安岡正篤先生「一日一言」 そのH

平成25年6月

1日 天人相聞 天と人とを相対的に考えるのでない。これを一体として考えるのであります。そして天が一つの形を取って自己を生んだもの、或は形成したものが人間である。一切は天然である。人間が考えておるような理論や理屈によって存在しているものではなくて、自ずかにきたるものであります。言い換えれば、自然と人間とを一貫した創造の理法、即ち真理に帰らんとどうにもならないのであります。これを「天人相聞」とか「天人合一」と言うのであります。
2日 人間疎外、自己疎外の時代 凡そ、現代は、諸君も時々新聞や雑誌を見ても気づかれることと思いますが、いわゆる人間疎外、自己疎外の時代です。Alienate estrangeshelveと言うような流行語の訳がはやりだしたのですが、つまり人間をお留守にする、自分自身を棚上げすることです。とかく、外へばかり心を馳せて、内を忘れてしまう。外物ばかり取り上げて、自分というものを省みない。人間をお留守にして、欲望の対象ばかり取り上げることです。
3日

自己に立ち返る

その結果、わけのわからぬ事になってしまって始末がつかぬ。こういう時、一たび失われた自己、人間そのものに立ち返れば、はっきりすることが多い。日常の生活にしても、色々の刺激に駆り立てられているつ疲れる。それから、いろいろの矛盾やら悩みが限りなく生ずる。それを少し落ち着いて内省すると実に他愛ないことが多い。
4日 多忙ということです。現代は実に忙しい。「忙」という字がよく意味を表している。亡という字は音であるが、単なる音だけでなくて、同時に意味を含んでおる。亡くなる、亡ぶということで、人間は忙しいと、その忙しいことに自己を取られてしまい、即ち、自分を亡くしてしまって、どうしても、ぬかりが多くなる。粗忽が多くなる。間違いをしでかす。まことに適切な字の出来です。        (運命を開く)
5日 久敬 人間の事と言うものは何と云っても久しい時をかけ、その間に習熟、修練を積まないと本当のものにならないのであります。大抵のものは「始めあらざるなく終わりうる少なし」と格言にも説いてありますように、なかなか続かないものであります。物体の運動の法則でもそうでありますが、ある方向へ動き出して暫くすると、それがつまり慣れっこ、慣性となって無意識的に始めに与えられた力の方向へそのまま動いてゆくというようになる。
そこで始めのうちは新鮮な気分でやり出しますけれども、暫くすると慣れっこになって段々新鮮な心掛け意図というようなことが麻痺してしまって、形の如く機械的になってしまう。終始一貫始めの如き気合・感激・精神をもって続行することは難しい事であります。生命を失わずに初心、素心というものを持ち続けてゆくという、そういう意味で久しくすると言うことは、これは非常に尊いことであります。それで始めて本当の人間、本当の事業、本当の研究が出来上がるのであります。        (安岡正篤先生講演集)
6日 私はいつでも新しいという字について感心するのであります。何が一体新しいということかと言う問題については、何りも「新」の一字が、最も雄弁に巧妙に、最も真実によく説明してくれておる。と申しますのは、新という字は、一番下がでありまして、その上に辛苦艱難のという字とという字と組み合わされているのであります。この三つの要素から成り立っているが、一番根本は木であります。自然の立木です。自然に生えている木そのものであります。それに苦辛(しんく)して即ち努力して、即ち努力して、という字はおのですから、人工を加えて、これを柱にし、板にし、色々に工夫を加えて家にするとか、机にするとか、鋤にするとか、色々有用有益なものに仕立て上げる。これを新しいというのである。「新」という字である。素材である処の自然の立木と言うものがなければ、斧の加えようもない。努力のしようもない。自然の立木に苦辛して人力を加え、技術を加えて始めて新たなるものが出来上がる。木を無視して、即ち歴史伝統的存在を無視して如何なる新しい創造もあり得ないのであります。この一字でも、何が新しいかということが立派に説明されておると申していいでありましょう。(講演集)
7日 複雑微妙な禍福 どうも人間のこと、人生のことは複雑微妙でありまして、「老子」にも「禍かと思えば福のよる所であり、福かと思えば禍の伏す所で、誰かその極みを知らん」とありますが、まことにその通りでありまして「渦福は(あざな)える縄の如し」という言葉もある通り、これは複雑微妙なもので、決してこれき禍である、これは福であるというように機械的に分けることの出来ないものである。 (講演集)
8日 人間の長所短所

