徳永の語る「安岡正篤先生」その五 

安岡先生の六中観

忙中閑あり

苦中楽あり

死中活あり

壺中天あり

意中人あり

  さて、これを現代の我々は如何に受け止めるか

先ず、忙中閑あり

戦争中、東京などアメリカの大空襲があった。安岡先生は

座禅して過ごされた。どんなに騒々しくとも有益な時間

は生み出せる。どんな時でも自分の為の時間を捻出する工夫が必要。多忙な時こそ真の閑が必要、逆説を言えば、本当の閑中には、本当の閑なしとなる。

次に、苦中楽あり

難しい仕事を苦労して成し遂げた後ほど喜びは大きい。

これが本当の苦中、楽ありではないか。他人が見て大変そうでも本人には楽しい事はある。心構え一つの問題だ。
物の見方を一つ変えると幸福感は変えられる。

三番目は、死中、活あり。

剣の極意に、真剣の刃の中を、あと一歩踏み込むことにより活路を見出せると言う。

仕事でも、もうこれ以上は無理と感じていても、思い切って踏み込むと以外や成功する事があるものだ。

人間でも、短所が長所となるのは、

慎重、優柔不断、即断即決、気が短い、など。人間とは表裏一体なのである。人間の生き方も、死中にも活路があると信じて生きたいものであります。自分がやりたくないもの

こそ自分が強化しなくてはならないポイントなのである。人前で話したくないと思う人は、そこが自分の強化すべきポイントなのである。
四番目は、壺中天あり。

壺の中とは己の内面的世界であろう。ここには無限の宇宙の素晴らしさがある事の例えだ。外にばかり目を向けていては分からない。内省こそ現代的な課題かもしれれない。

五番目は、意中人あり。

貰った名刺の数だけでなく、いざ、という時に頼れるような真の人脈を持ちたいものである。それはビジネスの金脈ともなる、多々その事実を知っている。勿論、心の友である「心脈」でもあります。

最後が、腹中、書あり。

単なる知識の頭だけでなく、いざと言う時の力となるものでなくてはなるまい。血肉となった座右の書であります。

自分なりの、理論、説、信念、思想、活きた学問、であるのが、「腹中、書あり」であります。

書は人物を見ることが大切であります。論語ではこう言うと表面的なことではなく、人を見るこのであります。