鳥取木鶏会6月例会 安岡先生の言葉

社会と言う言葉

 「社会」という言葉も、たいていの人は英語のソサエティを翻訳したものと思っておるが、そうではなく、日本に昔からある言葉で、古代人は一つの実生活、自治体ができますと、先ず第一にその土地の神様を祀って社とした。その社に集まって、或は社に代表される地域の人々が会合していろいろ相談をする。これを社会と云っていた。別に英語の翻訳として出来た言葉ではなく、古くから日本にあった。社会の元は社稷で、その社稷は伊勢の内宮・外宮に象徴されておる。

議員は冷笑の的

 生活が奢侈となって、やがて窮迫する。人間は奢侈になれば飽く事を知らんからして、いくら収入を得ても不足を感ずるばかりである。この頃もそうであるが、人間が奢侈になったから、幾ら賃上げをやってみたところで追いつくものではない。常に足りない、常に不満であると云うのと同じことで、非常に奢侈になって、同時に窮迫して、もう世の中は経済万能で、その経済はますます頽廃する、弱体になる。政治というものは文字通り「(ただ)()し治む」と言うことであるが、政治も次第に堕落、混乱し、その機能を失墜して、議会なども国民から飽きられてしまい、軽蔑され、代議士というと冷笑の的になった。          (続人間維新)

人生の計

第一は、「生計」。我れ如何に生くべきかということであります。普通、生計と言うと暮しの意味、経済的な意味に使われますが、この場合はもっと大きな本質的な生き方のことであります。

第二は「身計」。如何に身を立てるか。今日で言うと、我々の社会生活の仕方・在り方ということになります。

第三は「家計」。家庭というものを如何に営んでゆくか、維持してゆくかということです。

第四は「老計」。如何に年をとるか。我々は否が応でも年をとり、老いてゆきます。形態的・肉体的に永遠の青春というものは有り得ないのです。この問題に対して世間一般の人は殆ど何も考えておりません。考えていても、せいぜい貯蓄するとか健康を維持することぐらいでありますが、儒教はこれに対する思索・学問の該博・深遠なことは本当に驚くべきものがあります。

第五は「死計」。われ如何に死すべきやという問題。これについても、儒教独特の深い意味があります。死計に対する思索の最も発達しているのは仏教でありますが、儒教にはまた儒教で仏教とは異なった深遠な興味津々たる思索・実践があります。

これが人生の五計でありますが、五計は叉一つに約すれば第一の生計に外ならず、従って儒教を一語にして言うならば、「われ如何に生くべきや」と言うことに尽きると言っても過言ではないのであります。また従って儒教を代表する「易」が、生の道、であることも、次第に深く味わうことができるわけであります。論語の中に孔子が「未だ生を知らず、(いづく)んぞ死を知らん」。自分はまだ生の何たるかを知らないのであるから、どうして死についてかれこれ言うことが出来よう、と言われておりますが、要するに死の事を考える前に、先ず我々は生に徹しなければならぬ、ということほ教えておるわけであります。死を全く考えないと云うのではない、生が分かれば自ら死が分ると言う、つまり「生」「死」を分けて考えずに一体のものとして考えるわけです。

近代の分科学的思考-絶対と相待

ところが大抵はこの現実の存在、生の営みというものを一体のものとしてでなく、唯物的に、或は唯心的にとらえて、肉体生活、精神生活、知識生活、感情生活と言った様なものに分けて個別的に考えております。殊に明治になって近代の学問文化が入ってきてから、その傾向が一層顕著であります。それは幕末、明治になって初めて日本が取り入れた西洋文化、西洋の学問・思想の根本原理の一つはディファレンシェーション(differentiation-分化)と言う事であったからです。処が、それがここ10年来いつの間にか逆になり、インテグレーション(integration−統一)の原理に次第に変わって参りました。この変わってきたことに対して大変誤解が多く、今まで派生的・分化的な原理であったものが、今度は反対に統一の原理になった、と解する人が少なくありません。これは分化をつきつめて行った結果、文化の追求・発展の結果、いつの間にか新たなる統一になってきていると解釈しなければなりません。

