邪馬台国と吉野ヶ里遺跡
平成26年6月
1日 |
邪馬台国と |
吉野ヶ里遺跡が注目された最大の理由は、それが邪馬台国跡ではないかと騒がれたためでした。確かに邪馬台国九州説に立てば位置的にさほど見当違いではないわけですから発見当時そうした期待があったのは尤もかと思われます。 |
2日 | 幻の邪馬台国 |
また、「魏志倭人伝」の邪馬台国について記した「宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」とか、「卑弥呼もって死す。大いに冢を作る」という記述に近いとみられる状況が吉野ヶ里遺跡にみられる事、また女王国が朝鮮を通じて中国へ朝貢していた記述などに合致するような出土物があることなどから、「すわっ、邪馬台国の発見とか」邪馬台国九州説の学者が色めき立ち、また古代史に興味をもつ人々は吉野ヶ里に「幻の邪馬台国」を描いたわけです。 |
3日 |
然し、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国跡かという点については、いままでの発掘調査でその可能性は殆ど無いと言ってよいようです。 |
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4日 | 九州に国家発生を具体的に示唆するもの |
卑弥呼の時代は、弥生時代後期の第三世紀に当たるわけですが、吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生中期にあったち見られ、中国・朝鮮との交流を伺わせる銅剣や菅玉なども西暦紀元前一世紀から起源前後のものと見られるため、そもそも時代的に卑弥呼の時代と合わないわけです。 |
5日 |
いずれにせよ、まだ今後の研究も待たなければならない状況ですから、ここで即断することは出来ませんが、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国でないとしても、それが九州 |
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6日 | 吉野ヶ里墳丘墓 |
私が吉野ヶ里遺跡の中で注目するのは、その環濠集落址や大陸との交流を思わせる出土物もさることながら、そこに見られる古墳群や墳丘墓です。 |
7日 | 「倭国の大乱」の状況を傍証 |
吉野ヶ里遺跡では、弥生時代の墓として甕棺墓が約二千基、土墳墓と石棺墓が合わせて約330基、箱式石棺墓が約20基と、合計約2350基にも及ぶ弥生墓群が発掘されています。甕棺からは300体以上もの人骨が出土していますが、中には首を切断されたと考えられる頭蓋骨のない人骨、大腿骨を骨折した人骨、12本の矢を打ち込まれたと考えられる遺体があって、「三国志」が記す「倭国の大乱」の状況を傍証しています。 |
8日 | 八角形の墳丘墓 |
これら多数の古墳群の中に、周囲と隔絶されて存在する墳丘墓は、特に注目しなければならない重要なものです。墳丘墓を囲んで、南北を限る幅4米の周湟が各一条、西側に三条、東側に二条の周湟がみられ、この周湟の内側に南北40米・東西26米の長方形か八角形の墳丘墓があるのです。 |
9日 |
墳丘は高さ約1.2米の黒色土を盛り、版築状に盛り土されています。そして、その封土の中には、五基の甕棺が埋没されていて、そのうちの四基から有柄銅剣がガラス製管玉約70個を伴って出土し、また細形銅剣二本が発見されました。発掘以前に墳丘が既に開墾されており、その当時にも銅剣・銅鐸約10本・小型漢式鏡一面、管玉多数が出土したといわれています。 |
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10日 |
墳丘の中心部に埋められていた甕棺は弥生中期前半のものとされ、さらに中期中葉のものと考えられる他の甕棺が、中央に向かって放射状に埋められていることなどから、この墳丘墓は中期前半から後半にかけて継続して用いられていたと推定されます。こうしたことは主に同時に出土した小型漢式鏡の確実性を信じた上で考えられることです。 |
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11日 | 註 |
版築 漢式鏡 |
12日 | 墳丘墓の分布と古墳発生期の修正 |
吉野ヶ里墳丘墓と同じような墳丘墓として、九州に於いてし弥生後期終末頃のものとされている |
13日 | 方形墳丘墓 |
また、こうした「弥生時代の古墳」というべき墳丘墓は先述した鶏塚古墳や楯築墳丘墓・石塚墳丘墓のほかにも、山陽地方では楯築古墳墓の近くの |
14日 | 鳥取市西桂見墳丘墓 |
特に、 |
