「(よう)() 第十七」

平成29年6月より

原文 読み 現代語訳
5月17日

一、(ようか)(うこう)(しをみ)(んとほ)孔子(っすれども)孔子(こうし)(まみ)(えず)帰孔(こうしにぶ)子豚(たをおくる)孔子(こうしそ)(のな)其亡也(きをうかがいて)而往拝之(ゆきてこれをはいさんとす)(これに)諸塗(みちにあう)謂孔子曰(こうしにいいていわく)(きたれ)()(なんじ)()(いわん)(のたまわく)懐其宝而迷其邦(そのたからをいだきてそのくにをまよわす)可謂仁乎(じんというべけんや)(いわく)不可(ふかなり)好従事而亟失(ことにしたがうをこのみてしばしば)(ときをしっす)可謂知乎(ちというべけんや)(いわく)不可(ふかなり)日月逝矣(じつげつゆきぬ)(とし)不我(われとともな)(らず)孔子曰(こうしのたまわく)(だく)吾将仕矣(われまさにつかえんとす)

陽貨、孔子を見んと欲すれども。孔子まみえず。孔子に豚をおくる。孔子その亡きをうかがいて、往きてこれを拝さんとす。これに塗(みち)に遇う。
孔子に謂いて曰く、来たれ。予(われ)爾(なんじ)と言わん。曰く、その宝を懐きてその邦を迷わす、仁と謂うべけんや。曰く、不可なり。事に従うを好みて、しばしば時を失す、知と謂うべけんや。曰く、不可なり。日月逝きぬ、歳、我と与ならず。孔子曰く、諾(だく)。吾、将に仕えんとす。
陽貨が孔子に面会しようとしたが、孔子は会わなかった。陽貨は豚を贈り物として贈ったが、孔子は会いたくないので陽貨の留守をうかがって返礼した。しかし、途中で陽貨と遭遇してしまった。陽貨は孔子に話しかけた。『さあ、私のもとに来なさい。私と共に語り合おう。身に宝を抱きて、国家を混迷に陥れている、これを仁と言えるのか』。孔子は言われた、「仁とは言えない」。陽貨は更に語られた。『進んで政治を行いながら、しばしば時機を逸してしまう、これを知と言えるだろうか』。孔子はお答えになられた、「いや、知とは言えない」。陽貨はおっしゃった。『月日は淡々と過ぎていくものだ。歳月は、私を待ってはくれない』
孔子は言われた
「その通りです。私も近いうちにあなたにお仕えしましょう」。
5月18日

二、子曰(しのたまわく)性相近也(せいあいちかし)習相遠也(ならいあいとおし)子曰(しのたまわく)(ただ)上知(じょうち)与下(とかぐ)(とは)不移(うつらず)

子曰く、
性は相近し。習い、相遠し。子曰く、唯上知と下愚はうつらず。

先生が言われた、
「人間の生来の性質は似たようなものだ。だが、その後の学習によりその性質に違いが生まれるのだ」。先生が言われた、「多くの人は学習・努力により変われるが、ただ最高の知者と最低の愚者は変わらない」。
5月19日

三、子之(しぶじ)(ょうに)(ゆき)聞絃歌之声(げんかのせいをきく)夫子莞爾而笑曰(ふうしかんじとしてわらいていわく)割鷄焉(にわとりをさくにいず)(くんぞぎゅ)牛刀(うとうをもちいん)子游対曰(しゆうこたえていわく)(むかし)者偃也(えんや)(これを)諸夫子(ふうしにきけり)(のたまわく)君子(くんしみちを)学則(まなべばすなわち)愛人(ひとをあいし)小人学道則易使也(しょうじんみちをまなべばすなわちつかいやすし)子曰(しのたまわく)二三子(にさんし)偃之言是也(えんのげんぜなり)前言戯之(ぜんげんはこれをたわむ)(るるのみ)