「渦福は(あざな)える縄の如し」とは人間世界の真実で、よく言いますように長所と短所というものもそうで、長所と短所というものが別々にあれば始末がいいが、実際は長所が短所であり、短所が長所である。だから採長補短、長を採って短を補うというけれども、そう簡単にはゆかぬ。なにしろ長所が短所であり、短所が同時に長所なんだから、長所を生かそうと思うと短所も伸びてくる。短所をなんとかしようと手を入れると、ついでに長所も却ってだめにしてしまう。そこで人間の事業とか、或は政治とかいうものは非常に難しい。それと同じことで、幸福を願っていると幸福がかえって禍になる、禍かと思っていると、それがとんだ幸福を伴う。(男子志を立つべし)

9日

英雄も然り

三国の群雄にしても、悪戦苦闘しておる時に一番意義があり、また本人も真価というか、天分というものを養っておるのでありまして、彼らの成敗利鈍というものは、多く彼らが得意の時に問題を惹起している。
       (男子志を立つべし)
 
10日

性命

生きとし生きるもの、みな意識を持っておる。そして、その意識の発達したものが「心」、さらに突っ込めば「魂」と言うことになる。つまり「生命」は性命、心、魂を持ったもの。好むと好まざるとに拘らず、理由の何たるを問わず、そういうものを超越した天地創造の中の決まりきった、疑うことを許されない一つの存在である。そして、それは自分に始まったことではなく、天地自然と共に在るということで「宿命」と言うことになります。 
11日 宿命・義命・立命 性命は運命であると共に宿命である。しかもその宿命は、高等生物になればなるほど、心が発達して必然的に「いかにあるべきや」という「義」の問題が生じてくる。これを「義命」と言う。人間の生命は宿命であると同時に意識精神が発達して「義命」というものを宿す。そこで人間は宿命と同時に義命によって、よく天地の創造・造化に参して、その命を造り、義命を立てていく。これがいわゆる「立命」というものであります。
12日 運命とは つまり、自分はどんな運命、見方を変えれば宿命によって「かくの如く存在しておるのか」、それを常に新しく創造進化の道に従って、いかに実践していくかと言うのが「義命」であり、それをいかに創造していくかと言うのが「立命」。運命の中に宿命があり、義命があり、立命がある。運命というものは、宿命であると同時に義命であるから、立命することが出来ます。(酔古堂剣掃(すいこどうけんそう))
13日 宿命観 大体、運命と言うと皆が宿命的に考える。何と考えても、どうにもならない必然的な作用、これが運命であるという宿命論・運命観の中の宿命観にとらわれたり空しく堕しておる者が非常に多いのであります。それでは運命ではありません。
14日 立命観 運は動くという文字であり、めぐるという文字でありますから、宿命観では運命にならない。運命はどこまでも自ら立てていく、自然の法則に従って自ら造っていく、つまり立命でなければなりません。
