「子帳 第十九」
平成29年6月
原文 | 読み | 現代語訳 | |
6月21日 | 一、子張曰、士見危致命、見得思義、祭思敬、喪思哀、其可已矣、 |
子張曰く、 士は危うきを見ては命を致し、得を見ては義を思い、祭には敬を思い、喪には哀を思う、それ可なるかな。 |
子張が言った。 |
6月22日 | 二、子張曰、執徳不弘、信道不篤、焉能為有、焉能為亡、 |
子張曰く、 徳を執ること弘からず、道を信ずること篤からざれば、焉んぞ能く有りと為さん、焉んぞ能く亡しと為さん。 |
子張が言った。 徳を守ってもある程度、道を信じても熱心でない、これでは道徳があると言えない、何にもならない。 |
6月23日 | 三、子夏之門人問交於子張、子張曰、子夏云何、対曰、子夏曰、可者与之、其不可者距之子張曰、異乎吾所聞、君子尊賢而容衆、嘉善而矜不能、我之大賢与、於人何所不容、我之不賢与、人将距我、如之何其距人也、 |
子夏の門人、交わりを子張に問う。子張曰く、子夏は何と云えるか。対えて曰く、子夏曰く、可なる者はこれに与し、その不可なる者はこれをふせげ。子張曰わく、吾が聞ける所に異なり。君子は賢を尊びて衆を容れ、善を嘉して不能をあわれむ、我の大賢ならんか、人に於いて何の容れられざる所あらん。我の不賢ならんか、人将に我をふせがんとす。これを如何ぞそれ人をふせがんや。 |
子夏の門人が、人との交わりについて子張に尋ねた。 子張は答えた。「子夏は何と言っているのか」。子夏の門人は答えた。子夏は、善い人と親交を持ち、善くない人は拒絶せよと言っておられます。子張が言った。 それは私が孔先生から聞いた話とは違う。君子は賢明な人物を尊敬しながら、一方で未熟な大衆を受け容れ、善人を賞賛しながら、善行を行う能力のない者を憐れむものだ。自分が非常に賢い人物であれば、誰にでも受け容れられる。自分が優れた人間でなければ他人から拒絶されるから、どうして自分から拒絶するようなことがあるだろうか。 |
6月24日 | 四、子夏曰、雖小道必有可観者焉、致遠恐泥、是以君子不為也、 |
子夏曰わく、小道と雖も必ず観るべき者あり。遠きを致すには恐らくは泥(なず)まん、是を以て君子は為さめざるなり |
子夏が言った。小さな技芸の道であっても、見るべき部分はあるものだ。しかし、究極まで道を極めようとすれば、小さな技芸は邪魔になる。だから、君子は小さな道を行かない」。 |
6月25日 |
五、子夏曰、日知其所亡、月無忘其所能、可謂好学也已矣、 |
子夏曰わく、日々にその亡きところを知り、月々にその能くするところを忘るる無くんば、学を好むと謂うべきのみ。 |
子夏が言った。毎日、まだ自分の知っていないことを知ろうとし、毎月その知った事柄を忘れないようにしておく。これは、学問を好む態度と言えるだろう」。 |
6月26日 | 六、子夏曰、博学而篤志、切問而近思、仁在其中矣、 |
子夏曰わく、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁はその中に在り。 |
子夏が言った。広く学んでしっかりとした意志を持ち、真剣に質問して身近な問題について考える。そういった行為の中に仁はある。 |
6月27日 | 七、子夏曰、百工居肆以成其事、君子学以致其道、 |
子夏曰わく、百工は肆(し)に居て以てその事を成し、君子は学びて以てその道を致す。 |
子夏が言った。職人は店に居て、その仕事を完成させる。君子は学問を行って、究極の道を修める。 |
6月28日 | 八、子夏曰、小人之過也必文、 |
子夏曰く、小人の過つや必ず文る(かざる)。 |
子夏が言った。小人は過ちを犯したら必ず言葉で誤魔化そうとする」。 |
6月29日 | 九、子夏曰、君子有三変、望之儼然、即之也温、聴其言也、 |
子夏曰わく、 |
子夏が言った。 君子には三つの態度の変化がある。遠くから眺めると厳然としている。近くに寄って見ると穏やかである。その言葉を聴くと厳粛である」。 |
6月30日 | 十、子夏曰、君子信而後労其民、未信則以為詞ネ也、信而後諌、未信則以為謗己也、 |
子夏曰わく、君子は、信ぜられて而る後にその民を労す。未だ信ぜられざれば則ち以て己を氏iや)ますとなす。信ぜられて而る後に諌む。未だ信ぜられざれば則ち以て己を謗る(そしる)と為す。 |