子、武城にゆき、絃歌の声を聞く。
夫子、莞爾として笑いて曰く、鷄を割くに焉んぞ牛刀を用いん。子游対えて曰く、昔者、偃、やこれを夫子に聞けり、曰く、君子道を学べば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使い易し。
子曰く、
二三子よ、偃の言、是なり。前言はこれに戯れしのみ。
先生が武城に行かれると、弦楽器の伴奏に合わせた歌が聞こえてきた。
先生がにっこりと笑って言われた。
『鶏をさばくのに、どうして大きな牛刀を使うのだろうか?』。武城の城主・子游が申し上げた。『私は過去に先生からお聞きしました。「君子が道を学ぶと人民を愛すようになり、小人が道を学ぶと扱いやすくなる」と』。
先生が言われた。
『諸君。子游の言葉は正しい。さっきの言葉は戯れであった』。
5月20日

四、(こうざん)山不擾以費(ふつじょうひをもって)(そむく)(よぶ)子欲往(しゆかんとほっす)(しろ)路不説曰末之也已(よろこばずいわくゆくなきのみ)何必公(なんぞかならずしも)山氏之之也(こうざんしにこれゆかんや)子曰(しのたまわく)夫召(それわれを)我者(めすものにして)(あに)(いたず)(らなら)(んや)(もしわ)有用(れをもちいる)我者(ものあらば)(われ)(それ)為東周乎(とうしゅうをなさんや)

公山不擾(こうざんふじょう)、費を以て畔(そむ)く。よぶ。子往かんと欲す。子路説ばず、曰く、之く末き(なき)のみ。何ぞ必ずしも公山氏にこれ之かんや。
子曰く、
夫れ我を召す者にして、あに、いたずらならんや。如し我を用うる者あらば、吾はそれ東周を為さんや
公山不擾が費を拠点として叛逆を企て、孔子を招いた。先生はこれに応じようとした。子路はこのことに不満を覚えて言った。費に行くことはないと思います。どうして裏切り者の公山氏のところに行くのですか。
先生が言われた、
「あの人が私を招いたのだ。何も理由がないということはないだろう。私の思想を採用してくれる人物がいれば、私はその地を東周にしたいと思っている」。
5月21日

五、子張問仁於(しちょうじんをこうしに)孔子(とう)孔子曰(こうしのたまわく)能行五(よくごしゃを)者於(てんかに)天下為仁矣(おこなうをじんとなす)請問之(これをといとう)(いわく)(きょう)(かん)(しん)(びん)(けいなり)(きょう)則不侮(なればすなわちあなどられず)寛則(かんなれば)(すなわち)(しゅうをう)信則人任焉(しんなればすなわちひとにんず)敏則(びんなれば)有功(すなわちこうあり)(けいなれ)則足以使人(ばすなわちもってひとをつかうにたる)

子張、仁を孔子に問う。
孔子曰く、
能く五者を天下に行なうを仁と為す。これを請い問う。
曰く、恭・寛・信・敏・恵なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任ず、敏なれば則ち功あり、恵なれば則ち以て人を使うに足る。

子張が、孔子に仁について質問した
。孔子はお答えになられた、「
5つの事を天下で実行できれば仁と言えるだろう」。
子張はその
5つの事についての教えを請うた。
先生は言われた、
「それは、恭・寛・信・敏・恵である。恭(謙譲)であれば他人に侮られない。寛容であれば人々の信望を得られる。信(誠実)であれば人から任ぜられる。。敏(敏捷)であれば仕事で功績を上げられる。恵(利他的)であれば人を上手く使うことが出来る」。