15日 立命と義命 運命観を宿命観に陥れないで、よく運命の中に含まれておる思想的、実践的な意義、即ちこれが義命でありますが、この義命を明らかにして、常に自分が主体となって運命を打開していく。これが本当の立命というもので、運命観というものは、宿命観を脱して、義命をあきらかにし、常に新しく立命していく、これが本当の意義であります。
16日 改命と易学 縷々述べてきたことが案外理解されず、とかく運命観は宿命観になってしまい、運命、運命といいながら、本当の運命を分らない人が多いのであります。そういう、「運命と立命」にする一番典型的な原理、原則が易学でありますから、易学を修めるということは、要するに人間が、自分の運命を知って、常に新しく立命していく、いい換えれば改命していく、自分の運命を創造、クリエートしていく。自然の造化に対して言うならば、レクリエートしていく、人間がこれを継承して維新開発していく、これが本当の易学であります。       (易と人生哲学)
17日 貧乏 家が貧乏で勉強が出来ないとは、ありふれた話です。これも絶対にそんなことは許されません。貧乏などは病弱より始末がよい。貧乏の功徳とも言うべき事例を集めて書物にしたら、大著ができるでしよう。古来、貧乏ほど人間を作ったものはない、と申して過言ではありますまい。
18日 三浦梅園先生 1 幕末、大分の哲人であり碩学であります。先生の少年時代の記録が「梅園全集」付録の「逸話集」に出ております。これは私の非常に好きな話なのです。
「三浦梅園先生の始めて綾部(けい)(さい)の門に入りし時は、炯斉の年66歳なりき。豊後の一村の富永より杵築城下へは山越四里なるを、16歳の一少年は日々(けい)を抱きて往復するに、常に(はだ)()なりき」         (運命を開く)
19日 三浦梅園先生 2 三里や四里の道を通学するということは大正時代までは平気でありました。田舎では当たり前でした。ちっとも珍しいことではなかったのです。前大戦後から段々交通・通信が発達して、自動車だの電車だの、バスだのが至る所にできて、総じて人間が歩かなくなりました。人間が歩かなくなると言うことは大変反省せねばならぬことです。人間が歩かなくなると共に堕落したという事も出来ます。明治・大正さえそうだから、まして急幕時代においてをやです。 (運命を開く)
20日 三浦梅園先生 3 16歳の一少年は日々経を抱きて往復するに、常に(はだ)()なりき。師、(けい)(さい)見て之を(あわれ)家人(かじん)に命じて草履(ぞうり)を与えしむ。少年謝して之を受け、穿()いて出づと雖も、門を出づるや(ただち)に脱ぎ、砂を払ひ、之を(ふところ)にして帰る。翌日来るや(はだ)()平日の如し。而して師の門に至るや、()た草履を懐より取り出し、穿きて入る。其の用意()の如きものありき」。とても今日の諸君の想像もつかぬことだろう。私は、ありありとその少年の姿が浮かぶ。そして目頭が熱くなるのです。 (運命を開く)
21日

