鳥取木鶏会 6月 日本歴史        徳永圀典

立憲国家を目指す .自由民権運動

新政府は薩長藩閥政府という批判が強く反政府運動が起きた。板垣退助等は明治7年に議院設立建白書を提出した。政府は漸進的に立憲政体へ向うことに合意した。明治13年片岡健吉等は国会期成同盟で国会開設要求をした。こうして武力による反政府運動がもはや不可能であると痛感した各地の士族は、言論によって要求を実現しようとする自由民権運動に参加する事となった。明治14年政変が起き内務卿で維新政府の大実力者、大久保利通が暗殺された。大隈重信は漸進主義の伊藤博文ら薩長閥と対立して国会即時開設と政党内閣実現を主張した。大隈が政府批判運動と関係していると見て辞任に追い込み同時に明治14年国会開設の勅諭により明治23年を期して国会開設を公約した。これにより伊藤博文を中心とする薩長派の政権が確立し欽定憲法制定の準備が始った。

 

欽定ではあるが国会開設が決まり自由民権派は政党結成へと動いた。明治14年士族や豪農・地主を基盤とする板垣退助の自由党は急進的であった。大隈重信の立憲改進党、政府サイドの福地源一郎等による立憲帝政党であるが大きな力となりえず何れも解党し消滅している。

明治初期の日本政府が直面したのは当時の国際情勢は武力と経済力を背景にした国際秩序があるという厳然たる現実であった。これは現代でも歴然たる真実であり欧米が世界の屋台骨を支えているという自負とその維持の為の権謀術策は今日でも少しも変わらない。覇権は彼らの本能的且つ本質的性格であろう。明治藩閥政府は欧化政策をとり欧米列強に匹敵する文明国であると認識させ、それにより国際的地位を高めようとした。現段階で考えるとそれはやや悲壮且つ滑稽で効果に乏しいものと思われるが真剣であった。在野には西洋文明に屈従を快しとしない人たちは国権確立の為に、幕末の不平等条約の早期撤廃を求め藩閥政府を打倒し民権を伸長させるための早期国会開設を主張した。この帰趨如何が百年後の日本民族を左右するとは当時は誰も思わなかったであろう。

 

西南の役に多額の出費がかさみ、不換紙幣で調達した為に烈しいインフレを招いた。輸入超過が進み正貨は減少の一途であった。明治14年松方正義は増税と徹底した支出削減、官営事業の民間払い下げにより紙幣価値の回復を計った。明治15年中央銀行として日本銀行を設立し、紙幣価値安定を見届けて明治18-1885年から銀兌換による兌換銀行券を発行。政府紙幣も銀貨と兌換される事となり、本位貨を銀とする事実上の銀本位制が確立した。松方の厳しい緊縮政策は深刻な不況を招き、農村は米価や生糸の暴落で大打撃を受けた。自作農が小作農に、土地が少数の大地主に集中した。土地を失った農民は賃金労働者となった。かかる状勢から政治的に急進化し過激事件も頻発した。

 

明治18年大宝律令以来の太政官制度を廃止、西洋流の内閣制度とした。総理が各省長官をひきいて内閣を構成し天皇を補佐し全政務の責任をとる体制である。宮内省は内閣の外に置いて行政府と分けた。明治21年ドイツ人顧問モッセの助言で市制・町村制、明治23年に府県制・郡制を公布し政府の強い指導の地方自治制が確立した。軍令機関としては統帥権を独立し参謀本部を新設、明治15年に軍人勅諭を発布し軍人として不可欠な忠節・礼儀・武勇を説き政治活動の禁止と軍人精神の徹底を強調したのは世界の列強を見れば当然であった

伊藤博文が各国の憲法調査のため欧州へ行き1年半でベルリン大学、ウイーン大学で憲法を学ぶ。プロイセン憲法がわが国の実情に照らして参考になるとの結論を得て帰国した。明治20年伊藤は井上毅の草案を元に伊藤巳代治と金子堅太郎と検討、ドイツ人顧問ロエスレルの助言を得て214月に草案を完成した。この憲法草案審議の為に22年、天皇の最高諮問機関として枢密院を開設し伊藤博文は首相を辞して初代議長に就任した。

 

枢密院では天皇臨席の元に慎重に審議が尽くされた。そして明治22年―1889年―211日の紀元節に、大日本帝国憲法が発布されたのである。ここにアジアでは初めての近代的立憲国家が生まれた。アジア諸国の独立はその後日本が戦争に敗れたとは言うものの列強国、米・英・フランス・オランダと戦い彼らをアジア諸国から追放する日本敗戦まで半世紀以上の歳月を要した。

