国家のゼロ時 

このような言葉は聞かれた事はないと思う。国家の権力喪失の時のことである。その場合、国民は、どうなるのか。

内地の日本人は、敗戦したが、その体験は殆ど無いと言える。

ドイツなど、陸続きで周囲は戦争相手の国々に囲まれていた。国家の権力、要するに武力を失ったドイツは、

戦勝国の「勝手気まま、ご随意」であった。

敗戦国の一市民への戦勝国兵の、略奪、強姦は、当たり前であった。

日本では、満州とか朝鮮とか、中国では、そのような体験を恐怖を以て嘗められて死亡された方々は多いであろう。或は、命からがらで帰国された方もおられる。

それが「国家ゼロの時」である。国家無権力である。「無権力状態」なのである。 

残念ながら、敗戦しても、国内の日本人は、その「国家ゼロ体験」が無いから、いつまでも、国家というものが「肌感覚」で分らない。 

それを体験されたのは、ただお一人、昭和天皇お独りだけではなかったのではないか。 

敗戦秘話は色々ある、(ゆう)(にん)法皇として京都の仁和寺に落飾される事が敗戦寸前、近衛文麿総理、岡田啓介、米内光政、そして仁和寺門跡・岡本慈航と四人で合意されていたという。高松宮が摂政としてアメリカと交渉するとの前提であった 

昭和2039日、東京大空襲、死者8万人余、この夜、第一皇女・照宮は、初孫を生まれた。電灯が消え、水道の絶たれた、焼夷弾、爆撃が絶え間なく炸裂する地下壕で出産されている。

皇太子は日光に疎開されていたが、天皇は皇居、大本営が長野り松代へ移転するのを天皇は動かない、国民と共にと言われた。

天皇は心痛と激務で10キロも体重を落とされていた。 

国が破れることの恐怖は天皇が一番体験されたのであろう。敗戦が死に直結したのである。 

忘れもしない、昭和21年、927日のマッカーサーとの会見、

天皇はGHQに逮捕されて、そのまま帰ってこられないのではとの恐怖もあった。

当に、国家ゼロの時である。

マッカーサーは天皇の「命乞い」と思っていたが、

天皇は、正反対であった。日本国民が救われたお言葉であった。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねる為にお訪ねした」 

こんな元首は世界歴史に知らない。みな亡命している。

当に、昭和天皇は、

「自分の生命と引き換えに、国家と国民を守ろうとされた感動的な決意」であり日本人は忘れてはならない。 

昭和209月、日光に疎開中の皇太子に天皇から手紙がきた。全文ご披露してみましょう。 

手紙有難う しっかりした精神を以て、元気でいると聞いて 喜んでいます。

国家は多事であるが 私は丈夫でいるから安心して下さい。今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど 先生と余り違ったことを言う事になるので 控えておったことを許してくれ

敗因について一言 いわしてくれ 

我が国人が 余り皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである 

明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時は あたかも第一次世界大戦のドイツの如く 軍人が跋扈して大局を考えず 進むを知って 退くことを知らなかったのです 

戦争を続ければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さねばなになくなったので 涙をのんで

国民の種を残すべくつとめたのである

穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があったら 聞いてくれ

寒くなるから 心体を大切に勉強なさい

       99日     父より

明仁へ 

武装解除は国家の終焉、この感覚が肌で分らない日本人ばかりとなっている。

だから、朝鮮戦争が始まった時、昭和27年、日本では、野球のナイターが始まって、巨人阪神戦が開幕し、大衆は、笑顔と歓声でした。

一衣帯水の朝鮮半島では、バズーカ砲が火を吹いていた。朝鮮戦争の勃発である。

日本人の平和ボケは、この敗戦の無権利状態の限界にさらされた悲劇の恐怖を置き去りにしてきたからである。

          平成2464       

      鳥取木鶏会 代表 徳永圀典