徳永圀典の「比較日本文明論」 その三

文明の発祥と衰退

ここらで日本文明、就中、世界史に於ける日本文明の位置づけを考えて参りたいと思います。

学校で教わったのですが、「人類文明の発祥は、現在のイラクあたりのチグリス・ユーフラテス川流域の「メソポタニア文明」、絵ジブチはナイル川流域の「エジプト文明」、インドはインダス川流域のインダス文明、シナは黄河流域の「シナ文明」の四大文明でありますが、いずれも紀元前3000年頃に興ったと言われます。文明はどこも命の源である水が得やすく植物のよく育ち、広い平坦な空間があり多くの人の集まり安い、さらに河川が交通路になり交流が盛んになる場所に発生しています。

この四大文明を出発点として今日の西洋文明から米国文明まで幾つかの文明が地球上のあちこちで興っては滅び、滅びては興ってきています。

人類は、文明の興亡を繰り返しながら限りなく前進するのか。恐竜のように自ら作り上げた文明に首を絞められて自滅の道を辿るのか。文明の危機を直観して20世紀には多くの文明論、興亡論が出版されました。代表的なものは、シュペングラーの「西洋の没落」、トインビーの「歴史の研究」、最近ではハンチントンの「文明の衝突」は有名であります。

シュペングラーの西洋の没落は、私も読みましたし、鳥取木鶏会でも私が何度も言及しております。彼は第一次世界大戦後、西欧人の醜悪な闘争を見て、さしもの西洋文明も終わりだと観念して没落を予言しました。

トインビーは、世界を21の文明に分類し、文明には発生、成長、衰退、解体の四つの段階があると分類し、未だ解体期の徴候を示していないのは西洋文明だけだと言いました。それどころか、他の文明や未開社会は全て西洋化の渦に呑み込まれてしまい西洋文明のみが成長期にあると思われるとしました。シュペングラーと正反対の評価でありました。

処が、第二次世界大戦後、地球温暖化、砂漠化、オゾン層破壊、公害、ゴミ問題など急激な地球環境汚染が進み、人類滅亡の危機を痛感するに至りました。その原因の全てが、西洋物質文明に起因する、西洋の原理の終焉だと徳永も常に叫んできたのであります。

人類があと数世紀でも生き延びられる唯一の方法は、西欧の原理、即ち物質文明に代わる新しい文明を創造するしかないのではないか。その新しい「理想の文明」として一部識者から俄かに注目を集めておるのが、他ならぬ「日本文明」であります。そうした風潮を代表する書物の一つが「日本待望論」、フランス人オリヴィエ・ジェルマントマ著であります。彼は神道をその根幹に据えております。詳しくは割愛します。

11             日本文明とは

世界の主流文明は、中国を中心として東洋文明、ヨーロッパ中心の西洋文明に二大別されます。日本文明はシナ文明の枝分かれだと見なされ、その分派か付録のように軽く扱われることが多かったし日本人もそう思っていたふしがありました。

日本は確かに古代から中国を先生として漢学、仏教、儒教、律令制など、よい所を学び吸収して、これを和風化し、日本独自の文明を築いてきております。これを西洋と東洋を模倣した「物真似文化」だとした向きもありました。

日本は西洋から見れば、遥か東の意、far east即ち極東の国であります。西洋文明から一番遠い日本、非西洋の日本がなぜ一早く近代化に成功したのでありましょうか。                   中国人がポルトガル人の鉄砲を見たのは、日本の種子島に鉄砲が伝来した35年前でありました。日本人はこの火縄銃を種子島に伝来した翌年に日本で製造している。インド、東南アジアも日本より早く伝来していた。彼らは真似すら出来なかった。

極東の小国日本は、このように西洋文明の輸入にいち早く目覚め、独り近代化し、欧米の植民地にならずにすんだ。有色人種で独立を保ったのは日本だけなのであった。この事実こそ、日本が西洋とも東洋の他の国とも全く異なる独自の文明を持つ証拠と言えるのである。日本には何か隠されたものが独自性が潜んでいると見るのが妥当であろう。