 

この憲法は欽定憲法である。冒頭に日本の歴史・伝統をふまえ、万世一系の天皇を統治権の総攬者とした。文武官の任命、緊急勅令、宣戦・講和・条約の締結、陸海軍の統帥などの天皇大権を決めた。国民は議会を通して国政に参加を認められ、法律の範囲内で契約の自由、所有権の不可侵、信教・言論・出版・集会・結社の自由も認めた。帝国議会は対等の権利ある貴族院と衆議院の二院制、司法権も行政権から独立し三権分立体制がとられた。憲法では議会が天皇に意見を上奏すること、予算を衆議院で先議、議会が法案提出するを定めたのは民権派も評価し、多くの国民が歓迎している。一応、幕末以来の悲願である列強並みの近代的国家の形が整い不平等条約解決のため先進国の形を整備したといえる。これは列強の口実に過ぎないが、彼らはこうして後進国を餌食とし叉、我々も彼らも西洋科学文明の享受の為にはそれが当然のような世界観を保有し今日までそのように思い慣らされて来たと言える。

 

明治23-18907月第一回衆議院議員の総選挙が行われた。首相黒田清隆は政府は政党の動向に左右されない、不偏不党の政策実現を表明した。政府は民党と烈しく経費節減・軍艦建造費・条約改正問題で対立した。詔勅により政争は第六回議会で終了したと言う事で発足当時のわが国の議会と民意の限界が理解できる。

 

不平等条約解消迄の推移

岩倉具視

明治5-1872

最初の条約予備交渉?米と改正交渉不調

 

寺島宗則

明治9-11

関税自主権回復希求-米は賛成、英国反対で失敗

井上馨

明治15-20

欧化政策採用、外国判事の任用・外国人内地雑居問題で失敗

 

大隈重信

明治21-22

外国人判事の大審院任用で挫折

青木周蔵

明治23-24

外人判事任用を中止-英国は賛成

 

陸奥宗光

明治26-27

日英通商航海条約で領事裁判権の完全撤廃、以後明治30年までに各国と同様な条約改正に成功

小村寿太郎

明治44

日米通商航海条約が成立、関税自主権の完全回復に成功。以後各国と同様な条約改正に成功。

 

 

 

 

明治44-1911年、関税の片務的、屈辱的な条約は外相、小村寿太郎により撤廃され、条約上では対等な国家として列国から承認を受けた。開国以来実に半世紀である。この先人の血の滲む努力に深甚なる敬意を表する。日本が無知ゆえとは言え、欧米の手法のこのアクドイ手法による日本からの収奪に対して憤りに近いものが沸々としてこみ上げて来る。戦後も政治経済全般に渡りこの種のものが横行しており依然として歯がゆい日本の政治、外交能力が認められる。

 

締結当事者の幕府が有責者である。ハリスと交渉したのは幕府随一の外国通の井上清直と岩瀬忠震、両者とも、当時の国際法・条約の知識が欠如しており、この条約の不平等に気づかなかった。一旦締結したら約束であり致し方ないが、現代でも欧米諸国の金融取引には、善意で臨む習性の、経世斎民の思想を持つ日本人が見落として損害を被るのと同様であろう。欧米諸国との条約とか商談の締結には陥穽に落ちないように並々ならぬ注意が絶対必要である。

 

日清・日露戦争1.朝鮮半島情勢

明治9年の日朝修好条約後は日本の影響力が次第に朝鮮に増大した。実権を持つ国王の外戚である、閔氏一族は日本と結ぶ政策であった。反対者は国王の父大院君に結集し明治15-1882年一部兵士が日本公使館を襲撃。対抗上日本が出兵すると清も出兵。妥協が成立し清は宗主国として朝鮮に融和を勧告し朝鮮と日本と条約締結し損害賠償や公使館守備隊の駐留を認めた。清に頼りたい事大党の勢力増大する、日本と結ぶ勢力の金玉均等はクーデターを起こしたが失敗。伊藤博文は翌年天津にて清国全権の李鴻章と天津条約締結、朝鮮半島に於ける日本と清国との撤兵と出兵の相互通知の確約をした。このように朝鮮は当事者能力が皆無であった。