5月22日 六、(ひつ)キツ(きつ)(めす)子欲往(しゆかんとほっす)子路曰(しろいわく)(むかし)者由也聞(ゆうやこれをふう)諸夫子(しにきけり)(いわく)親於(みずからその)(みに)(おいて)(ふぜ)不善者(んをなすものには)君子不入也(くんしいらず)、ヒツキツ以中牟(ちゅうぼうをもつて)(そむく)子之往也如之(しのゆかんとするやこれを)(いかん)子曰(しのたまわく)(しかり)有是言也(このげんあり)曰不曰堅乎(いわくかたしといわずや)磨而(みがけど)不燐(うすらわず)不曰白乎(しろしといわずや)涅而不緇(そむけどくろからず)吾豈匏瓜也(われあにほうかな)(らんや)焉能繋而(いずくんぞよくかかりて)不食(くらわざらん)

ヒツキツ招す。子、往かんと欲す。子路曰く、昔者(むかし)、由や諸(これ)を夫子に聞けり、曰く、親ら(みずから)その身に於いて不善を為す者には、君子入らず。ヒツキツ中牟(ちゅうぼう)を以て畔く(そむく)。子の往かんとするや、これを如何。
子曰く、
然り。是の言有り。曰く、堅しと曰わずや、磨げどうすらわず。白しと曰わずや、そむけど緇(くろ)からず。吾、豈に匏瓜(ほうか)ならんや。焉んぞ能く繋りて食らわざらん

ヒツキツの招きに応じて、先生が出かけようとなされた。子路が言った。昔、私は先生からこう教えて頂きました。「君主自身が不善を行っている国には、君子たる者は入国してはいけない」と。ヒツキツは中牟に依拠して晋に反逆しています。
先生がそこに行こうとするのは、どういうことでしょうか。先生が答えられた、「その通りだ。しかし、こういう格言もある。「ほんとに堅いという他はない、砥いでも砥いでも薄くならないのは。ほんとに白いという他はない、染めても染めても黒くならないのは」と。私がどうして苦い瓜になることができるだろうか。どうして蔓にぶらさがったままで、人間に食べられずにいられるだろうか(仕官せずに在野の士で居続けるのもまた難しいものなのだ)」。
5月23日 七、子曰(しのたまわく)由女聞六言六蔽矣乎(祐やなんじりくげんりくへいをきけるか)対曰(こたえていわく)未也(いまだし)(おれ)(われな)語女(んじにつげん)好仁(じんをこの)好学(みてがくをこのまざれば)其蔽也(そのへいや)()好知(ちをこのみて)不好学(がくをこのまざれば)其蔽也蕩(そのへいやとう)好信(しんをこのみて)不好学(がくをこのまざれば)其蔽也賊(そのへいやぞく)好直(ちょくをこのみ)不好学(てがくをこのまざれば)其蔽也絞(そのへいやこう)好勇(ゆうをこのみて)不好学(がくをこのまざれば)其蔽也(そのへいや)(らん)好剛(ごうをこのみて)不好学(がくをこのまざれば)其蔽也狂(そのへいやきょう)

子曰く、由よ、女(なんじ)六言六蔽(りくげんりくへい)を聞けるか。対えて曰く、未だし。居れ、吾女(なんじ)に語(つ)げん。仁を好みて学を好まざれば、その蔽や愚。知を好みて学を好まざれば、その蔽や蕩(とう)。信を好みて学を好まざれば、その蔽や賊。直を好みて学を好まざれば、その蔽や絞(こう)。勇を好みて学を好まざれば、その蔽や乱。剛を好みて学を好まざれば、その蔽や狂。

先生が言われた、
「由よ、お前は六つの言葉に付随する六つの害(六言六弊)を聞いたことがあるか」。子路は申し上げた。
まだ聞いたことがありません。「そこに座りなさい、教えてあげよう。仁を好み学問を好まぬと、その弊害は愚である。智を好み学問を好まぬと、その弊害はとりとめが無くなる事。信を好んで学問を好まぬと、その弊害は人をそこなうことになる。正直を好み学問を好まぬと、弊害としては窮屈である。勇を好んで学問を好まぬと、その弊害は乱暴。剛強を好んで学問を好まないと、その弊害として狂乱に陥ること」。

