安岡正篤先生の言葉  平成246月例会

お辞儀をすると言うこと

大抵の人は、お辞儀というのは「相手に敬意を表する」事と思っているが、それは第二義である。第一義は相手を敬するということではなくて、「自らを敬す」ということである。仏典にお辞儀ということを説いて「吾を以て汝を敬し、汝を以て吾を敬す」と言っている。つまり、お辞儀をするということは、「自分が相手に敬意を表すると同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する」ことである。

お互いに挨拶する。お辞儀をするということは、お互いに相敬するということであり、自ら他に挨拶をするということは、同時に他を通じて自己を敬すと言うことだ」    (知命と立命より) 

敬」することと「恥」に就いて

敬と恥、これは人間に至って初めて神が与えたものなのです。

人の人たる所以は、実は道徳を持っておると言うことです。そして、それは「敬」するという心と、「恥」ずるという心になって現れる。

幾ら発達した動物でも、敬するとか、恥ずるという心はない。これは人間に至って初めて神が与えたものなのです。

敬する心は、人間が限りなく発達を望んで、未完成なものにあきたらず、より完全で偉大なものに憬れる所から生まれてくる。これは、人間独特の心理であります。

そして、敬する心が起ると、必ず、そこに恥ずるという心が生まれてくる。敬する心と恥ずる心とは相対関係のものでありますから、従って敬を知る人は必ずよく恥を知る人であり、恥を知る人は必ず敬を知る人である、ということが出来るわけであります。

                   (人物を修めるより)

恋愛は、その人物の人柄・人格・品格を雄弁に証明する

恋愛は一種の自己補完であるから、如何なる異性に恋するかは自己人格と密接に関係する。即ち自己の人物相応に恋する。故に人は恋愛によって自己を露呈するのである。恋するは好い。唯その責任は免れぬことを(かく)の如く知らねばならぬ。恋愛は他人の忖度(そんたく)を許さずとして、他人の批判に耳を(おお)うのは、恋愛を道徳的行為から除外するものであって、自らその恋愛を禽獣にするに他ならない。

故に、真の恋愛は滅多に出来るものではない。人物が出来て来れば来るほど、恋ふべき異性は稀になって来る。軽々しい恋愛はその人物の、浅薄低劣さを表す雄弁な証拠なのである。

                   (東洋倫理概論より) 

亡くなった父を先孝(せんこう)、亡くなった母を先妣(せんぴ)という

死んだ親父のことを先孝(せんこう)と言う。これは「考える」という事と同時に「成す」という意味を持っている。何故亡き父を先孝と言うか。親父が亡くなってみると、或は亡くなった親父の年になってみると、成る程、親父はよく考えておった、と親父の努力、親父のしてきた事が初めて理解できる。人間は考えてしなければ成功しない。考えてはじめて成すことができる。(こう)(せい)という語のある所以です。

と同様に、死んだお母さんのことを先妣(せんぴ)という。()と言う文字は配偶、つまり父のつれあいと同時に、親しむという意味を持っておる。母というものは、亡くなった母の年になってみて初めて親父の本当のよき配偶であった、本当にやさしく親しめる人であったと言うことが解る。いわゆる恋愛の相手とは違う。本当の女性、母・妻というものは、亡くなった母の年になると解る。

                   (人間学のすすめより) 

飲食(おんじき)男女(なんにょ)の欲を(たん)(ぜん)ならしめる秘訣

断えず熱中する問題を持つこと、即ち感激の対象を持つことだ。子供が大病の時、父母は飲食が咽喉を通らぬということは、誰しも日常経験するところだ。これは固より好ましい場合のことではないが、この平凡な事実を好い方面に心掛ければいいのだ。

人生は退屈することかせ一番いけない。断えず問題を持つ者が精神的には勝利を占める。

                   (瓠堂隋聞紀より)