朝鮮国王と閔氏一族は清国の支配脱出の為に親ロ政策を取ったため清国は朝鮮の支配を更に強化した。このように19世紀末は朝鮮にガバナビリティが存在せず、当然の事として国家主権は無きに均しく外交自主権も無い有様で、朝鮮半島は日本・清国・ロシア三国の勢力争いの舞台となった。清国は朝鮮の外交権を認めず、日本の経済活動に圧力を加えつつ貿易量を大幅に増進した。この当時の朝鮮半島情勢は、特段に、正確に認識しておかなくて現今の問題理解に繋がらない。

明治27-1894年、朝鮮で東学党の乱と呼ばれる乱があった。キリスト教の西学に対抗して東学道徒を中心とする農民が地方官の暴政に対して反乱を起こしたものである。朝鮮半島南部の全羅道一帯を占拠した為に清国は朝鮮政府の要請を受けて即出兵した。天津条約に基づき清国は日本に通知し日本も直ちに派兵。反乱は鎮圧されたが日本と清国の共同で朝鮮の内政改革をするとの提案をめぐり交渉が難航し対立激化。半島に平穏がないと日本に安定がないのは現今の半島状勢を勘案すれば容易に理解できよう。ここで日本は清国の勢力を朝鮮から一掃の決意を固め豊島沖海戦をきっかけに清国に対し8月宣戦布告した。これが日清戦争である。朝鮮半島は力の空白状態であり、清国の力とロシアの意向を洞察した日本の自衛策であり、これは当時の国際常識である。いかなる時代も力の空白は戦争を誘引する。日本がかかる決断をしなければ半島はロシアに占領されるのは必定であった。そして清国はロシア初め欧米諸国の歯牙にかかり最終的に日本に再び強烈なその矛先が向けられるとの脅威が実存した。

日清戦争の開始と共に帝国議会は政争を停止し全会一致で軍事費の支出を可決した。ここらに現在の政党の国益観の欠如が見事に見て取れる。国家、国会議員とはかかるものでなくてはなるまい。陸軍は平壌から鴨緑江を経て満州に入り北京へ進撃する態勢を示した。海軍は黄海海戦に勝ち明治28-1895年陸軍は威海衛を陥落し北洋艦隊を降伏させた。同年4月伊藤博文・陸奥宗光と清国の李鴻章間で下関条約を締結調印し講和が成立。内容は1.清国が朝鮮の独立を認める。2.遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本割譲。3.賠償金支払い。4.新たに四港の開港。これが弱肉強食の当時の様相であり日本のみのやり方ではない。幕末のペルーの米国・英国・オランダ・フランスとて日本が軟弱であれば彼らに同様にされていた事は絶対に間違いない。

第一条 清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因って右独立自主を損すへき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃止すへし。
第二条 清国は左記の土地の主権並びに該地方に在る城塁、兵器製造所及官有物を永遠日本国に割与す。

一 左の経界内に在る奉天省南部の地。
二 台湾全島及その附随諸島嶼。
三 澎湖列島
第四条 清国は軍費賠償金として庫平銀二億両を日本に支払うへきことを約す。右金額は都合八回に分ち、初回及次回には毎回五千万両を支払うへし。(下略・日本外交文書)
この条約により日本は清国に対して欧米列強と肩を並べる治外法権などの不平等条約を獲得した。ペルー以降日本が列強から受けた不平等条約はそのままである。将に弱肉強食の現実であり、食うか食われるかの時代であった当時の国際情勢をしかと認識しなくてはならぬ。更に清国から得た賠償金は金本位制の確立、陸海軍の軍備強化に貢献し、わが国の本格的な産業革命への起動力となった。

三国干渉

三国とは、ロシア・フランス・ドイツである。ロシアは極東進出の国策を持ち満州に野心があった。清国の働きかけに乗り白人仲間のドイツとフランを誘い日本領有となった遼東半島を清国に返還するように強く日本に要求してきた。これを三国干渉といい私達の年齢では大屈辱として忘れ難いものがある。日本はこれら三国の圧力に対抗できる軍事力が無いために、やむなく要求に屈した。国民の間には「臥薪嘗胆」が合言葉となりロシアへの復讐を叫ぶ声が広まったのは当然である。それはこれ等三国が干渉をした報酬として清国から得た利権だからである。ロシアはその遼東半島等を租借、ドイツは山東省の利権を得た。日本が清国に戦勝し割譲受けたものをむしり取られたわけである。