日本の独自性は何か、先ず立地条件から探ってみたい。日本は世界の古代文明から遠く離れて、大河川の流域に開けた国家でもない。四大文明、西洋、東洋すべて大陸に興っている。だが日本は海上の島国で海洋文明と位置づけられる。だが大海に孤立していない。玄界灘を擁し近からず遠からずの絶妙の位置の大陸棚にある。と言うことは、住民の意思により大陸文化の影響を自在に選択できたと言える。日本列島の位置が大陸国家の侵略に併呑されず、つかず離れずの位置で大陸文化の興亡に巻き込まれぬ要因になったと言える。これは極めてラッキーなことでありました。

18世紀、産業革命が英国で起きて白人侵略の波がアジアに押し寄せたが日本はこれを押し返した。極東、海洋国家の立地条件が幸いした。だが、これだけでは充分説明とはならぬ。民族意識の根底に確固たる精神が具備されていたのを指摘せねばなりません。この大和遺伝子こそ中国文明受容の時も、近世西洋文明採用の時も、根本的に揺らぐことは無かったと言うことができます。自国の魂を失わずに異国の文化を適切に採用し巧みに自国化―和風化してきたのは古来より日本のお家芸であります。この遺伝子を「和魂」と申すことができる。和魂洋才が明治以降の近代化、敗戦後の経済再興は和魂米才でありましょうか。

和魂探求                   いつ頃から和魂なるものが日本民族に醸成されたのか。これは中国文明到来以前からと思われる、その事実も指摘できるのであります。西尾乾二氏は縄文時代に既に日本固有独自の和魂文化=大和心が形成されていたと指摘されている。この大和心は、古代以後、日本に入ってきた「(から)心」(漢籍を学び中国の国風に心酔し感化された心)とは全く正反対の心であります。漢心は大陸的で荒々しいが大和心は海洋的で素直で穏やかであります。漢心は権威的、男性的、大和心は温情的女性的とみられる。

徳永流「大和心」の見解

大和心は、人類が自然に、素直に育ちてばそうなる心ではなかろうか。誰に教わるものでもなく、ひとりでに生まれたもので、これこそ「神ながらの心」と考えて良いと私は思考する。それが荒々しく、猛々しくなったのはそこの人治が良くなかったのである。    人類は当初は誰もこりような純粋無垢な女性的直き心ょ抱いていた。世界で唯一の「女性神」である天照大神を始祖として人間の原始時代即ち神代から崇めたのは極めて自然であり、それが今日まで続いているのは日本の統治が連綿と良かったのだと推量する。これは中国文明、西洋文明にもみられぬ。

地理的条件の卓抜な日本

日本と中国は「一衣帯水」と戦前から言われてきた、漸く近年に至り、日本人の視野も広がり、日本人は、中国とか韓国人とは全く違うと気がつき始めつつある。彼らは、それは経済が安定しそれなりに繁栄してきたが、日本人の学習成果もあり、どうしても日本人と彼らと同質でないと体得したからである。ここに錯覚に気付いた日本人を発見できる。中国とは「同文同種」とか、「中国4千年の歴史」とかも事実・史実と違うと知りだしたからでもあろう。それも、作為に近いとも理解が進んできた。

「一衣帯水」を思考する

日本と大陸の距離は、朝鮮海峡で200キロ、東シナ海では900キロの大海原が横たわっている。しかも玄界灘の急流であり、これの人文的効果は絶大であり微妙であった。古代、中国文明を求めて遣唐使は16回も渡航している。この中、全ての船が無事に往復できたのは8回であった。残りの船も遣唐使も海の藻屑となっている。遣隋使を加えても、第一回の607年、小野妹子から菅原道真の時に中止、894年、の284年間に20回となる。717年の阿倍仲麻呂にいたっては遂に帰国不能となった。            天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも                       望郷の念禁じがたいものがあったであろう。    

