易と人生哲学 F 安岡正篤先生講義
平成19年6月度

 1日 慈悲・慈母 慈悲というものが人間の一番本質的な、一番尊い心であります。この慈悲によって人間は生きておると言ってもよいと思います。どちらかと言うと女は慈悲をもって本体としますから慈母という言葉があるわけであります。慈悲を本体とする母という意味であります。また人間の感情の中で一番自然で、一番深刻なものは慈しむという感情です。 ものを愛し育てていく心、これが慈であります。仏教はこの慈悲に立ち、儒教はこれを仁という言葉で表現しております。慈悲の権化は女であり母であります。女の一番尊い特質は慈悲であり、慈母という言葉は本当によい言葉であります。狩野芳崖の「慈母観音」と絵は一世を風靡したといいますか、賛嘆させたものであります。
 2日 女が根本 そこで女は、根本的であり、内省的であり没我的であります。これを抽象的に言うと、分かれるものを結び内に蓄える、即ち統一的含蓄が本能本領であります。

それに対して、分化発展、発現するものが陽性であり、男性であります。この両性が相待って始めて堅実な創造活動があるわけであります。 

 3日 女性次第の民族繁栄 そういう意味で、女性教育が大変大事でありまして、これによって民族の繁栄、永遠の生命を得ることが出来ます。
徳川幕府が、世界史でも珍しい三世紀近く権力を維持
することが出来た原因について、歴史家の研究によりますと、若し徳川幕府が全国を一つの統一組織として直接支配しておりましたら、百年ともたなかっただろうと言うことであります。
 4日 田舎侍の素朴性と女子教育 処が幕府は藩政を採用して、大小二百数十の藩を置きました。この田舎藩の侍たちが、江戸の都侍に対して立派であったから、あれだけ続きそして明治維新が行われた。これは田舎侍の素朴性が然らしめたものでありまして、この「文明と素朴」ということは歴史哲学の上からも重大な問題であります。
それと、もう一つは女子教
育です。これが非常に優れておりました。元来、武士階級は、鎌倉時代から女子教育に力を入れましたので非常に良い教育が行われておりました。特に徳川時代には、これが成功し、実に頭の下がるような女性が現れました。この二つが徳川幕府ら支えた根本要素であります。易学の原則に徴しても徳川時代になっても巧く成功しておるのであります。
 5日 その惰力で、明治時代はよかった。処が大正・昭和となりまして、こういう興亡の哲学というような点から申しましても、非常に浅薄になり、画一的機械的になりました。
そこで色んなことが乱れてきたのでありますが、一番心配なのは、女子教育であ
りまして、これが甚だ残念ながら当を得ていないことであります。今日のような女子教育、女性生活、その文化というものを野放しにしておきますと、日本民族は、遠からず衰退するのではないかと、英知に富む歴史家たち、歴史哲学者が心配しております。
 6日 (たい)(きょく) この陰陽活動の根本が太極であります。太極とは、宇宙そのもの造化そのものでありまして、この太極の作用働きが、陰陽相対()性理法であります。 そこで我々の意識、精神、心理に向けて観察いたしますと、この意欲、欲望というものは、外に向かって発するものでありますから非常に陽性であります。
 7日 太極2 それに対し省みて、無駄なもの、危険なものを省くこと、これは陰性であります。この省の字には二つの意味がありまして、その一つは「かえりみる」、あとの一つは「はぶく」であります。 かえりみ、はぶくと読まなければなりません。この反省と、含蓄は女性の分野本領でありますから、反省的であり内省的であり、引っ込み思案であるというのが女性らしいのであります。
 8日 太極3 これに反して、男性は陽性でありますから、欲望、活動が本領であると申して宜しい。
然し、我々の精神活動には、男女を通じて欲望という
陽性と、同時に内省、反省という陰の原理が働いております。だからこの欲望と反省の調和がちょうどよくとれたのが円満な人格であります。
 9日 解決しない問題はない また人間の性能で申しますと、同じ意識の中に、理知と情緒と、この欲望と反省があってみな陰陽相対()であります。知能では、分析的論理的な知能は陽性であり、感情では、野心満々などいうのがやはり陽性であります。
だから論理的であり多分に表現を主とするような頭脳
は、男の特徴であって陽性であります。これに反して、統一的含蓄的で、反省的な知能、或いは内省的な知能、あるいは内省的な感情は陰性であり女性的な頭脳であります。この両方がうまく調和すればよいので、このように陰陽相対(待)性の理法から観察いたしますと、解決しない問題はないと思います。
10日 欲望・欲求 長寿を保つためにも、どうしても欲望、欲求というものをよく反省して、余計なものを省いていかなければなりません。然し、余り内省的になりますと沈鬱になり、控え目になりますから進歩が止まります。 政治で申しますと、大体民衆は、自分の欲望、自分の意思で生きております。だから人間の欲望、欲求というものを表現するのが民衆でありますから、これを放置すると、混乱、闘争に陥ってしまう恐れがあります。
11日 そこでよく反省して指導する必要がありまして、その役割に任ずるのが政治家、役人であります。それで昔から官庁には「省」の字がついております。
あれは、省み、省くという
意味です。だから、冗官、冗費などというのは、これは役人にはとんでもない誤りでありまして、役人、役所の仕事というものは省いて、簡素でなければなりません。
12日 省庁の省は 運輸省、大蔵省の「省」の字は、中国では昔から役所につけておりまして、それを日本も取り入れて、大化の改新以来、官庁につけておりますが官庁に省をつけるということは、大衆に任せておくと、複雑、混乱化する人間生活、社会生活、あるいは国家生活をよく省み、省いて、簡素化、単純化していく、これが役人の 仕事でありますから、そこで省の字がついておるのであります。だから役人が増えて事務が冗長になるなどということは、これは省ではありません。そういう意味で、文字学そのものをやっただけでも、役人、官庁などというものが如何にあるべきかという結論が引き出せるのであります。
13日 易学は根本学 易の学問というものは、人間のあらゆる問題に関連して、最も根本的、本質的な研究になり、尽きぬ興味と真理を覚えるものでありまして、これに首を突っ込みますと退屈しなくなります。そして又、昔から学者、哲人というような人は若いときは、世間的活動に追われて、漸く年をとって暇と