三浦梅園先生 4

西郷隆盛なども貧乏侍の倅で、始終破れ草履をはき、粗服を纏うておった少年です。それでも行儀は非常に良かった。貧乏の例は際限なくある。むしろ人によると、「人間は偉くなるためには貧乏でなけりゃならぬ」とまで言います。過言ではありません。貧苦艱難、あるいは貧弱・多病、その中にいて偉くなったと言うのではなく、その中におったればこそ、偉くなったと言い得る人がどれほどあるか分らない。                 (運命を開く)
22日 貧また感激を生ず この言葉は、若い時の勝海舟だが、現代は到底、理解できまいから省略する。安岡先生は、「貧またここに至って感激を生ず」、人間は、こうでなくちゃいかん」と。この覚悟をどこか心に秘めておくことは大切であるかもしれない。 
23日 小人の常 大抵の人間は、何か少し得たり、所有するところがあると、すっかりいい気になるものである。最も低級な人間は、財産、名誉、その次は権勢、そういうものを持つとすっかり鼻を高くしてしまう。何か自分が豪くなったような気がする。これは小人の常であります。そういうものを身につけても一向そういうものによって自分自身が別に何を加えたわけでもないので省みて寧ろそういうものを持てば持つほど、自らの本質的なもの足りなさ、欠陥を覚える。これは確かになかなかあり得ないことで、相当な人でないとそうはいかんものであります。       (孟子より)
24日 東洋的虚無感 東洋精神、中国や日本にも通ずる人生哲学というものの非常に深い、尊いものがある。これをさらに徹すると東洋的虚無感になる。人生の表面的なもの、形式的なもの、後天的なもの、尊重はするが決して執着しない。或いは進んでそれに本質的な価値をそれほど置かない。人の世の中のありふれたもの、生活の方便、生活の形式、そういったものに本質的な価値を置かないで、根底に何かそういうものの儚さ、無力さ、無価値さを感じ、むしろ富貴に処すれば処するほど富貴というものを煩わしいものとさえ考えるのであります。いんに富んでも、いかに権要の地位についても、どこかその根底に虚無的なものを持っている。これは東洋最大級の魅力です。      (孟子より)
25日 陰と陽 その一 陰と陽について偏見を持たないようにしなければなりません。どうかすると、陰は悪く、陽はいい、陽性であると云うことは、陰性よりもいい、と言うような錯覚をしがちですが、これは非常に危険であります。危険と言えば、どちらかと言うと陽のほえが危険です。だから陽には、うそ、偽りという意味があります。とかく世間では、陰が悪くて陽がいいのだと言うような事も常識になっておりますが、大変な誤りであり、また従って非常に危険なことであります。
                        (易と人生哲学)
26日 陰と陽 その二 陽は陰を持って初めて陽であり、また陽があって陰が生きるのであります。処がどちらかと言うと陰はわかり難く陽のほうがわかりやすい。従って特徴も欠陥も、即ち長短とともに陽の方が認識しやすく、陰の方が認識しにくい。そこで色々の間違いが起るのであります。例えば、我々の大事な知、知ると言うことほ例にとりますと、知という字は陽性のものですから、発動、活動しやすい。そこに危険があって、どうかすると知はとんでもない誤りに陥るので知の字を?やまい(○○○)だれ(○○)に入れて「ばか」()という字で出来ております。               (易と人生哲学)
27日 陰と陽 その三 そこで人間は、知と情、情は結びの力ですからこれは陰です。知と情がうまく調和しておるというのがいわゆる中でありますが、どちらかと言うと、陰である情の力のこもって厚いのが根本であります。知の方は派生ですから樹木で言えば枝であり、葉であり、花であります。だから人間は、内に情が厚く、そして頭が良いというのが一番望ましい。知が情に勝つと余程気をつけませんと軽薄になり利己的になります。                 (易と人生哲学)
28日

(へそ)のない人間 その一

過去の文化や伝統に対して反感を持ち、否認さえする人間を西洋では面白く風刺しています。臍のない人間―ーman without navelと云っています。ミカンのヘタのないような奴、と言うのであります。臍は大切な所で、臍の緒というのがあって、それによって母の胎内で栄養を吸収して誕生した。人間は皆こうしてて生まれたのであって、木の股から生まれ出たのでもなければ火星から降って来たのでもない、必ず母から生まれ出たのであるから、臍は人間の過去の歴史伝統の象徴でもあります。歴史や伝統を無意味なもの、機能のないものと思い、臍をもそう思っているものが多いのでありますが、決してそうではない。非常な機能を持っているのであります。     (講演集)
29日 (へそ)のない人間 その二

東洋医学では、臍のことを神闕(しんけつ)と言い、そのまわりを(せい)()と申します。これまた医療的に大事な場所であります。白隠禅師の夜船(やせん)閑話(かんわ)にも、一身の元気を(せい)()()(かい)丹田(たんでん)(よう)(きゃく)(そく)(しん)(かん)()たしめよと説いてあるように非常に大切なところであります。           (講演集)

30日

(へそ)のない人間 その三

 美の上でも臍は大切な所であります。裸体画でも彫刻でも臍を落とすわけにはいきません。()腹点(ふくてん)(さい)とでも申しましょうか。その伝統歴史を無視することは臍を無視することであります。伝統歴史を否認し、無視する者を臍のない人間と云っているのであります。臍は深くして大なる程良いとされています。我々は歴史伝統を多いに学ばねばなにらないのであります。                 (講演集)