聖徳太子の幼少期

用明天皇の晩年の子

「上宮聖徳法王帝説」によれば、聖徳太子の生年は574年であると推定されます。そして、この時の父である用明天皇の年齢についてですが、「日本書紀」には宝算の記載がなく、「皇代略記」の宝算69歳を基にして考えると、太子生誕のときの年齢は56歳になります。また、「神皇正統記」の宝算41歳ほ基にするならば28歳ということになります。

56才と28才では大きな開きがあり、どちらが事実に近いのかという疑問が生じます。そこで、同じく「日本書紀」に宝算の記載がない崇峻天皇について、「一代要記」が記載している宝算72歳と両説との整合性を考えてみたところ、どうも「神皇正統記」の宝算は信頼性が薄く、「皇代略記」の宝算から算定できる用明天皇の生誕519年、太子生誕のときの年齢56歳というのが事実に近いように思われます。(以上の年齢は全て数え年で計算)。そうであれば、太子は用明天皇の晩年の子であるということになります。

ちなみに、「皇代略記」「神皇正統記」「一代要記」のいずれとも中世の文献であり、時代が隔絶していることから信憑性については問題があるのですが、あたらずとも遠からずという程度の信頼性はあると考えています。そこで、聖徳太子と関連する人物の年齢をそれらの思料「日本書紀」に基づいて表にしておきます。太子関係の年代・年齢については一応この表を目安にして考えていきます。

 

聖徳太子関係の年代・年齢対照表

年次干支

事項

西暦

用明天皇

崇峻天皇

蘇我馬子

推古天皇

聖徳太子

時期

己亥

用明天皇降誕

519

1

 

 

 

 

辛丑

崇峻天皇降誕

521

3

 

 

 

 

 

辛未

蘇我馬子誕生

551

31

1

 

 

 

 

丙子

推古天皇降誕

556

38

36

6

1

 

 

甲午

聖徳太子降誕

574

56

54

24

19

1

乙巳

用明天皇践祚

585

67

65

35

30

12

 

丙午

穴穂部間人皇女立后

586

68

66

36

31

13

 

丁未

用明天皇崩御

崇峻天皇践祚

物部氏滅亡

587

69

67

37

32

14

 

壬子

崇峻天皇弑逆

592

 

72

42

37

19

推古1

推古天皇即位

太子摂政

593

 

 

43

38

20

推古2

三宝興隆詔勅

594

 

 

44

39

21

 

推古3

高句麗僧慧慈帰化。太子師事

595

 

 

45

40

22

 

推古4

法興寺建立

慧慈住僧

596

 

 

46

41

23

推古7

畿内地震

地震の神祭る

599

 

 

49

44

26

 

推古8

新羅討伐

隋に遣使

600

 

 

50

45

47

 

推古9

太子初めて斑鳩宮造営

601

 

 

51

46

28

 

推古10

来目皇子新羅征討・観勒帰化

602

 

 

52

47

29

推古11

冠位制定

603

 

 

53

48

30

推古12

憲法十七条の制定

604

 

 

54

49

31

 

推古13

摺の着用

斑鳩宮に居す

605

 

 

55

50

32

 

推古14

太子天皇に勝鬘・法華経講ず

606

 

 

56

51

33

推古15

神祭・小野妹子遣唐使

607

 

 

57

52

34

 

推古16

妹子裴世清連来日、再渡隋

608

 

 

58

53

35

 

推古17

妹子帰朝・百済人元興寺入り

609

 

 

59

54

36

 

推古18

高句麗僧曇微、

法定を貢ぐ

610

 

 

60

55

37

 

註 神皇正統記

 史論。北畠親房著。神代から後村上天皇までの歴史を記し、南朝の正統な理由を述べ、著者の国体論・継統論・神道論・政治論・武家論について意見を各所に述べる。1339年、延元4年、常陸小田城で執筆、43年、興国4年、関城で修訂。