マルクスアウレリウス ローマ皇帝

うるさがた、恩知らず、横柄な、裏切り者、やきもち屋、この連中のこの欠点は、すべて彼等が善とは何か、悪とはなんであるか、知らなところから来るのだ。私は善とは本来美しくも悪の本性は醜いことを悟り、悪い事をする者も天性私の同胞であること、・・・・。この私という存在はそれがなんであろうと、結局はただ肉体と少しばかりの息と内なる指導理性より成るに過ぎない。神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れて存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずには居ない。自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることを行い、話し、考えること。人生の時は一瞬にすぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組み合わせは腐敗しおすき、その魂は渦を巻いており、その運命ははかりがたく、その名声は不確実である。肉体に関するすべては流れであり、霊魂に関するすべては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅の宿りであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導きうるものはなんであろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。それはすなわち、内なるダイモーンを守りこれの損われぬように、傷つけられぬように、また快楽と苦痛を統御しうるように保つことにある。(ダイモーンとは、ダイモニオン即ち、人間の心の中にある神秘的なものをいう) まだなにごともでたらめに行わず、何事も偽りや偽善を以ってなさず、他人が何をしようとしまいとかまわぬように。あらゆる出来事や自己に与えられている分は自分自身の由来するところと同じ所から来るものとして、喜んでこれを受け入れるように。なににもまして死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するに過ぎないものとみなすように保つことにある。もし個個のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素自体にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が万物の変化と解体を恐れようか。それは自然によることなのだ。自然によることは悪い事は一つもないのである