはたらき方」となる。
 13日  本当のお釈迦様の教え  この三つの行為、三業により、自分の人生が、善悪双方にも作られてしまう。この三つで人生の自分史が積みあげられることとなるわけです。                                  ただ神仏にお経をあげるだけでは、どうにもならぬのです。お賽銭を幾ら出しても、この三つを養生しなくては具体的なものは得られないこととなる。これが本当にお釈迦様の教えなのです。
 14日  

身・口・意の具体策その一「身業」

では、どのようにして三業を整えるのか。                                            「身業」、身のこなし、であります。自分の身体を身軽に、仕事や、他の人の為に、小まめに動かす。骨惜しみしないことであります。陰ひなたの無いこと、誠実な生き方とも言えます。そうすると自然に周囲から信愛される境遇となり良い人生を得られるのではないでしょうか。
 15日  その二「口業」 ものの言い方です。三業の中で最高に、善も悪も、最高に多くの結果、影響を与えるものであります。恐ろしいのが「口業」だと思います。言葉は死にません。悪口や、愚かな発言、嘘は計り知れない影響を永遠に残します。反対に、誠実な言葉、良い言葉は「口の善業」となります。口から出た言葉。これが一番怖いのです。言葉は消えません。善い言葉は良いが、悪い言葉は、永遠に消えず相手に残ってしまいます。口業、言葉の徳を大切にしたいものであります。幸運も悪運も言葉次第かもしれません。
 16日  身・口・意の奥底にあるものこそ宝石それは「謙虚」

それは、「謙虚さ」であります。謙虚さが心底にありますと、言葉にも態度にも現れてしまいます。謙虚さがあると、自然に心のこもった挨拶、態度、言葉遣いとなります。  「つつしみをおのが心の根とすれば ことばの花はみごと咲くなり」白隠禅師の歌です。
17日  有ること難し 人間は必ず死ぬ、釈迦の言われた通り、人間は「生きて、老いて、必ず病気になり、苦しんで、死ぬ」まさに、「生老病苦死」の存在です。明日の事は分からぬ存在だからこそ、今日の有ることが難し」なのです。この思いが背景になければ、宗教も釈迦の教えである仏教は本当の核心は理解不能であろう。 さらに言えば「人間、生きるとは本質的に残酷」なものであります。生き物は、人間は「肉体的苦から死ぬまで逃れられない」。精神的苦は修養で救われる、宗教の役割はここにある。
 18日  命ある者の有限
正に有ること難し

だから、有ること難し、有難うの語源です。仏教から出ています。現在、こうして生きて有ることの難い、稀なこと、の意味ですね。法句経にあります、「やがて死する者の、いま命あるは難し」と釈迦は説かれています。いのちの厳粛さに対して謙虚に向き合うと「まさに今有ること難し」、これを有難うと受け止めるのです。そこに謙虚な自分を発見できます。そうすると、すべてに向く眼が違うことに気がつきます。全てが有り難い、こととなり、そこに命ある者の有限な中、おのずから「有難う」と謙虚となるのではないでしょうか。

19日   すみません  すみません、の語源はどこから来ているのでしょうか。すみませんは「済みません」なのです。まだ物事が完了しておらない状態を確認するのが「すみません」なのです。 我々の一生は、みな途中で終わります。きちんと、決済しておくべき多くの事柄があります。未決済の問題がいろいろあります。多くの方々から受けた、数えきれない恩恵、そのお返しが未決済です。恩返しのできない心の痛みで、口に出るのが「すみません」の挨拶語です。ここに心の謙虚さ、敬虔さがあり、出てくるのが「すみません」だと言えるのです。 
 20日  「はい」   はい。この挨拶語は、他人に対する返事だけでなく、自分に応える挨拶と言えます。大声で「はい」と答えると胸の中がすかっとしてくる、朗らかになる。散乱していた自分の心がハイで一つに要約される。素直な自分に出会えた、邂逅なのです。いい人生が再スタートするような気持ちになります。ありがとう、すみません。そして、ハイ。心の中が次第に爽快になるように思えます。良い人生に遭遇した思いになります。