具体的に申しますと、一番顕著に変わって参った誰にも分かり易いのは医学であります。何分、医学は人間の健康、生命に関する学問でありますから、最も真剣であります。常に科学的にも哲学的にも先端に立っています。もともと古い医学、特に東洋医学などは内科と外科の区別もありませんでした。処が、わが国で言えば幕末特に明治になって、盛んに西洋医学が入ってくるに従って、次第に専門というものが発達し、先ず内科・外科に分れ、さらに内科は呼吸器、消化器、泌尿器など、外科は外科でそれぞれ専門的に細分化され、専門が権威を持ち、尊重され、専門家であることが、大変価値ある存在になって参りました。これは政治でもそうであります。昔は政治というものは、今日の行政も、経済も、教育も、すべてが渾然たる一体のものでした。それが近代になって色々に分かれ、さらに経済であれば、金融・貿易・生産などという風に細分化されてきたわけです。

処がそうなると、余弊が生じます。進歩にも必ず副作用が伴います。例えば、細胞というものは元来生理学的にはインモータル(immortal−不死)のものであります。その不死の細胞が何故死ぬのかというと、細胞が進化・増殖するにつれて、怪我したり中毒現象を起したりするからです。進歩に伴う副作用も色々ありますが、とにかく進歩に伴って専門が発達し、そのうちに専門的権威と同時に、専門的愚昧も表裏一体となって、専門家であるが故に普通人に出来ない大きな誤りを犯すことにもなるわけです。経済人が経済のことばかりに首を突っ込み過ぎて、政治には疎く、外交も行政も分らぬ、言はば金儲けの化け物のような人間ができる。これも一つの専門的愚昧であります。例えば、医者の中にも「俺は外科であるから内科のことはわからぬ」などと、さも分らぬことを誇らしげに言う人も出てきました。明らかに専門による中毒現象であります。

そういう風に、研究が進むに従って、始めに大きく一体をなしておったものが次第に分化し、専門化して、やがて弊害が生じ派生は同時に大きな統一であると云うことも亦わかってきたわけであります。一例を申せば、目の専門研究が進むにつれて、目というものも恐ろしいもので、我々の身体のあらゆる生理機能が全て目に反映している事が分かってきたのであります。専門家の話では、産婦人科でもまだわからぬ段階の妊娠現象が既に目に現れているということです。とにかく目を見ればその人の生理状態が分る。こういう事が明らかになって参りますと、もう今までのように単なる目の専門家だけで済ましておれなくなってきたわけであります。

そこで、全てがそういう風に分化の原理から統一の原理になって参りますと、これまで東洋文化と西洋文化という風に分かれて、東洋の思想・学問・宗教等は時代遅れで非学問的であるとする従来の西洋的な考え方に反する解明が、むしろ西洋の学者の間からなされ、且つ警告されるようになってきました。その如実に現れているのが最近における漢方の流行です。これも実は寧ろ西洋の医学・薬学の方から始まったという皮肉な現象であります。

儒教についても、東洋の「生」の学問、孔孟の教というものは誠に驚嘆すべき偉大なものである、と西洋の学者・専門家から大いに力説されるようになって参りました。その結果、孔子の研究だけでも驚くべきものがあります。「易」についても、興味深い研究がいくつも発表されて、肉体的に生きておると考えていたものが如何に精神的なものであるかと言うことなど、医学的・生理学的に興味深く実証されております

精神革命しかない

今日は、決して昔より進歩しておるなどと言うことは出来ないのであります。世の中の法律や制度をいかに変えてみてもイデオロギーをいかに振り回してみても駄目であります。人間そのものを何とかしなければ絶対に人間は救われない。やはり人間革命・精神革命をやらなければならぬ、と言うことになって参りました。己れを忘れて、世のため、人の為に尽くすような、己れ自身が学問・修養に励んで、それを通じて人に感化を与えるような、そういう人物が出てきて、指導的地位に配置されるようにならなければ絶対に世界は救われない、ということが動かすべからざる結論になって参りました。

要するに世の中を救うためには、先ず自らを救うて初めて世を救うことが出来る。              (大学と小学)