中国から来日した鑑真和上は何度も遭難し遂に失明、20年の歳月を経てやっと来日の念願を達成している。鑑真和上は日本が招いた「お雇い外国人c純刀vである。唐招提寺の威容が759年建立されている。   

これらの事例を勘案しても、隣との日常交流を意味する「一衣帯水」とは到底言えない日本と中国である。菅原道真の進言により宇多天皇894年ら中止された遣隋使から明治初めの日清修好条規が締結された1871年までの約1000年間、中国との正式な国交関係は絶えていたのである。

「同文同種」を思考する             中国とは同文同種の間柄で中国が先生、日本が生徒だと言う常識を打破しなくてはなるまい。漢字を共用するだけで二つの民族の思想、言語、政治、社会、生活のどれ一つ見ても「雲泥の差」がある。1000年間交流空白がこの考え即ち同文同種の差を強化していることに気付かなければならぬ。     日本人が中国の歴史は古く文化の高い尊敬すべき巨人の国と誤解した要因は、論語、孟子など四書五経をはじめ多くの漢籍が輸入され優れた漢学者がこれを伝えたからである。処が、ここが大切なのだが、書籍に書かれている事と実際の中国人とはまるで違うことを知らぬからである。中国研究家の岡田英弘氏の書物によると、漢籍をいくら読んでも「生きた中国の本質」には迫れない、違うと言うのである。本に書かれていないことが中国人の本質だと言われるのだ。ここを知らぬから日本は外交でいつも失敗をするのだ。論語、孟子などは、生きた中国人とは全く別物である。ここを根本的に日本人は修正しなくては何度も失敗してしまう。史記とか三国志に登場する信義や礼に篤い中国人に出会えないばかりか、現実の中国人は油断も隙もならぬ人間ばかりである、帝京大学の宮崎貞教授は、「騙しと裏切りにかけては4千年の歴史を持つ」と断言しておられる。

日本語と中国語の巨大な相違          岡田教授によると、2千年前の漢文と現在の中国語とは全く関係ないと言われる。生身の中国人は漢籍を読んでも理解できないのだ。科挙という有名な官吏登用試験が古代にあった。四書五経はこの科挙の試験をパスする為のもので人間教養、人間性陶冶と全く無関係な存在であったのだ。仁義礼智心など中国人が身に着けていると思ってはならぬ、寧ろ完全に逆であり、その徳目を声高かく教えねばならない程中国人は徳目無視であった中国人にそのような徳目が無いから声高に言い続けたのだ。現在のシナ人が自分の所業を恥じることなくチベット侵略していることと同様な構図が見て取れる。逆に申せば、日本人は、古代から、魏志倭人伝にシナ人が記載されているように、仁義や礼、自由平等を具っていたために、取り立てて叫ばなくてよかったのだ。

日本語は、本来は大和言葉、字がなかつた。     そこで日本は漢字を借用して独自の漢字仮名交じりの表記法を完成させたのだ。文字の発音も中国とは違うし、主語、述語、目的語の配列も異なり、両者が「同文同種」の国とは絶対に言えるわけがない。    ある台湾女性の話だが、中国語で話す時は、自然と攻撃的な人間になっていると言う。それは大声で話し、ジェスチャーも大袈裟になる、両手を振り回し、口から泡を飛ばすほどの勢いで話す、さもないと相手に負けると思うからだと告白している。        しかし、日本語で話す時は、声も自然と穏やかに小さくなり、身振りも控え目になるという。このように日・中両国の海洋性と大陸性の違いが言葉を決定している。同文同種どころかアベコベである。

中国4000年のウソ              これは戦後になり中国が作為的に宣伝しだした言葉である。これは全く以て虚構である。日本は伝統的に皇統は二千数百年続く、日清戦争後、中国は日本を学べと沢山の留学生が中国から日本に来た。彼らは帰国した後、日本の向こうをはって作りあげたのが「中国四千年」なのである。惑わされてはならぬ。では、「中国」という国は無いが、いつ出来たのか、それは西暦前221年、泰の始皇帝が黄河と揚子江(長江)の流域を統一した時である。これがあの国のスタートが事実である。だからシナ4000年とは大嘘である。半分の2千年が正しい。