子夏が言った。君子は人民に信頼されるようになってから、はじめて人民を労働に使役する。信頼されないうちに人民を使役すると、人民は政治が自分達を悩ます思ってしまう。君子は主君の信頼を得てから、はじめて主君に諫言する。信頼を得ていないのに主君を諌めようとすると、主君は自分を誹謗されていると思ってしまう」。 |
7月1日 | 十一、 |
子夏曰わく大徳は閑(のり)を踰えず(こえず)。小徳は出入するも可なり。 |
子夏が言った。人格の完成した人は規範を越えることはない。途上の未熟な者は、多少の踏み越えは、到しかたない。 |
7月2日 | 十二、 |
子游曰わく、子夏の門人小子は酒掃(さいそう)・応対・進退に当たりては則ち可なり。そもそも、末なり。これを本づけば則ち無し、これを如何。子夏これを聞きて曰わく、噫、言游(げんゆう)過てり。君子の道は孰れを先に伝えん、たれを後に倦まん。諸(これ)を草木の区にして以て別あるに譬う。君子の道は焉んぞ誣(し)うべけん。始め有り卒わり(おわり)有るは、それ唯だ聖人のみか。 |
子游が言った、子夏の門下の若者たちは、拭き掃除や客の応対、儀式の動作については優れている。しかし、それらは末梢的なこと、根本的なことは何もできない。これは、どんなものだろうか。子夏はそれを伝え聞いて言った。ああ、子游は間違っている。君子の道は何を先に教えて何を後に教えるかということである。それは、ちょうど草木の種類によって育て方が違うようなものである。君子の道もどうして同じ教え方をすべての人に押し付けられるだろうか。はじめから終わりまで同じ一つのやり方ができるのは、(君子を越える)聖人だけだろうね(門人の若者に出来るようなことではない)。 |
7月3日 |
十三、 |
子夏曰わく、仕えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う。 |
子夏が言った。官吏として主君に仕えて余力があれば学問をする。学問をして余力があれば仕官をする。 |
7月4日 |
十四、 |
子游曰く、喪には哀を致して止む。 |
子游が言った。喪は悲哀の感情を十分に尽くすばかりである」。 |
7月5日 |
十五、 |
子游曰く、吾が友、張や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。 |
子游が言った。私の友人の子張は、中々の人物だが、まだ完成とはいかない。 |
7月6日 |
十六、 |
曾子曰く、堂堂たるかな張や、与に並びて仁を為し難し。 |
曾子が言われた。堂々としたものだな、子張は。子張と一緒では仁徳を行う事は難しい」。 |
7月7日 |
十七、 |
曾子曰く、吾、諸(これ)を夫子に聞けり、人未だ自ら致す者有らず。必ずや親の喪か。 |
曾子がおっしゃった。私は先生からこのように聞いている。「人間はなかなか自分の真情を発揮することができない、それが発揮できるのは親の喪の時くらいか」。 |
7月8日 |
十八、 |
曾子曰く、吾、諸を夫子に聞けり、孟荘子の孝で、その他は能くできるが、その父の政治を改めなかったことは、一般には出来そうにない。 |
曾子が言った、吾はこれを夫子から聞いた。孟子、荘子の孝では能くできるが、その父の政治を改めなかったことは、一般者には出来そうにない。 |
7月9日 | 十九、 |
孟氏、陽膚をして士師たらしむ。曾子に問う。曾子曰く、上、その道を失い、民散ずること久し。如し、その情を得ば、則ち哀矜して喜ぶことなかれ。 |
孟孫氏が、陽膚を司法長官に任命した。曾子が言われた。上に立つ者が道義を失っている為、人民が長きにわたり離散している。もし犯罪の実情をつかんだときは、彼らに同情すべきであり喜んではいけない」。 |
7月10日 | 二十、 |
子貢曰く、紂の不善は、是くの如くの甚だしからず。是を以て君子は下流に居るを悪む。天下の悪皆な帰すればなり。 |
子貢が言った、殷の紂王の悪事も、それほどひどいものではなかった。だから、君子は下流に居るのを嫌う。世界の悪事が皆そこに集まってくるからだ」。 |
7月11日 | 二十一、 |