5月24日

八、子曰(しのたまわく)小子(しょうし)何莫学夫(なんぞかのしをまなぶな)(きか)詩可以(しはもっておこす)(べく)可以(もってみる)(べく)可以群(もつてぐんすべく)可以怨(もってうらむべし)邇之事(これをちかくしてはちち)(につかえ)遠之事(これをとおくしてはきみに)(つかえ)多識於鳥獣草木之名(おおくちょうじゅうそうもつのなをしる)

子曰く、
小子(しょうし)、何ぞかの詩を学ぶ莫きか。詩は以て興すべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。これを邇く(ちかく)は父に事え(つかえ)、これを遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識る。
先生が言われた、
「弟子たちよ、どうしてあの「詩経」を学ばないのだ。詩は心を奮い立たせ、物事を観察することができ、人々と共に友好を深められるし、政治批判や恨み言も表現することができる。近いところでは父にお仕えし、遠いところでは君にお仕えする、鳥獣草木の名前を覚えることもできるのだ」。
5月25日

九、子謂伯魚曰(しはくぎょにいいていわく)(なん)(じしゅ)周南召南矣乎(うなんしょうなんをおさめしか)人而(ひとにして)不為(しゅうなん)周南召(しょうなんをおさめ)(ざれば)其猶正牆面而立也(それなおまさにしょうにめんしてたつが)(ごとし)

子、伯魚に謂いて曰く、
女(なんじ)、周南、召南をおさめしか。人にして周南、召南をおさめざれば、それ猶、正に牆に面して立てるがごとし。

先生が息子の伯魚に言われた、
「お前は「詩経」の周南・召南の部を学んだことがあるか。人間として周南・召南の部を学ばないと、まるで塀を目の前にして立っているようなものだ、何も周囲が見えず、身動きがとれないということになる」。

5月26日

十、子曰(しのたまわく)礼云礼云(れいといいれいという)玉帛云乎(ぎょくはくをいわ)(んや)楽云楽云(がくといいがくという)鐘鼓云乎(しょうこをいわ)(んや)

子曰く、
礼と云い、礼と云う、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓を云わんや。

先生が言われた、
「礼だ礼だとよく言うが、神(祖先)に捧げる玉や絹ばかりが礼の形ではない。音楽だ音楽だとよく言うが鍾や太鼓を鳴らすばかりが音楽の形ではない」。
 

5月27日

十一、子曰(しのたまわく)色試ァ内荏(いろはげしくしてうちやわらか)(これを)諸小人(しょうじんにたとうれば)其猶穿愉之盗也(それなおせんゆのとうの)(ごとき)

子曰く、
色氏iはげ)しくして内荏らか(やわらか)、これを小人に譬うれば、それ猶(なお)穿愉(せんゆ)の盗のごとき。
先生が言われた、
「顔つきは厳めしいが、内面はぐにゃぐにゃなのは、小人にたとえると、壁・塀に穴を開ける盗人のようなものだろう」。
5月28日

十二、子曰(しのたまわく)郷原徳之賊也(きょうげんはとくのぞくなり)

子曰く、郷原は徳の賊なり。 先生が言われた、
「似非(偽者)の君子は、道徳の賊徒・盗人である」。
5月29日

十三、子曰(しのたまわく)道聴而(みちにききてみち)塗説(にとくは)徳之棄也(とくをこれすつるなり)

子曰く、
道に聴きて塗(みち)に説くは、徳をこれ棄つるなり。

先生が言われた、
「道端で聞きかじったことを他人にもっともらしく説くのは、徳を捨てるようなものである」。

5月30日

十四、子曰(しのたまわく)鄙夫可与事君也(ひふはともにきみにつかう)(べけ)(んや)其未得之也(そのいまだこれをえざるに)患得之(これをえんことをうれえ)既得之(すでにこれをうるや)患失之(これをうしなわんことをおもう)苟患失之(いやしくもこれをうしなわんことをおもうれば)無所不至矣(いたらざるところなし)