シナの呼称                  英語ではチャイナ、これは泰がインドに入って「チーナ」となり、これをポルトガル人が西洋に伝えたことに由来している。日本語の「支那」も江戸時代に新井白石がイタリア語の「チーナ」に当てた音訳漢字である。これらは泰の始皇帝の打ち立てた「泰」から中国が始まり、それを世界が認めたことの証拠である。 泰の始皇帝による統一以前、戦国時代(前五世紀―前三世紀)と、春秋時代(前八世紀―前五世紀)を通じて、黄河と長江の流域で多くの都市が覇権を争っていただけで、統一政権は一度も無い。殷とか周は黄河流域の一都市国家がすぎない。中国最初の歴史書「史記」では、皇帝を初めとする「五帝」が人類最古の君主だったことになっている。だが五帝の物語は神話そのもので人間界の歴史ではない。現今の中華人民共和国の成立は昭和24年、1949年の日本が米国に敗戦した後に成立した国家であり、日本は中華人民共和国と戦争しておらない、言いがかりをつけるのは不当な話なのである。戦争した相手は台湾に逃げた蒋介石である。

中国2000年とは               始皇帝からシナの歴史が始まると申しても、それから2000年間、同じシナ人の国が続いてはおらない。始皇帝も漢人ではない、西方の遊牧民出身である。その政治も僅か14年で、次の漢人の漢王朝に滅ぼされた。一言で中国二千年を説明すれば、下記の通りとなる。中国中心部の二大河川、黄河と長江流域は肥沃であり、この中原の覇権を漢人と周辺諸民族が争ったことの謂いである。この間、漢民族とそれ以外の王朝が交互に登場している。統一王朝が倒れた後、常に小国群立が続く、真正漢人王朝は、「漢・宋・明」だけなのだ。この三つで千年に過ぎない。隋、唐、元、清も漢族以外の民族の王朝なのである。           泰の後を受けた前漢、後漢が521年続いたので、それ以降を漢人と呼ぶようになったのだ。以後、黄巾の乱184年の大反乱により食糧難で漢人の人口は5600万人から400万人に減少、為に北アジアの草原から強制的に華北に移住させられた遊牧民、後に五胡十六の乱304年により華北に多くの独立国を建てた。遊牧民の地となった華北、生き残った漢人は長江の南の未開地に逃げ南朝と言う亡命政権を樹立。だがこの南朝も「鮮卑」という遊牧民である「隋朝」に征服された。隋から唐までの300年間の皇帝は凡て鮮卑族出身、宮廷で活躍した大臣も将軍も殆ど漢人でなかった。シナという国は日本のよう一つの国として存続しておらないことが明白になったでしょう。

その後、五代、十国を経て漢人が統一を果たしたのは「北宋」「南宋」の約300年、「明」の約300年のみである。蒙古族の「元帝国」150年、満州族-女真族の建国した約300年の「清帝国」と漢人建国ではない。シナの歴史の多くの皇帝は「非漢人」であり、中国は漢族により一貫して支配された国ではないことが良く理解されたでありましょう。建国以来2000年、繰り返し征服され外来文化に同化されており現代中国で伝統文化と言っているものは殆ど13世紀から14世紀のモンゴル時代以後持ち込まれた外来文化であると指摘できる。泰の始皇帝以降、変化のないものは漢字を使っていることだけが真実の歴史である。その漢字も現代は、文盲が多く簡単漢字となり、過去の歴史を読めぬ国民ばかりとなり共産党の都合の良い歴史しか知らぬ「真実歴史を塗り替えて」いるのはハングルにより恥ずかしい過去の真実の歴史を読めぬ韓国と同様である。               かくして歴史の真実は両国では塗り替えられたと断定できる。対して、日本は「真実探求」が歴史学者の精神であり、到底学問的に歴史をシナとか韓国と論争できる位置にはない。

シナ歴代王朝の興亡

1

殷 (いん)

紀元前1600年頃-1100年頃

2

周 (しゅう)

紀元前1100年頃-770年頃

3

春秋・戦国

紀元前770年頃-221

4

泰 (しん)

紀元前221年−前207

5

 (かん)

紀元前202-紀元220

6.

