徳永圀典の「日本歴史」N平成196
平成19年6月度

 1日

浮世絵

江戸時代の浮世絵、歌川(安藤)広重の「名所・江戸百景」の中の「亀戸梅屋敷」の絵をそっくりそそのまま、19世紀のフランス人画家ゴッホの「花咲く梅の木」は模写している。

日本の浮世絵が西洋の万国博覧会に渡り西洋の芸術家に多大な影響を与えたことが分かる。浮世絵は江戸時代の中頃から幕末にかけて盛んに作られた。江戸の町人の浮世―世の中を題材にした日本人の生活美を見事に表現したものである。

 2日 単純な「線と色」 浮世絵の絵師たちは、木版画の特徴を生かして、単純な線と色の面を用いながら、その芸術性を高めてゆくのである。 歌麿の美人画、北斎、広重の風景画などの人気絵師たちの錦絵は本屋の店頭で売られ人々の評判をよんだ。
 3日 海を渡った浮世絵 1980年代、日本の開国を機に浮世絵が西洋に紹介された。当時の西洋の画家たちは、浮世絵の、明るい色彩、大胆な構図に衝撃を受けた。彼らは自分の作品の中に浮世絵を描き込んだり、着物姿のモデルを書いたりしたが、浮世絵の影響は深いところまで及ぼした。 当時、産業革命を経た後で、ルノアール、ピサロ、ドガ、セザンヌら印象派と呼ばれる画家は、自然をありのままに描き光の充満した画面、瞬間の表情を写し取る手法は浮世絵から学んでいる。日本の芸術の影響はフランスでは、ジャポニズムと呼ばれた。
 4日 印象派の作品比較 モネの「舟遊び」と鈴木晴信の「蓮池舟遊美人」

セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」と葛飾北斎の「快晴の不二」と北斎漫画

 5日 新しい学問 18世紀の産業の発展と共に帳簿の整理や遠隔地との取引のため、民衆にも学問が必要となる。各地に寺子屋が多数作られ多くの子供たちが「読み書き算盤」を身につけた。民衆の教育水準が向上した、当時の世 界では群を抜いたレベルであったといわれる。結果、各地の町人、農民の生活に即した新しい学問が花開いた。町人たちの勤勉と倹約を説いた京都の石田梅岩の「心学」はその代表である。
 6日 本居宣長と国学 伊勢松阪の医師、本居宣長は「古事記」など日本の古典研究を通して明らかにした。
特に皇室の系統が絶える事無く連綿と続いている、万
世一系が、世界の万国に勝れている所以であると説いた国学を発展させた。国学は平田篤胤により町人・農民の有力者に間に広がり尊王思想を培った。
 7日 蘭学 将軍吉宗はキリスト教との関係ない西洋の書物の輸入を認めたので、ヨーロッパの学問を学ぶ「蘭学」が発展して行く。杉田玄白と前野良沢はオランダ語の解剖書を苦労の末に翻訳して「解体新書」を現した。 平賀源内の如く蘭学を学び自ら工夫して発電機を作る人物も現われた。下総佐原の伊能忠敬は全国を測量し日本最初の正確な日本地図(大日本沿海與地全図)を作成した。また陸奥八戸の医師・安藤昌益は万人が耕す世の中の理想を説いた。
 8日 対外思想の流入 18世紀末頃から、欧米諸国の接近を背景に、国際社会を視野に入れて、日本の在り方を説く人々が出てきた。林子平は「海国兵談」を記して江戸湾がロンドンの テームス河と水路で繋がっていると述べて、海防の必要性を説いた。本多利明や佐藤信淵は各国と積極的に交易して、国を富ませるべきだと主張した。
 9日 日本人の自覚 水戸藩の会沢正志斉は、水戸学の立場から、尊皇攘夷の思想を元に、日本人が精神的に結束して外国に当たることを説いて人々に深い感化を与えた。 頼山陽の日本外史は、日本の歴史を巧みに記述して幕末・明治期に広く読まれ、日本人として自覚を養った。
近代日本 欧米の日本進出と幕末の危機
10日

産業革命と資本主義
18世紀半ば頃まで、イギリスは牧歌的な田園が広がり、馬車の行き交う古き良き社会であった。18世紀後半になると、蒸気機関が実用化され、紡績業中心の工場制機械工業が始まった。大量の商品が能率的に生産されるようになり、工業都市が成立した。