子曰く、
鄙夫は与に君に事うべけんや。その未だこれを得ざるに、これを得んことを患え、既にこれを得るや、これを失わんことを患う。苟くもこれを失わんことを患うれば、至らざる所なし。
先生が言われた、
「低劣な男には主君にお仕えすることは出来ないだろう。彼が目指す地位・俸給を手に入れないうちは手に入れようと気にするし、手に入れてしまうと失うことを心配する。もし失うことを心配するというのなら、それを守るためにどんなことでもやりかねない」。
5月31日

十五、子曰(しのたまわく)古者(いにしえ)民有三疾(たみにさんしつあり)今也或是之亡也(いまやあるいはこれこれなきなり)古之狂也肆(いにしえのきょうやし)今之狂也蕩(いまのきょうやとう)古之矜也(いににしえのきょうやれん)(かど)今之矜也忿戻(いまのきょうやふんれい)古之愚也(いにしえのぐやちょく)(ちょく)今之愚也詐而已矣(いまのぐやさなるのみ)

子曰く、
古者(いにしえ)民に三疾あり。今や或いは是(これ)これ亡きなり。古の狂や肆(し)、今の狂や蕩(とう)。古の矜(きょう)や廉(れん)、今の矜や忿戻(ふんれい)。古の愚や直、今の愚や詐なるのみ。

先生が言われた、
「昔の人民には三つの欠点があった。今ではそれさえ、ないかもしれない。昔の狂者はやりたい放題に振る舞ったが、今の狂者はおどおどして、自信がない。昔の侠客(士)は礼儀正しかったが、今の侠客はすぐに怒っていきり立つだけ。昔の愚者は正直であったが、今の愚者は欺瞞に満ちているだ」。

6月1日

十六、子曰(しのたまわく)巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮矣(すくなし)(じん)

子曰く、
巧言令色、鮮なし仁。
先生が言われた、
「言葉だけが上手い人には本当の仁徳が少ないものだ」。
6月2日

十七、子曰(しのたまわく)悪紫之奪朱也(むらさきのしゅをうばうをにくむ)悪鄭声之乱雅学也(ていせいのががくをみだるるをにくむ)

悪利口之覆(りこうのほうかをくつがえすもの)邦家(をにくむ)子曰(しのたまわく)()(いうなから)無言(んとほっす)子貢曰(しこういわく)子如(しもしい)不言(わざれば)則小子何述焉(すなわちしょうしなにおかのべん)子曰(しのたまわく)(てん)(なに)(おか)(いわん)四時行焉(しじおこなわれ)百物生焉(ひゃくぶつしょうず)(てん)(なに)(おかい)(わん)

子曰く、
紫の朱を奪うを悪む。鄭声の雅楽を乱るるを悪む。利口の邦家を覆すものを悪む。

子曰く、
予、言うこと無からんと欲す。子貢曰く、子如し言わざれば、則ち小子何をか述べん。子曰く、天、何をか言わん。四時(しじ)行われ、百物生ず。天何をか言わん。

先生が言われた、
「混合色の紫が、朱の美しさを奪うことを私は憎む。鄭の華やか過ぎる音楽が、調和の取れた古典音楽を混乱させることを憎む。小利口な表面だけの弁舌が、国家を転覆させることを憎む」。

先生が言われた、
「私はもう何も言うまいと思う」。子貢が言った。先生がもし何も言われなければ、私ども門人は何に基づいて語りましょうか。先生は言われた、「天は何か言うだろうか。四季は巡っているし、万物は造化している。天は何か言うだろうか」。

6月3日

十八、孺悲(じゅひこうし)(にま)(みえ)孔子(んとほっす)孔子辞之以疾(こうしじするにやまいをもってす)(めい)命者(をおこなうもの)出戸(とをいづ)取瑟而歌(しつをとりてうたい)使之聞之(これをしてこれをきかしむ)