魏・呉・蜀

紀元220-304

7

五胡十六国

紀元304-439

8

南北朝

紀元439-589

9.

紀元589-618

10

紀元618-907

11

五代十国

紀元907-979

12

北宋

紀元979-1127

13

南宋

紀元1127-1279

14

紀元1271-1368

15

紀元1368-1644

16

紀元1644-1911

赤 漢族王朝

青 漢族以外民族王朝

中国の歴史観                 シナ人の発想に「歴史の正統」とか「易姓革命」という思想がある。余談だが、本質を知らぬ日本人は、尤もらしい、高尚すぎる易姓革命という熟語に魅せられて大したもののように錯覚を起こしている。易姓革命とは「過去の歴史否定」のことであり、「流血革命」のことであることを明確に認識しなくてはならない。歴史改竄のことなのである。シナ、韓国が戦後行ってきた真実の歴史改竄と同根である。天命を受けたものが皇帝になるという易姓革命だが、実態はご都合主義である。前皇帝の「徳」が衰えたから「天」が新しい皇帝に「命」を与えたとシナの歴史書に書くのは虚妄である。シナの史書は新しい皇帝の為に書いたご都合ものなのである。 

シナの歴史書には皇帝や高級官僚の暮らしに関しての記載ばかりで庶民の暮らしについての記載は皆無に近い。庶民など眼中になかったのである。シナ人の真実は分からない、庶民などどうでもよかったのは現在に酷似している、それがシナの本質である。歴史書にある鼓腹撃壌、酒池肉林などはあるが庶民のそれではない。

中原(ちゅうげん)                     シナは日本のように同一民族が二千数百年の歴史を刻んだものではない。途中に何度も根絶やしにされてきたのだ。中原と呼ぶ政治の土俵・舞台は同じだが、そこで演じられる王も民族も、一幕ごと、革命ごとに劇的に変わっている。不連続な歴史がシナの本質、このようなものを「中国2先年の歴史」となど呼べるものではないのに大きな顔をしてウソを吠えている。これは「清国」の歴史でも、現在の中華人民共和国でも同じである。現在は、「習王朝」であって主役であるべき一般の13億の民の生の姿は殆どわからない。一部共産党特権階級の中国であるという本質は過去と少しも変わらない。

近代中国の師匠は日本             現在の中国人学者である劉徳有が嘆きつつ言っている。腹立たしいほど現在の中国人が使用する漢字熟語は明治の日本人が創作したものだと。中華人民共和国の中華の文字以外は日本製である。人民という字も共和国の字もだ。聞くところによると、現在の中国の要人の喋る7割は日本製だと。清国が日本に負けた後、日本を見習えと大挙して日本に留学生が押し寄せ日本を通じて、産業革命の西欧文物の理解が進んだのは事実である。朝鮮半島も然りである。明治時代、森鴎外の従弟・西周(にしあまね)を筆頭に西欧文明導入の過程で、産業大革命、近代西欧学問を、素晴らしい英知溢れる述語に翻訳したのだ。その数は20万語と言われる「国字」である。哲学も物理も銀行も船舶もすべて明治の日本人の生み出したものだ。中国も朝鮮半島も漢字圏の民族は日本を通じて近代科学文明を習得して彼らの今日がある。

華夷秩序、冊封体制とその崩壊               シナ人は、自分たちが世界の中心であり世界の中でも誇り高い歴史と文化を持つ「永遠不滅の民族」だという中華思想を抱く。周辺の民族は凡て野蛮人とみなして、これを、「東夷(とうい)西戎(せいじゅう)南蛮(なんばん)北狄(ほくてき)」と蔑称してきた。日本は東夷であった。だが日本は隋の時代、聖徳太子により、「日出づる処の天子 書を日没する所の天子にささぐ 恙なきや」と対等の立場で今日まで来ている唯一の矜持高い国民である。決して、ゆめゆめ中国にこの立場を損なってはならぬ。