15日 | 弥生古墳 |
これらの墳丘墓は弥生古墳として北九州、山陽、山陰の三地域に分布しているのですが、それらが古墳即ち前方後円墳や方墳と殆ど同じ形態を示しているにも拘わらず、今尚考古学界はこれらの弥生時代の古墓を古墳と峻別して墳丘墓とし、古墳の第三世紀出現説を拒否しています。 |
16日 | 再検討の機 |
然し、吉野ヶ里墳丘墓が第三世紀どころか、中期前半に既に巨大な墳丘墓が存在したという事実を示していること、そして九州、山陰、山陽に分布する「弥生時代の古墳」というべき存在を見れば、戦前からの「古墳は第三世紀末に近畿大和に発生し、第四世紀に大和国家の発展に伴って全国に普及していった」とする従来の古墳発生説の再検討の機はとうに熟しているのです。 |
17日 | 第27講 箸墓伝説と巨大古墳の出現 |
日本最古の前方後円墳 |
18日 | 墳墓構築形式 |
埋葬形式や墳墓構築形式の点で、弥生時代の墳丘墓などからの一連の発展過程も考えられるという意味での見直しの必要があるということです。必ずしも古墳は近畿大和に突如として発生したのではない、その前提としての埋葬形式や墳墓構築形式や墳墓構築形式が少なくとも弥生時代末期に各地に認められるのだ、というわけです。 |
19日 | 大和以外の勢力 |
そうした認識が弥生時代と古墳時代とのつながり、大和以外の勢力の存在や規模、各勢力圏の文化の質、精力権同士の交流と言った第三世紀頃の情勢を解明するのに役立つことはいうまでもありません。 |
20日 | 墳墓の変革 |
然し、そうした古墳発生に関する問題としもかく、確かに第三世紀末から第四世紀初頭の頃を境目として墳墓の変革がみられることも事実です。其の変革とは、墳墓が巨大化していくと共に定型化した墳墓が各地に波及していったということです。 |
21日 | 各地に共通 |
一般的に墳墓の盛り土、つまり封土の量が膨大となり、一定の構築形式が各地に広がっていく傾向がみられます。一定の構築形式とは特に前方後円墳を指しますが、ほかに前方後方墳・円墳・方墳といった形式のものが近畿大和を中心として各地に共通してみられるようになっていくわけです。 |
22日 |
大型の前方後円墳の地方的な広がりは第四世紀後半、(古墳時代区分では前期後半)ごろと考えられますが、その最古(前期後半)のものは大和にあり、また前期古墳群は大和に集中していることから、こうした古墳文化の震源地が大和であることは間違いないと言えるでしょう。もとより、ただ一方的に大和の古墳文化が各地に拡大したというのでなく、逆に各地からの影響を受けることもあったと考えられます。 |
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箸墓古墳と崇神王朝 | ||
23日 | 箸墓古墳と崇神王朝 | 日本最古の大型前方後円墳と言われるのは、 |
24日 |
箸墓古墳の全長は280米にも達し、前方部が撥形になった大型前方後円墳で、構築年代は第三世紀の末ないし後半と言われています。 |
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25日 | 誰を葬った古墳なの |
これが一体、誰を葬った古墳なのか、邪馬台国大和説を唱える人の中には、この古墳こそ卑弥呼の墓であると主張する人もいますが、現在の処、その点については謎に包まれているのです。 |
26日 | 崇神王朝と関係 |
私は邪馬台国九州説に立ち、しかも同時期の大和地方には崇神王朝の基盤である原大和国家の存在を認めます。そして、箸墓古墳の推定構築年代である第三世紀の末といえば、まさに崇神天皇が本州西半の統一事業を推進していたとみられる時期で、原大和国家の確立期に該当するわけです。従って、誰という特定は出来ないにせよ、箸墓古墳が崇神王朝と関係しているのは間違いないでしょう。 |
27-30日 | 国家機構に相応しい権力の象徴 |
崇神天皇以前の原大和国家の主とか、或は崇神天皇の身内の古墳か、いずれにせよ古墳の規模から考えて、原大和国家が奈良盆地の支配だけてでなく畿内統一、さらには吉備・出雲の勢力も従え得ようとしていた頃の国家というに相応しい統一レベルに達したかなりに強力な権力を持ち始めた時期の構築と考えてよいでしょう。 箸墓古墳のような大型古墳の出現の背後には、部族国家や首長国連合あるいは幾つもの首長国を統一した国家の権力以上の存在が推測さされます。もし箸墓古墳が真に最古の大型前方後円墳であるとすれば、そうした高次の統一レベルに達した原大和国家が、公範囲に及ぶその新しい支配地域、国家機構に相応しい権力の象徴として、それまでと一線を画すような古墳構築を始めた、そうした古墳の始めが箸墓古墳である、と考えることもできます。 |