子貢曰く、君子の過ちや、日月のみちかけの如し。過つや、人皆これを見る、更むるや人皆これを仰ぐ。 |
子貢が言った、君子の過失は、日食・月食のようなものである。君子が過ちをすると人民がみんなこれを見ている、その過ちを改めると人々はこれを仰ぎ見るのである」。 |
7月12日 | 二十二、 |
衛の公孫朝、子貢に問いて曰く、仲尼、焉(いずく)に学べるか。子貢曰く、文武の道、未だ地に墜ちずして人に在り。賢者はその大なる者を識るし、不賢者はその小なる者を識るす。文武の道あらざるなし。夫子焉にか学ばざらん、而して亦何ぞ常師かこれ有らん。 |
衛の公孫朝が子貢に尋ねた。孔先生は、誰から学問の教えを受けたのですか。子貢は答えて言った。周の文王・武王の教えは、地上から完全に消えたのではなく人々の間に残っている。賢者はその中で重要なものを覚えており、賢者でない者はその中で重要ではないものを覚えているものだ。天下のあらゆるところに、文王・武王の教えが存在している。孔先生は、どこででも学問をされており、決まった学問の師というものを持つことがなかった」。 |
7月13日 |
二十三、 |
叔孫武叔、大夫に朝をつげて曰く、子貢は仲尼より賢れり。子服景伯、以て子貢に告ぐ。子貢曰く、諸れを宮牆に譬うれば、賜の牆や肩に及ぶのみ。室家の好を窺い見ん。夫子の牆は数仭、その門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ず。その門を得る者或いは寡し。夫子の云うこと、またむべならずや。 |
叔孫武叔が朝廷で大夫に言った。子貢は仲尼よりも優れている。子服景伯はそのことを子貢に知らせると、子貢は言った。屋敷の塀に例えるなら、私の塀の方はやっと肩までですから、家の中のよいところが覗けます。しかし、先生の塀の高さは10メートル以上もありますから、その門を見つけて中に入るのでなければ、宗廟の立派さや役人たちが勢ぞろいしている様子は見えません。先生の門の中に入った人は少なく、あの方(叔孫)がそう言われるのももっともなのですが、実際にはそうではありません」。 |
7月14日 |
二十四、 |
叔孫武叔、仲尼を毀る。子貢曰く、以て為すこと無かれ。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり、猶、踰ゆべし。仲尼は日月なり、得て踰ゆる無し。人自ら絶たんと欲すと雖も、それ何ぞ日月を傷らんや。多(まさ)にその量を知らざるを示すなり。 |
叔孫武叔が仲尼の悪口を言ったので、子貢は言った。そんな悪口はお止めなさい。仲尼のことを悪くいうことはできません。他の賢者は丘陵のようなもので、越えようと思えば越えられますが、仲尼は日や月のようなもので、越えることなどは出来ません。人間が幾ら絶交しようと思っても、一体、日や月にとって何の問題があるでしょうか。それは、自分の身の程知らずを思い知るだけのことです」。 |
7月15日 |
二十五、 |
陳子禽、子貢に謂いて曰く、子は恭と為すなり。仲尼、豈、子より賢らんか。子貢曰く、君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎しまざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶天の階して升るべからざるがごとし。夫子の邦家を得れば、所謂これを立つればすなわち立ち、これを導けばすなわち行き、これを綏(やす)んずればすなわち来たり、これを動かせばすなわちに和らぐ、その生くるや栄え、その死するや哀しむ。これを如何ぞ、それ及ぶべけんや。 |
陳子禽が子貢に言った。あなたは謙遜されているだけです。仲尼がどうしてあなたより勝れていると言えるのか。子貢は言った。君子はただ一言で賢いともされるし、ただ一言で愚かともされる。言葉は慎重でなければならぬ。先生に及びもつかないのは、ちょうど天に梯子をかけても上れないようなものです。先生がもし国家を指導する立場につけば、いわゆる「立たせれば立ち、導けば歩き、安らげれば集まり、励ませば応える」ということです。先生が生きておられれば国家が栄え、先生が死なれれば悲しむ。どうしてこんな先生に(私ごときが)及ぶことができるのか」 |