鳥取木鶏研究会 6月例会 平成19年6月4日 月曜

テーマ 「人づくり入門B」―小学の読み直しー 安岡正篤先生講話

難しいですが、やはり、東洋学には、慣れて行き、肌で分かる処もあり、ここで私も弱気を返上し、初心に還り意を強くして前進し互いに頑張りたいと思います。今回から「小学」の原文を掲げました、そして徳永がルビを打ち、時に漢和辞典からの妥当と思われる解説をつけました。考えつつ進みたい。

視・聴・言・動

伊川先生曰く、(がん)(えん)、己に()ち禮を()むの目を問う。孔子曰く、非禮()ること勿れ。非禮聴くこと勿れ。非禮言うこと勿れ。非禮動くこと勿れと。四者は身の用なり。中に由って而て外に応ず。外に制するは其の中を養う所以(ゆえん)なり。顔淵()の語を事とす。聖人に進む所以なり。後の聖人を学ぶもの、宜しく服膺(ふくよう)して而て失ふことなかるべきなり。因って(しん)して以て自ら(いまし)む。

其の視箴(ししん)に曰く、心や(もと)と虚。物に応じて(あと)無し。之を()るに要あり。視之(しこれ)(のり)たり。(へい)・前に交はれば、其の中則ち(うつ)る。之を外に制して以て其の内を安んず。己に克って禮を()む。久うして(すなは)ち誠なり。

((しん)は戒めの言葉) ((へい)は邪魔されて見えないこと)

其の(ちょう)(しん)に曰く、人秉彜(へいい)あり。天性に本づく。知(あざむ)物化(ぶっか)し、遂に其の正を亡ふ。卓たる()の先覚、(とど)まるを知り定まるあり。邪を(ふさ)いで誠を存す。非禮聴くこと勿れ。

(秉彜(へいい)とは人倫に従い行うこと、不変性、法則性) (卓とは卓越)

其の(げん)(しん)に曰く、人心の(うごき)は言に()って以て(よろこ)ぶ。発する躁妄(そうもう)を禁ずれば、内(すなは)静専(せいもつぱら)なり。(いは)んや是れ枢機(すうき)にして、戎を興し好を出し、吉凶(きっきょう)栄辱(えいじょく)()れ其の召く所なるをや。(あなど)るに(やぶ)るれば則ち(たん)(わずら)はしきに(やぶ)るれば則ち支、己れ(ほしいまま)なれば物(さから)ふ。出づること(もと)れば来ること(たが)ふ。非法は()はず。(つつ)ししめや訓辞(くんじ)

(誕には、いつわりの意あり)(支には、さしさわりの意あり)(悖はと道理に違うこと)(訓辞は教えさとす事)

其の(どう)(しん)に曰く、哲人幾を知る。之を思に誠にす。志士行を励む。之を(しわざ)に守る。理に(した)へば則ち(ゆう)なり。欲に従へば惟れ危し。(ぞう)()にも克く(おも)ひ、戦兢(せんきょう)自ら持し、習ひ性と(とも)に成れば、聖賢帰(せいけんき)を同じうす。

(幾は人の会意、知機だから機微のこと)(造次とは僅かな時間)(戦々兢々と自分を戒め)(聖賢は聖人君子)(帰は結局の意)

安岡正篤先生の解説

禮とは、今日の言葉で言えば、部分と部分、部分と全体との調和・秩序であります。人間は常に自己として在ると同時に、自己の集まって作っておる分として、夫々みな秩序が立っておるのでありまして、これを分際(ぶんざい)と言うのであります。限界であります。これに対して、自分の存在を自由という。人間は自由と同時に分際として存在する。これを統一して自分と言うのであります。従って自己というものは、自律的統一と共に自立的全体であり、全体的な調和であります。これが禮というもので、あらゆる自己が夫々分として、自分として、全体に奉仕してゆく、調和してゆく。それが円滑なダイナミックな状態を(がく)というのであります。「禮」と「楽」とは儒教の最も大切なものの二つであります。全体的調和を維持してゆくには、どうしても各々が自分にならなければならない。自己になってはいけない。自己は私というものであります。私という字は、禾扁(のぎへん)にムと書きますが、ムは曲がるので、米を自分の方に曲げて取ることであります。それをみんなに分けてやるのが公であります。如何に自己を抑えて自分になるか。これが「己れに()って禮を()む」ということであります。複は「かえる」で宜しい。

顔回がそのことを孔子に尋ねた。すると孔子が言われるには、非礼を()てはいけない。非礼は聞いてはいけない。非礼は言ってはいけない。非礼は行ってはいけないと。この四つは身の用である。そこで伊川先生は、この視・聴・言・動の四つを(いまし)めとして道の学問に精進したのであります。 

(はん)(えき)(けん)座右の戒に曰く、

一に、朝廷の利害・辺報(へんほう)差除(さじょ)を言わず。二に、州県官員の長短(ちょうたん)得失(とくしつ)を言はず。三に衆人()す所の()(あく)を言はず。四に、仕進官職、時に(おもね)り勢に附くを言はず。五、財利の多少、貧を(いと)ひ、富を求むることを言わず。六に、淫?(いんせつ)戯慢(ぎまん)・女色を評論するを言はず。七に、人の物を求覓(きゅうべき)し、酒食を干索(かんさく)すること言はず。

((べき)はもとめること)(差除、差別と除外)(?はけがす)(干には求めるの意あり)