この冊封秩序が壊されるのは清国が欧米列強のイギリスによりアヘン戦争で敗れた1842年からである。日本以外の周辺国が次々と欧米の植民地化し、中華帝国の清国も分割されることになる。回顧すれば、16世紀の明の時代、中国は既にスペイン、ポルトガルを通じて鉄砲やら欧米文化に接しておりながらその摂取・近代化に遅れをとった。それは中国が世界一の文明国だとの自負の唯我独尊の中華思想が災いした。日本は、この中国のぶざまな敗北を反面教師として、西洋文明の偉大さと侵略の怖さを痛感し、幕末から明治維新ょを興して「文明開化」、「富国強兵」の巧みな対応でこの大危機を乗り越えた。さらに日清戦争の直接対決で日本は、あっけなく清国を倒してしまった。これは明治維新から30.年後のこと、日本の近代化、軍事強国化は世界を驚かせたが中国には格別な驚ききであった。更にその10年後には日本は、世界の超大国ロシアに勝利するという奇跡をものした。これは中国人をして小国・日本を見直すこととなる。中国近代化のモデルとして日本に大挙して留学生を送り科挙が替わる位置づけになる程であった。戦後の近代に到って振り返れば、とう小平の改革開放政策も日本をモデルにしている。この事実は中国冊封体制の崩壊と言わなければならぬ。

明治以後の中国かぶれ学者、メディアの蒙昧    日清戦争以後100年間に渡る現代まで中国の近現代国家づくりのモデルは日本であった。岡田英弘教授によると「現代の中国語はなんと日本語により作られた」と断言しておられる。日本が翻訳した西洋語の経済、行政、軍隊、社会など殆ど日本語からの借り物だといわれる。当時の中国民法、刑法は日本の法典丸写しであった。孫文、蒋介石など指導者は日本留学生であった。彼らは亡命中も日本の識者に助けられ辛亥革命を成功させた。日本陸軍士官学校は辛亥革命後10年間で620名の留学生を受け入れたが彼らが後に中国革命の原動力となっている。清国のお雇い外国人教師は日本から最盛期600人に至った。       だが、長い間、中国かぶれの中国史学者や漢文学者により、日本は偉大な中国から学んで今日があると教え込んだ、だが実情は上述の通りである。現代中国は、日本文明圏の中に包み込まれていたのだ。

シナ文明拒否の事実              確かに古代日本は、中国から、漢字、仏教、儒教、律令制、都市計画などを学んだが、猿まねでなく、漢字も仏教にしても中国と全く異質なものにしている。日本独自の文化に和風化してしまっていることを銘記してよい。外来文化を主体的に取り入れ、それをアウフヘーベン、昇華していることを忘れないでほしい。そして、日本に合わぬと思ったものは当初から断然と忌避している。それは科挙、宦官、纏足、人肉食の風習、辮髪、シナ服などである。日本は決して中国文明を野放図に移入しておらない事を知るべきだ。

日本人とシナ人の感覚、意識の相違        その相違を防衛意識の視点から検討してみよう。ヨーロッパでも中世の都市は城郭で囲っている。日本では、城は石垣や堀で守っても、都市ぐるみ壁を巡らした都市は無かった。何故か、日本は古代から平和そのものの国だからと言える。家でも、個人でも、鍵をもって身を守るという鍵生活を知らなかった世界唯一の民族であったと指摘する学者もいる。それが日本人の普通であった。シナでも城内に住民を居住させて反乱を防ぎ、イザという時には人質にする。日本では城外に重臣でも武士を住まわせている。この事例を見ても到底シナと日本が同じ文明圏とは言えないことが分かる。