孺悲(じゅひ)、孔子にま見えんと欲す。孔子辞するに疾を以てす。命を将なう(おこなう)者、戸を出ず。瑟(しつ)を取りて歌い、これをして聞かしむ。

孺悲が孔子にお会いしたいといって来た。
しかし、孔子は病気だと言って断られた。孔子の言葉の取次の人が戸口を出て行くと、孔子は瑟をとって歌って、孺悲に聞こえるようにされた(仮病だということを孺悲に知らせた)」。
6月4日

十九、(さい)()(とう)三年之喪期已久矣(さんねんのもきすらすでにひさし)君子(くんしさ)三年(んねんれ)不為(いをなさ)(ざれば)礼必壊(れいかならずやぶれん)三年(さんねん)不為(がくをなさ)(ざれば)楽必崩(がくかならずくずれん)旧穀既没(きゅうこくすでにぼっし)新穀(しんこくす)既升(でにみのる)鑚燧改(すいをきりてひをあ)(らたむ)期可已矣(きにしてやむべし)子曰(しのたまわく)食夫(かのいねを)(くらい)衣夫(かのにしきを)(きる)於女安乎(なんじにおいてやすきか)(いわく)(やすし)女安則為之(なんじやすくんばすなわちこれをなせ)夫君子之(かのくんしのも)(にお)(るや)(うまきを)旨不甘(くらえどもあましとせず)(がくを)(ききても)不楽(たのしからず)居処(きょしょ)不安(やすからず)故不為也(ゆえになさざるなり)今女安則為之(いまなんじやすくんばすなわちこれをなせ)(さい)()(いづ)子曰(しのたまわく)予之不仁也(よのふじんなるや)子生(こうまれ)三年(さんねん)然後免於父母之(しかるのちふぼのふところをまぬかる)(ふところ)(それ)三年之(さんねんの)(もは)天下之通喪也(てんかのつうそうなり)予也(よや)(その)三年之愛於其父母乎(ふぼにさんねんのあいありしか)

宰我問う、三年の喪は期にして已(すで)に久し。君子三年礼を為さざれば、礼必ずやぶれん。三年楽を為さざれば、楽必ず崩れん。旧穀既に没き(つき)て新穀既に升(のぼ)る、燧を鑚り(きり)て火を改む。期にしてやむべし。子曰く、
かの稲を食らい、夫の錦を衣る、女(なんじ)に於いて安きか。曰く、安し。女安ければ則ちこれを為せ。夫れ君子の喪に居るや、旨きを食らうも甘からず、楽を聞くも楽しからず、居処安からず、故に為さざるなり。今女安ければ則ちこれを為せ。宰我出ず。
子曰く、
予の不仁なるや、子(こ)生まれて三年、然して後に父母の懐を免る。夫れ三年の喪は天下の通喪なり。予やその父母に三年の愛ありしか。
宰我がお尋ねした。三年の喪は一年にしても十分です。君子が三年間も礼を実践しないと、礼は崩壊するでしょう。三年間、音楽を演奏しないと、音楽も崩壊するでしょう。一年経過すれば旧年の穀物は食べ尽くされ、新しい年の穀物は豊かに実っているし、一年のはじまりに、木をこすり合わせて新たな神火を灯す。喪は一年で十分だと考えます。
先生が言われた、
「あの米を食べ、あの錦の衣服を着ることは、お前にとって安楽なのであろうか」。宰我が答えた。心地よいものです。
6月5日

二十、子曰(しのたまわく)飽食(ほうしょく)終日(しゅうじつ)無所(こころをもちいる)用心(ところなくば)難矣(かたい)(かな)不有博奕(ばくえきなるものあら)者乎(ざるか)為之猶賢乎已(これをなすはなおやむにまされり)