自由を得るようになると、殆ど言い合わせたように易学に入るのが学問ある人の常であります。易は無尽蔵でありますけれども、特に大事なこういう意義と使命を引き続き解説したいと思います。時間が参りましたので、第四講をこれにて終わります。
(昭和
53124日講)

第五講 昭和53年3月15日講於近鉄本社
14日 復習により基礎づくりを 本日は第五回目でありまして先へ進むためには、過去四回の講義の復習をして、しつかりと自分のものとしておく必要があります。何事にも同じ理でありますが、学問をするにも、始めと言いますか、或いは基礎と言いますか、もっと分かり易い言葉でいうと「出だし」「踏み出し」というものが非常に大切であります。これをおろそかにしますと行けば行く程分からなくなり、混乱し嫌にもなります。嫌になるならまだしもですが、誤ります。昔から学問には、正学―正しい

学問と、曲学阿世などという曲がった学問がありまして、くどい程始め、言い換えると根本をしっかり立てる、確定しておくことが大事であります。この易学というものもその通りでありまして、先へ行く程分からなくなりますから、常に元に返り、始めを明らかにしてやって行きますと、先へ進む程興味が湧く、また活用が効くようになります。そこで従来講じて参りましたことを、時々復習して確かめると言いますか、習熟すると申しますか、それをやって頂きたい。 