次に、黄文雄氏の説だが、アヘン戦争以降、中国各地に外国勢力による治外法権下の租界が沢山生まれた。我々はこれは列強諸国の前進基地と教えられた。処がこれは全くの偏見で、歴史の歪曲だという。当時の一般の中国人にとっては、租界は夢のような桃源郷だったという。言論の自由を保障してくれる場所であり、生命財産の安全を保障してくれる場所であったというのだ。中国の体制変革者にとっては「駆け込み寺」で、中国政府の搾取、悪政、戦乱に脅かされていた中国人にはこれほど安心、安全な場所はなかったという。

日本は明治四年、日清修好友好条約締結までの1000年間、中国と国交を閉ざしていた。千年を経て国交を結んだ中国は、漢人の中国ではなく女真族―満州族の清帝国であった。清国は江戸時代から明治時代末期まで300年続いたが1911年、孫文の辛亥革命により滅ぼされた。中国王朝の中では最も強く侵略性を発揮した王朝で、版図は漢民族の前の王朝「明」時代の三倍になつていた。満州国はからモンゴル、新疆、ウイグル、チベットを収めていた。現在の中国共産党は清朝時代の領土は凡て中国の領土だと言い張ってチベットには軍隊を派遣し無理矢理併合しているのは周知の事実である。清国のものは俺のものと強引に領土拡大を企図している。これは侵略以外のなにものでもない。南シナ海、尖閣諸島も同じ侵略の原理である。

中国人民は、常に馬賊、匪賊の襲撃に怯え、軍閥や革命の権力闘争に明け暮れ苦しめられてきた民である。中国には皇帝、主席がいても「国民」は不在である。このような状況が数千年続くと皇帝とか主席、政府など当てに出来なくなる。自分の身は自分で守るしかないのである。国家に徳がないのだ。「相手の弱みを握ることが生きる道」が中国人の原理なっている。

化外の地 台湾 満州             シナ人は都合の悪いことを忘れる身勝手な国民である。凡ての根幹は「ゼニ」、南シナ海、尖閣諸島もあの一帯に石油が出ると知り急遽、国内法で中国の領土の法律を作り日本に、世界に押し付けでいる。盗っ人猛々しい厚顔なシナ人である。台湾も清国皇帝が化外の地だとして台湾での遭難人を放置したのを日本が助け、それならばと台湾を日本領土とした。今になり中国領土とはご都合主義も甚だしい。       満州、女真族の大地、ここもシナの化外の地であり、未開の地、馬賊、匪賊が横行し、シナ軍閥の覇権闘争の舞台でもあった。住民の安住の地ではなかった。北からロシアの野望の先端の地、日本は日露戦争に勝利し満州利権を獲得した。日本は、亡命中の清国最後の皇帝・溥儀を迎えて満州国を建国した。溥儀氏には出身地の満州に帰ることで内心大喜びで感激されたであろう。満州は建国以来15年間、強力な日本の関東軍の駐留により治安もよく、移住した漢人、蒙古人、朝鮮人にとり、初めての身の危険も無い、まともな政治体制下に暮らせた地上天国であったろう。満州は、緯度も広さも資源もアメリカと似ており、この満州国がそのまま現在まで推移していたらアジアの理想文化大国として栄えたと言われる。日本が満州鉄道をアメリカと組んでやっておれば悲劇は回避できたのであろうにと私は残念に思う。

総括                     以上、日本文明はシナ文明と西洋文明により育てられて来たが単なる模倣ではないことが理解できたのではなかろうか。日本文明は東西文明を包容包含したものを更にアフウヘーベン昇華させたものと言える。既存の文明は共に大陸育ち、共存すべき人類にとり相応しくないものを持っているのも事実。シナ文明の独りよがり、西洋文明の物質主義、夫々人類共存の為には弊害がある。

日本文明の出番

日本文化のみに存在する天皇、神道、元号、家族制度、祖先崇拝、公の精神、武士道の精神、もったいない、おかげ様で、共存共栄、地球の限界が迫りつつある今日、これらは世界の誇りうるキーワードではなかろうか。