子曰く、
飽食終日、心を用うる所無きは、難いかな。博奕なる者あらざるか。これを為すは猶、已むに賢れり。
先生が言われた、
「腹一杯に食べて一日を終わり、何事にも頭を働かせない、困ったことだ。さいころ遊びや、囲碁・将棋というのがあるだろう。そういった頭を使う遊びをするのは、何もしないよりはまだましかな」。
6月6日

二十一、子路曰(しろいわく)君子尚勇乎(くんしはゆうをたっとぶか)子曰(しのたまわく)君子義以(くんしはぎもって)為上(じょうとなす)君子有勇而(くんしもゆうありてぎ)無義(なくんば)(らんを)(なす)小人有勇而無義為盗(しょうじんゆうありてぎなくんばとうをなす)

子路曰く、
君子勇を尚ぶか。子曰く、君子義以て上と為す。君子勇有りて義なくんば乱を為す。小人勇有りて義なくんば盗を為す。

子路が言った。君子は勇気を尊重しますか。
先生が言われた、
「君子は勇気よりも正義を上位に置く。君子に勇気のみで正義がなければ、乱を起こす。小人に勇気のみで正義がなければ、力づくの盗賊になってしまう」。
6月7日

二十二、子貢問曰(しこうといていわく)君子(くんし)亦有悪乎(もまたにくむことあるか)子曰(しのたまわく)(にくむこ)(とあり)悪称人之(ひとのあくをしょうするものを)悪者(にくむ)(かり)居下流而山(ゅうおりてかみをそしるもの)上者(をにくむ)悪勇而(ゆうにしてれい)無礼者(なきものをにくむ)悪果敢而窒者(かかんにしてふさがるものをにくむ)(いわく)賜也(しや)亦有悪乎(またにくむことあり)悪徼以(もとめてもってちと)(なすも)知者(のをにくむ)悪不孫以(ふそんにしてもってゆう)(となす)勇者(ものをにくむ)悪訐以(あばきてもってちょく)(となすも)(のをにくむ)者、

子貢問いて曰く、君子も亦た悪む(にくむ)こと有るか。
子曰く、
悪むこと有り。人の悪を称する者を悪む。下流に居りて上をそしる者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒がる者を悪む。
曰く、
賜や、亦た悪むこと有り。もとめて以て知と為す者を悪む。不孫にして以て勇と為す者を悪む。訐きて(あばきて)以て直と為す者を悪む。

子貢がお尋ねした。君子でも憎悪がありますか。
先生が言われた、
「君子にも憎悪の感情あり。君子は他人の悪ばかりを言い立てる人を憎む。下位の者が上位の者を非難することを憎む。勇気はあるが礼儀をわきまえない人物を憎む。思い込みが強くて譲ることを知らない人を憎む」。
先生が言われた、
「子貢よ、お前にも憎悪があるのか」。子貢がお答えした。他人の意見を自分のものにして知識人ぶっている人を憎みます。傲慢であることを勇気と勘違いしている人を憎みます。他人の秘密にしておきたい事を暴き立てて正直であると勘違いしている人を憎みます」。

6月8日

二十三、子曰(しのたまわく)(ただ)女子(じょしと)(しょう)小人(じんとは)為難養也(やしないがたしとなす)近之則(これをちかづくればすな)不遜(わちふそんなり)遠之則怨(これをとおざければすなわちうらむ)

子曰く、
唯だ女子と小人とは養い難しと為す。これを近づくれば則ち不遜なり。これを遠ざくれば則ち怨む。

先生が言われた、
「女子と小人だけは取り扱いにくいものだ。優しく近づけると無礼になり、疎遠にして冷たくすると恨まれてしまう」。
6月9日

二十四、子曰(しのたまわく)年四十而見悪焉(とししじゅうにしてにくまる)其終也已(それおわらんのみ)

子曰く、
年四十にして悪まる、それ終わらんのみ。

先生が言われた、
「年齢が
40歳にもなって人に憎まれるというのでは、終ってるね」。