蒸気船、鉄道の出現により、交通の速さと規模は飛躍的に増大した。素朴な農業共同体から動力を用いた工場制工業社会への転換は産業革命と呼ばれた。産業革命は先ず英国に興り、その後100-120年間にフランス、アメリカ、ドイツ、日本にも広がっていった。

11日 資本主義 生産の元手となる資本を持つ資本家が労働者を雇い、経営する仕組みを資本主義と言う。資本家は利潤の追求を第一にした為、女性や子供の長時間労働、工場 環境の不衛生などの社会問題を発生させた。こうして、産業革命は、資本主義を誕生させたが同時に、資本家階層と労働者階層の分化と対立を生んでゆく。
12日 市民革命 政治でも新しい動きが起こった。ヨーロッパでは、それ迄の封建的な王侯貴族が領地を支配し、人々の身分は縛られ、私有財産が制限され商品の生産・流通にも制限があった。 然し、17世紀後半から18世紀後半にかけて、個人の自由や平等の保証を求める改革運動が相次いだ。イギリスに起こり、やがてアメリカ、フランスにも波及してゆく一連の政治改革を市民革命と言う。
13日 フランス革命 1789年、フランス革命が起きた。国王を処刑するという過激な流血事件を経てではあったが「人は生まれながら、自由平等な権利を持つ」(人権宣言)に代表 されるように、基本的人権が認められ、私的所有権が許された。そして、個人と個人が自由に結びつき活動するという市民社会が形成され始めてきた。
14日