安岡正篤先生解説

朱子の弟子の(はん)(えき)(けん)は、その座右(ざゆう)(かい)に、「一に朝廷の利害に関することや国境の問題、或いは転任・任命に関することは言わない。」その道の人が話し合うのはよいが、何も内状の分からぬものが政府の色々の問題をとやかく言うのはいけないことであります。又も私生活に公生活・職生活の問題を持ち込むことも、これは決して好ましいものではありません。水も使いっ放しではいかぬもので、やっぱり貯めることも必要であります。私生活は謂わば貯水池のようなもの、なるべく別天地にしておきたいものであります。その意味で同職の夫婦は往々にして失敗するものであります。夫婦というものは違ったものが一緒になるのがいいのであります。

その意味に於いても男と女は違わなければならない。処が近頃は男が女のように、女が男のようになって区別がつかない。これは生物の世界から見ても退化現象であります。生物の世界も、繁栄する時には多種多様性を帯び、生命力が沈滞してきて来ると単調になって来る。今日の文明は余にも、単調になり過ぎております。思想を右と左に分けたり、イデオロギーを振り回したり、生の複雑微妙な内容や特徴を無視して、極めて単調化してしまう。これは一つの抽象化の作用であります。みだりなる抽象化は生の力を阻害する。これは肉体現象でも精神現象でも明瞭なことであります。イデオロギーなどもてあそぶのは、人間が浅薄になっておる証拠であります。だから本当に物が分かって来れば、ペラペラ喋らない。いずれにしても、日常の私生活にまで、つまらぬ社会問題など論じない方が良いのであります。

二に地方官庁の官吏の長短や得失などを言わない。三に民衆のなすところの過や悪事を言わない。四に官職にあっては、時の勢力について走り回るようなことは言わない。五に財物や利益を追って貧乏をいとい、富を求めるようなことは言わない。六に性欲や戯慢や女色に関するようなことは言わない。

七に人に物を求めたり、酒色を催促するようなことはしない。

又曰く、

一に、人書信を附すれば、開柝(かいたく)沈滞(ちんたい)すべからず。二に、人と並び坐して人の私書を(うかが)ふべからず。三に、凡そ人の家に入りて人の文字を見るべからず。四に、凡て人の物を借りて損壊(そんかい)不還(ふかん)すべからず。五に、凡て養食(ようしょく)を喫するに揀択去(かんたくきょ)(しゅ)すべからず。六に、人と同じく()るに、自ら便利を(えら)ぶべからず。七には、人の富貴を見て嘆羨詆毀(たんぜんていき)すべからず。凡そ此の数事、之を犯す者あれば以て用意の不肖を見るに足る。心を存し身を修むるに於いて大いに害する所あり。因って書して以て自ら(いまし)む。

((たく)は拍子木)(揀択去(かんたくきょ)(しゅ)はあれこれ選り好み)(嘆羨詆毀(たんぜんていき)、羨み嘆き、そしったり破壊しようとする事)(用意の不肖、自ら愚かな自己を辿る)

又、言う。一に人が手紙を寄越せば、これを開くのを放って置いてはいけない。私などもこれは常に心掛けておるのでありますが、なかなか努力の要ることであります。二に人と並んで坐って、他人の私書を覗いてはいけない。三に他人の家に行って、人の書いたものを見てはいけない。四に、人の物を借りて、損じたり、返さなかったりしてはいけない。これの代表的なものは書物であります。貸したら最後まで還って来ない。そこで昔から書物と花だけは泥棒してもよいという。五に、総て飲食に選り好みを言ってはいけない。なんでも有り難く食べるべきです。六に人と同じくおるのに、自分だけが都合の好いように選ぶことはいけない。都会におって電車の乗ると実際情けなくなります。七に、人の富貴を見て(うらや)んだり、(けな)してはいけない。およそ、この幾つかの事、これを犯すものは、心掛けのいけないということが分かる。修養するのに大いに弊害がある。そこで書して以て自に(いまし)むるの(かい)としたのであると。

 

董仲舒(とうちゅうじょ)曰く、仁人(じんじん)は其の()を正しうして其の利を(はか)らず。其の道を明らかにして其の功を計らずと。 

董仲舒(とうちゅうじょ)は漢の武帝の時代に於ける大官であり、碩学(せきがく)であります。誼とは言葉の宜しきを得ることで、道義の義に通ずる語であります。本文は決して利というものを問題にしないとか、功というものを抹殺するという意味ではない。正誼・明道と功利のどちらかを主眼にするか、ということであります。普通の人間は功利を主眼にするが、仁人はその逆で、正誼・明道を建前にして、その結果どういう利益があるか、というようなことは自然の結論にまかす。ソ連との貿易問題にしても、やはり人間の良心や道義という点から考えて判断しもそれから後で貿易といったような功利を導きだすことが肝腎であります。 

     平成19年6月4日  鳥取木鶏研究会 

                        徳永圀典 記述 

 

        (でん) () (ほう)   

 

一、我が幸福は祖先の()(けい)、子孫の禍福は我が平生(へいぜい)所行(しょぎょう)にあること、(すで)に現代の諸学にも明らかなり。

二、平生・(おのれ)省み、(あやまち)を改め、事理(じり)を正し、恩義を厚くすべし。百薬も一心の安きに()かず。

三、良からぬ習慣に()るべからず人生は習慣の織物と心得るべし。

四、成功は常に苦心の日に在り。敗事(はいじ)は多く得意の時に()ることを覚るべし。

五、事の前に在りては怠惰、事に当っては粗忽(そこつ)、事の後においては安逸(あんいつ)()百事(ひゃくじ)成らざる所以(ゆえん)なり。天才も要するに勤勉のみ。

六、用意周到なれば機に臨んで惑うことなし。信心積善すれば変に()うて恐るることなし。

七、不振の精神・退廃せる生活の上には、何ものをも建設する(あた)わず。永久の計は一念の()にあり。

 

           安岡正篤