15日 特に陰陽を 特に大事なことの一つは、陰陽というものを、はっきりと正確に認識することでありまして、特に、前回も申しましたが、俗世間の学問とか思想とかいうものは、時々とんでもない誤解や、遺漏、不足、不備等色々な欠点がありがちであります。 特にこの「陰陽」や「(ちゅう)」というような問題には浅解誤解が多いのであります。易について申しますと、易はいままでの書物には三義―三つの意義を専ら説いてありますけれども、私はわざわざ六義と、三義増やしてお話しました。
16日 易は「かわる」 その六義の中に、易という字は、おさめる()と読み、そういう意義があるということを注釈致しておきました。処が、易を宿命的に考える人が非常に多く、それでは易ではありません。易は「かわる」であり、「かえる」で、変易(へんい)であります。 人間の行為、道徳という点から言えば、おさめる(修、治)という意味がまた非常に大切であります。おさめる、ということはあらためることであり、どこまでも限りなく進展させていくことでありますから、易には伸びるという意味もあります。
17日 不易 易の三義は、言うまでも無く「変わる」ということ、これは「変わらぬ」ということがあって始めて変わるので、変わらぬということがなければ変わることもありません。そこで第一義は「不易」であります。
そしてそれに即して「変化
する」、これが第二義であります。また変化してやまない中に、変化の原則を探求して自主的に変化していく、これが第三義であると従来の書物は、この程度しか説かなかったのでありますが、更に我々は、易の六義というものをよく味識しなければなりません。
18日 (ちゅう)していく

陰陽相対()性原理についても、一般の人々は陰陽というと相対立するものであると兎角断定しがちでありますが、相対立すると同時に、相待つということ。則ち、陰は陽を待って始めて「中」していく、進歩向上

していく、これを西洋流に言いますと、レシプロカリティーreciprocality(相互性・相応性)であります。これが非常に大事な意味で、対立と同時に相待つという意味が大切だということを力説しておきました。 

19日 復習の方法は、ただ知識理論として繰返すのではなく、やはり体験するということです。自分の生活、行動を取り入れ、事実に徴することが 大切であります。私は、復習の習という字に大変興味をもっております。学校では、習という字を羽―はねの下に白と書くと教えます。
これは間違いでありまして、あれは白ではなく鳥の
胴体を表しております。雛鳥が巣を出てきて、ぼつぼつ親鳥に真似て飛ぶ稽古をする、その形を現したものが習という字です。習うということは、あの文字が表しておりますように、実行、実演が大切でありまして、易を学ぶ、易を習うということは、常に自分の存在、生活、行動等に徴して勉強するという心がけが特に大事であります。
20日 陰と陽 また陰と陽について偏見を持たないようにしなければなりません。どうかすると陰は悪く、陽は好い、陽性であるということは、陰性よりも好いというような錯覚をしがちですが、これも非常に危険であります。危険と言えば、どちらかと いうと陽のほうが危険です。だから陽には「ウソ」偽りという意味があります。文字学をやった人、或いは文章に通じた人々はよく知っておりますが、陽は、うわべ、あらわ、という文字であると同時に偽りという意味に使います。
21日 陽は陰を待つ 本当の学問、真理というものは、余程細心の注意をして勉強しませんと、それこそ偽りとなります。兎角世間では、陰が悪く陽が好いのだというようなことも常識になっておりますが、大変あやまりであり、又従って非常に危険なことであります。 陽は陰を待って始めて陽であり、又陽があって陰が生きるのであります。処がどちらかというと、陰はわかり難く、陽のほうが分かり易い。従って特徴も欠陥も、即ち長短ともに陽の方が認識しやすく、陰の方が認識しにくい。そこで色々の間違いが起こるのであります。
22日 生きた使い方が出来る迄

その陰陽を正しく活用する、発展させるのが即ち「(ちゅう)」であります。これをはっきり認識する、会得(えとく)するということが易を学ぶ最も大切な根本問題の一つでありまして、これを繰り返し繰返し本当に腹

