44講 孝徳天皇の悲劇

大化の臨時政権と孝徳天皇

蘇我氏打倒のために利用された軽皇子 

中臣鎌足はその謀略によって無実の右大臣蘇我倉山田石川麻呂を葬り去りましたが、この蘇我倉山田石川麻呂を鎌足の第一の犠牲者とするならば、第二の犠牲者というべきは孝徳天皇ということになります。孝徳天皇は殺害されたわけではありませんが、ある意味では殺害されたよりも悲劇的な境遇に突き落とされたのです。

本講義では、その孝徳天皇と第三の犠牲者ともいうべき孝徳天皇の子・有間(ゆうまの)皇子(おうじ)に焦点を当て、鎌足の専横を追いながら大化の改新政治に内在していた天皇権の疎外という問題を具体的にみておきたいと思います。

皇極天皇の四年六月、蘇我入鹿・蝦夷を葬ったクーデターの翌十四日には早くもクーデターを実行した中大兄皇子と鎌足は臨時政権を樹立しています。このとき、退位された皇極天皇はクーデターの首謀者である中大兄皇子に事態を収拾する責任があるとして皇位を継承させようとしました。しかし、鎌足はそれを排して中大兄を皇太子にし、天皇には軽皇子(かるのみこ)を立てたのです。軽皇子、即ち孝徳天皇です。

鎌足はなぜ軽皇子を擁立したのか。

それは、一つには中大兄皇子に接近する以前、鎌足が軽皇子に協力を求めたという経緯があったからです。蘇我氏打倒を計画していた鎌足にすれば、計画の旗頭として皇位継承候補になるような有力皇子を前面に押し立てる必要があります。その旗頭として、鎌足はまず皇極天皇の弟である軽皇子に白羽の矢を立てたのです。

軽皇子に協力を求めるに際し、鎌足は「成功したらあなたを皇位継承者として次の天皇に擁立する」と約束しました。これに対し、軽皇子も皇位への色気を持っていたのか、喜んで鎌足に(くみ)し、その寵姫を鎌足に授けるほどの信頼をみせたのです。

この後、鎌足は軽皇子から中大兄皇子へ乗り換えたのですが、軽皇子との間にも以上のような関係があり、皇位継承者の段になると、密約もあったので軽皇子を擁立したのです。

もとより鎌足にすれば、約束を履行するというより、軽皇子を天皇にしておくことで改新政治の責任問題が生じたときの防波堤にしようという魂胆もあったでしょう。また、ほかに有力な皇位継承者がなく、クーデター直後の不安定な政局を考えれば、軽皇子を天皇に擁立して自勢力に加えるにこしたことはないわけです。

 

敏達天皇から天武天皇までの系譜

 

    蘇我馬子----法提郎媛

          古人大兄皇子-------倭姫王(天智皇后)

    田村皇子(舒明天皇)

              中大兄皇子(天智天皇)-大友皇子(弘文天皇)   

敏達天皇-   宝皇女    間人皇女(孝徳皇后)

押坂彦人大兄皇子   (皇極天皇、斉明天皇) 大海人皇子(天武天皇) 草壁皇子

    茅淳王 軽皇子(孝徳天皇)-有間皇子           高市皇子

 

即位に始まる孝徳天皇悲劇

鎌足はいったんは軽皇子に接近したのですが、より傀儡化しやすく条件がよいと見れば躊躇なくそちらへ鞍替えできる人物でした。軽皇子が少しでも鎌足の方策を批判して自分の意見を主張したりすると、もう次ぎの人物を物色しはじめたのです。そして、軽皇子に代わって目をつけたのが中大兄皇子でした。

中大兄皇子はクーデターの時はおそらく33歳、鎌足は32歳、軽皇子は49才、年齢的に見ても、鎌足には同輩の中大兄皇子の方が軽皇子より傀儡化しやすく、将来性も認めたのでしょう。実際、中大兄皇子は弁舌巧みな鎌足に反対したり批判したりしなかったのです。そこで鎌足は軽皇子に代えて中大兄皇子を自分の傀儡君主として選んだのでした。

将棋の駒で例えれば、鎌足にとって中大兄皇子は最優先して守るべき「玉」であり、軽皇子は状況次第でいつでも切り捨てられるその他の駒になってしまったわけです。従って、鎌足は軽皇子を天皇に擁立したものの、その時点においては既に利用価値が無くなればいつでも切り捨てられる駒にすぎなかったのです。

軽皇子もそうした事情をよく飲み込んでいたのか、擁立されても再三固辞し「もし自分が辞退するのが許されるならば、天皇には前々から評判の高い古人大兄皇子にしなさい。古大兄皇子は先帝の皇子でもあり、年も長じているから最も皇位を継承するに相応しい人です」と言っています。

しかし、古人大兄皇子の方も、入鹿に擁立されていた蘇我系の皇子である自分が天皇になっても、いずれ問題が起こって命が危うくなると憂慮し、出家して吉野山に逃げてしまったのです。そこで鎌足は軽皇子を強力に推して遂に皇位を継承させたのでした。孝徳天皇は、こうして自分が利用されるだけの天皇であることを認識し、非常に弱い立場におかれることを知りながら辞退することも許されずに即位させられたのです。

 

利用されつくした天皇

傀儡天皇の悲運

臨時政権の最高首脳として、皇太子中大兄皇子と内臣・中臣鎌足のほか、孝徳天皇、左大臣・阿倍内麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が名を連ねましたが、孝徳天皇以下は要するにクーデターによる政局混乱を収拾するために、群臣が承認しうる天皇・長老大物を配置したにすぎません。前面にそれらの人物を押し立て、実権を握る鎌足らはその陰で思い通りに政治を進めていこうとしたのです。

クーデターのあった翌七月、孝徳天皇は間人(はしひとの)皇女(ひめみこ)を皇后に立てました。間人皇后は舒明天皇と女帝・皇極天皇の間に生まれた皇女で、皇太子中大兄皇子の同母妹に当たります。当時、皇后は皇族であることが条件でしたので、急遽、間人皇女が孝徳天皇のところへ嫁がれたわけです。しかし、孝徳天皇は間人皇女の叔父に当たり、年齢に三十才以上の開きがあったことを見ても、これが鎌足と中大兄皇子の政略であったことは疑いようがありません。ちなみに、孝徳天皇は既に阿倍内麻呂の(むすめ)小足媛(おたらしひめ)との間に有間皇子があり、倉山田石川麻呂の(むすめ)乳娘(ちのいらつめ)も妃になっており、臨時政権の首脳は鎌足を除けば互いに血縁・縁戚関係で結ばれたのです。

孝徳天皇と間人皇后の間には結局、子供は生まれませんでした。一説では、中大兄と間人皇后の間には同母兄妹でありながら情交関係があったと言われるほどで、孝徳天皇にとって中大兄の影がつきまとう皇后との夫婦生活はとても幸あるものとは言えなかったようです。

入鹿暗殺・蝦夷自決から三ヶ月にして古人大兄皇子も殺害され、自分たちに対立する者を容赦なく抹殺し、ますますその権力を強大化する鎌足・中大兄に対し、実権を握れないままの孝徳天皇はひたすら彼らの傀儡に甘んじるしかありませんでした。しかも大化五年、長老政治家の左右大臣が病没、惨殺されるに及び、

鎌足・中大兄政権の中にただ一人残っていた孝徳天皇は完全な飾り物天皇となり、まったく孤立した状態におかれてしまうのです。