侵略思想の根源トルデシリャス条約

ポルトガル国王は、アフリカ南端をめぐり東回りでインドに到る航海途上で到達した全ての陸地を、永久に所領とする許可をカトリックの大本山であるローマ教皇庁から与えられた。勝手なものである。またスペイン国王もコロンブスが北アメリカ大陸への到着に成功すると、領有の承認を ローマ教皇に求めた。いい加減なものである。そして、1494年、大西洋上の南北に一本の直線を引いて、線から東方で発見されるものは全てポルトガル王に属し、西方で発見されるものは全てポルトガル王に属するというトルデシリャス条約が両国間で締結された。勝手なものだ。
15日 地球ニ分割の白人の傲慢 このトルデシリャス条約により決められた史上初の大胆極まる領土分割線は、地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。 当時のヨーロッパ人は、まるで饅頭を二つに割るように勝手に地球を分割して自分たちの領土とみなしていたのである。
16日 二つの革命の明暗 産業革命と市民革命は、欧米の社会に個人の自由を広げ物質的な富をもたらした。然し、自由の拡大は、人々の欲望を高め、工業社会の成功は階級の対立や貧困という禍を残した。 欧米諸国は急速な近代化に伴う国内問題点を自国外で解消する為に、安い原料の確保、自国製品を売る市場を求めて、アジアやアフリカの植民地獲得に励んだ。
17日 列強 経済的拡張や領土拡大への大きい野望をこれら産業革命と市民革命が生んだ。 こうして欧米諸国は「列強」という世界の強国への道を歩み始めたのである。
18日 東アジアの平和な250年間 植民地支配を目指す西洋の軍事力は、東アジア諸国を圧倒していた。西洋と東洋で軍事力の格差が生じた背景には両地域の歩んだ歴史の差でもある。かって織田信長や豊臣秀吉が活躍した16世紀の日本や、清が明を滅ぼして王朝を立てた17世紀の中国では、国内戦争が 盛んで軍事技術は長足の進歩を遂げていた。然し、ひとたび平和が回復すると、日本と中国の両国では、共に銃砲火器への関心が薄れ、軍事技術の開発に格別の注意を払わなかった。東アジアでは、その後250年間、のどかで平和な時代が続いていたのである。
19日 西洋諸国の軍事力 西洋では、この間、ひたすら軍事力の強化に努めていた。凡そ16世紀、18世紀は、西洋における驚異的な軍事力発展の三世紀として知られる。
かってモンゴルの騎馬軍団
は、馬を走らせて草原を征服し続けたが、16世紀以後の西洋人は、軍艦から大砲を撃って植民地を征服し続けたのである。それでも東アジアに危険がすぐに及ぶということは無かった。
20日 欧米の植民地獲得競争 英国やフランスは、植民地獲得のためにの争奪戦を、まずインドやカナダでくり広げた。19世になると遂に東アジアに迫ってきた。平和を維持してきた中国や日本は突然これら西洋の強大な軍事力に直面したのである。欧米の列強は1800年に地球の陸地の35 パーセントを支配するに至る。1914年の第一次世界大戦開始の頃には84パーセントまで支配地を拡大していた、侵略していたのである。日本の明治維新はその二つの年代の中間にあたる時期に起きた出来事である。対外対応の必要性から起きたのである。
21日 紅茶と銀とアヘン 18世紀前後、ヨーロッパでは紅茶が広まり、イギリスが清国から輸入する茶は生活必需品となった。当時の有力な茶の産地は中国であった。 イギリスは、これを買い取る適当な見返り輸出品が無かった。そこでメキシコやスペインから買い込んだ銀で茶の葉を購入した。これにより清国内では次第に銀がだぶついた。
22日 アヘン やがて中国市場にとんでもない輸入品が現われた。最も代表的な麻薬と言われるアヘンである。イギリスはインドを植民地としておりインド人にアヘンを作らせこれを清国との貿易の代 価として利用したのである。イギリスは自国では決して輸入を許していないアヘンを清国に売りつけることで、銀の一方的流出に悩む不均衡な貿易収支を正すと同時に、一挙両得策に出たのである。
23日 清国の経済危機 アヘンは衰退期の清国には無抵抗に受け入れられた。腐敗していた清の官僚は輸入禁止という対抗策も打ち出せなかった。 忽ち清からの輸出は茶の葉だけでは足りなくなり、だぶついた銀を充当せねばならなくなった。銀の流出で清は経済危機に襲われた。
24日 アヘン戦争 清国の道光皇帝はアヘン販売、吸引のいずれも死罪にすると厳禁政策を決定した。皇帝の命を受けた清の大臣、林則徐はイギリス人貿易商から手持ちのアヘン約1300トン(2万3000箱)を没収した。大きな穴を掘り海水と石灰石を混ぜてそこにアヘンを投入し化学処理をして廃棄した。 するとイギリス海軍は自由貿易を口実に清国沿岸に発砲し18940年アヘン戦争が始まった。戦争は二年余り続くが圧倒的な英国の海軍が海上を封鎖し1842年、清は屈辱的な南京条約に調印した。英国は香港島を占領し大陸への足がかりを得た。酷いものだ。
25日 19世紀中頃の植民地 イギリス(インド、ビルマ、シンガポール、一部ボルネオ島、)
フランス(インドネシア)。スペイン(フィリピン)。
オランダ(現在のインドネシアのスマトラ島、ボルネオ、セレベス島)。
ポルトガル(ティモール島)
26日 オランダ風説書 清がイギリスに破れ、香港を割譲し開国した情報は「オランダ風説書」を通して日本に直ちに知らされ幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えた。 然し朝鮮では危機意識が薄く、九ヶ月も経過した後であり、その内容も簡単なものであり指導者達は国際情勢の急変に気がつかなかったというより朝鮮は腐敗そのものの政権であった。
27日 中国の反応 中国は古代から幾度も異民族に侵入されその支配を受けることも多く、支配する異民族を逆に自国文明に取り込み同化させてしまう傾向があった。
清国は満州人、女真族の支
配する国であった。中国人は異民族の支配される事に慣れ、支配されて自分は変わらないという自信を持っていた。欧米列強と雖も、彼らは同じ姿勢を崩そうとはしなかった。
28日 徳の治 皇帝が人民の徳で治めるので正しい統治であるとする徳治主義の考えが強く、武力の卓越を尊ぶのは野蛮であるとみなされがちであった。
実際には武力を用いて物事に当たることも多かったが

文官優位の官僚中心の中国では、建前として武官は尊重されなかつた。為にイギリスに戦争で敗北しても徳ではなく、武力に敗北したに過ぎないと考え、自国文明の自信に揺るぎはなかった。 

29日 日清戦争 更に欧米列強の圧力は強まり清は西洋の軍事技術を取り入れざるを得なかった。 然し、政治や社会の在り方や文明の見直しまでには至らなかった。
30日 日本への留学生 清がその見直しが必要だと思うようになったのは、日清戦争で日本に敗れてからであった。

清は近代国家の建設の仕方を学ぼうとして、大量の留学生を日本に送ってきた。古代の遣唐使とは逆の運動が始まったのである。