に入れ、そして生きて使えるというところまで煉る必要があります。みなさんは、陰陽の原理というものを捉えて、それに基づき色々自分で活用と言いますか、活研究をされますと、見識というものが次第に発達してまいりましよう。
23日 やまいだれと知 例えば、我々の大事な「知」、知るということを例にとりますと、知という字は陽性のものですから、発動、活動しやすい。そこに危険があって、どうかすると知はとんでもない誤りに陥るので、知の字をやまいだれに入れて、ばかという字(())が出来ております。
同時に、知というものは全
てをそのまま受け入れないで、一応考える。反省する。或いは疑う。そこで疑という字をやまいだれに入れてやはり「ばか」という字((おろか))が出来ております。これは難しいバカという字であります。一寸、考えるとやまいだれに情の字を入れそうなものでありますが、そういう字はありません。
24日 知と情 そこで人間は、「知」と「情」、情は結びの力ですから、これは「陰」です。知と情とがうまく調和しておるというのが所謂「(ちゅう)」でありますが、どちらかと言うと、陰である情の力のこもって厚いのが根本であります。 知の方は派生ですから、樹木で言えば、枝であり、葉であり、花であります。だから人間は、内に情が厚く、そして頭が良いと言うのが一番望ましい。知が情に勝つと、余程気をつけませんと、軽薄になり利己的になります。
25日 才は派生的 才も同様であって、派生的なものでありますから、利口であるとか、才能手腕が勝れているからと云って、これに走ると危険であります。
そこで才知があればある程
、反省、修養が大切で、更に情を養う必要があります。このように万事「陰原理」と「陽原理」の特徴を生かして考えますと、物事の判断を誤ることがありません。これは大事な根本原理であります。
26日 陰陽五行思想 この陰陽相対()性原理と相待って、五行思想というものが流行しました。これは戦国から漢代になって発達した思想、理論であります。自然と人間の存在、生活、活動を五つの原理に分 けて、観察解説していこうというものであります。これが陰陽の理法、理論と相待って、東洋独特の陰陽相五行思想というものが出来ました。そして後世の易学の最も根本的な問題、原理になりました。
27日 五行とは 然し、この五行思想につきましては色々誤解もありますので、これを正解しなければ易の解釈運用ができません。五行とは申すまでも無く「木、火、土、金、水」の五つであります。 行は「ゆく」という字でありますから、言うまでもなく活動ということであります。人生、自然の営む活発な作用、行動、力これが五行であります。
28日 天地の営為を洞察 特に中国人は、抽象的理論よりも具体的な事実、存在を重んじて、これを観察しますので、その活動性、所謂ダイナミズムを実在する「木、火、土、金、水」というものを通じて、これらを象徴として、そこに営まれる「天地の創造」、 「変化の作用」を分類したものでありまして、木そのもの、火そのもの、土そのものを宇宙、人生の根本問題として組み立てていくという唯物的な意味ではありません。この象徴もシンボルというものが分かりませんと、易学というものは出来ません。
29日 顔に書いてある 東洋のシンボリズムというものは、非常に発達しておりまして、例えば我々の人相もやはり一つのシンボルであります。俗に「顔に書いてある」とよく言いますが、その通りであります。私は、この「顔に書いてある」という言葉で大変驚いた経験があります。

それは、今次大戦の直前にドイツに行きました時に、ある日、学者達と会談の折に、人相の話が出まして、一人の学者が「自分のベルリン大学で、日本や、中国の人相に関する書物を沢山集めておる」と言いました。 

30日 皮膚科 そこで、「それは面白い、どこで集めておるのか」と尋ねますと「医学部だ」という。「医学部のどこで集めておるのか」と、更に尋ねますと「そこまでは知らぬ」というので特に調べて 貰いまして、「医学部の皮膚科でやっておる」と分かれました。面白いと思って、皮膚科の教授に会わしてもらって聞きますと、これが非常に参考になりました。