徳永の「駆け足・中国史」
中国史は中々、分かり難いので駆け足で中国を纏めてみました。
伝説の名君・舜から地位を譲られた禹が作ったのが夏王朝。これが紀元前2000年から紀元前1600年頃。
最後の王・桀が酒食に溺れて滅び、殷王朝となる。
殷も最後の紂王の放蕩で次の周王朝・武王を滅ぼされる。周は40年続くが東西に分裂し動乱の春秋時代から戦国時代となる。この動乱を経て
最初の統一国家が「秦」で、紀元前221年の建国
これを見ると、
皇帝を中心としたワンパターンの歴史である。これは古代だけでなく現在に至るまで中国の全歴史に共通するのが皇帝の存在。中国の世界観はこの皇帝の存在で、これが中華思想であり、中国の国体である。
「中国歴史パターン」
これを、総覧し分析すると「中国歴史のパターン」は
次の法則が成立する。
1. 皇帝の即位
2.功臣粛清
3.対外侵略戦争
4.漢字の一斉放棄と歴史改竄、
5.閨閥、宦官、皇帝側近の跋扈
6.秘密結社乱立、 7.農民反乱の全国化。
8.地方軍閥の中央侵入
9.次の皇帝候補登場
秦
最初の「秦」は順調に進むが15年で滅ぶ。史上初めての秦の始皇帝も、死後即位した子も孫も、寵臣の宦官・趙高の傀儡となり、政治はまともでなかった。
漢
次が紀元前206年に建国した漢を立てた三国志で有名な劉邦も建国と同時に「中国歴史パーン」2の功臣の粛清です。背水の陣で有名な功臣、股潜りの韓進を、皇后の讒言により殺している。
皇后は呂雉は大陸で「三大悪女」の一人で劉邦の側室・戚夫人の手足を切断、目をくりぬき、喉を潰して厠に姿をさらし「人豚」と呼び嘲笑した話が中国正史の史記に残っている。
漢は国としては200年ほど続いたが閨閥である「王莽」に乗っ取られた。王莽という人物は、北朝鮮の金一族がまともに見えるような儒教原理主義者で正気の人物ではなく、やりたい放題の人物、紀元8年に「新」王朝を建てたが17年後農民の反乱が起き、光武帝に倒された。光武帝が再興した漢=後漢は約200年続くがパターンは同じ。三国志は後漢の末期から始まる物語。三国志はひたすら、秘密結社、農民反乱、地方軍閥の中央介入の繰り返しの話です。中にでる曹操は官僚だが、やたらと人気のある劉備玄徳は、秘密結社の乱立と農民反乱から出てきた人物である。
晋
三国時代を制して紀元265年に建国。直ぐに中国歴史パターン2の功臣粛清から5の閨閥、宦官、皇帝側近の跋扈の繰り返し。
五胡十六国時代
紀元前304年から始まる。五胡とは匈奴、鮮卑、羯、氐、羌の五つの民族。いずれも遊牧民族か山岳地帯の少数民族である。十六も多いの意味、中国語では、賛り大きい数は「たくさん」の意味といわれる。
隋
長い動乱の後、紀元581年に統一されたのが隋、日本では聖徳太子の頃。隋は北方民族の鮮卑族が建てた国で漢民族ではない。異民族が皇帝になるが過去の興亡のパターンは変わらない。隋は高句麗との闘いに窮した。聖徳太子が「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙が無きや」と送った隋の皇帝・煬帝は、父の皇帝・文帝と皇太子の兄を殺して帝位についたが40年で唐にとって代わった。
唐
唐を建国したのは鮮卑族の李淵。唐二代目の太宗は兄弟を殺して帝位に就くところまでは隋と同じ。ただ隋の煬帝と違い、太宗の政治は実は「貞観の治」と呼ばれ王朝の理想と言われた。日本でも平安時代、年号に貞観と使う程、貞観政要と言われる太宗の言行録有名である。
三代目が高宗、妃が有名な則天武后が初の女皇帝になった。この皇后の作った文字に圀がある。則天文字で残ったもの。口の中の或が惑に通じ不吉として圀、四方八方が国だとした。
九代目が玄宗皇帝、開元の治と言われる善政をしく。唐最高の時代であった。世界三大美女の楊貴妃に溺れて政治を乱し衰退を始めた。
五代十国
唐が滅び50年動乱が続く。
宋
960年、宋は何でもお金で物事を片付ける政治に徹底した。だが一気に中国歴史パターン地方軍閥の中央介入となる。モンゴル人の女真族の「遼」は宋がすぐカネで解決するのでカツあげし放題。カツあげとは脅しですね。軍事力弱くてモンゴル帝国に滅ぼされる。
元
モンゴルです。元は日本に触手を伸ばしたが青年宰相、肝の据わった北条時宗に敗北した。
1274年は文永の役、1281年は弘安の役ですね。これで元も国力が弱ります。大反乱に手を焼いて中国本土を捨てて本拠地を北に移動、モンゴル高原に帰った。
明
1368年、貧民から身を起こした朱元璋が建国。過去を隠して洪武帝として即位。ただちに功臣の粛清に取り掛かったのは中国の伝統。毛沢東まで中華史上最大規模の粛清をやっています。
宮廷内での派閥抗争凄まじく満州、モンゴル、ウイグル、チベット、倭寇の脅威にさらつれ続け、末期には豊臣秀吉に襲撃され衰退した。明の時代には農民反乱で李自成が「順」を建国したが1か月で清に滅ぼされた。
金 後に 清
1636年、満州人のヌルハチが王朝を建国し「金」と名乗った。そして「清」と名前を変えた。清では珍しく名君が続く。それは、康熙帝、雍正帝、乾隆帝で六代目に最大版図を得た。乾隆帝の寵臣・ヘシェンは国家予算の15年分を着服され国力衰退。欧米列強の侵略に抗しきれず1911年の辛亥革命を経て最後の皇帝・溥儀が退位し清王朝は終わる。
中華民国
1912年政府を樹立。常に地方軍閥が乱立する中で日本と戦った。日本が米国に敗戦、中華民国は連合国の一員に混ぜてもらったが、共産党との内戦に引き戻される。新王朝を建国したのに軍閥との乱闘が延々と続く混乱、とても国家として数えられる状態ではなかた。
その地方軍閥の一つが毛沢東率いる中国共産党。彼らは、さも自分たちが日本と戦って追い出したかのような歴史捏造発言をしていますが、全くの虚偽である。蒋介石率いる国民党を日本にけしかけ、共倒れを待っていただけでした。尤も、毛沢東はその山奥の延安で、中国のパターン、功臣の粛清をやっていました。これが現在の中華人民共和国であります。
こうして見ると、有史以来の中国大陸では、皇帝になる条件はただ一つ。それは「力」です。
武力、知力、財力、あらゆる力を駆使して平伏させることができることが「徳のある人」なのである。
勝ちさえすれば、民族も出自も無関係。勝ちさえすれば、どのような暴力も陰謀も合法となるのが中国。
その合法化こそ、皇帝の最大特権である「漢字の一斉改変」と「歴史改竄」です。習近平も歴史的に同じパターンだと断定できるのであります。
日本と戦っていない中華人民共和国が「抗日戦争」を超え高に叫ぶプロパガンダは正真正銘の歴史改竄であります。
真実などは彼らには関係はありません。
彼らにとっては、真実でなく、都合の良い物語が必要なのである。それを国民統合に利用しているだけである。
ウイグルはトルコ圏、モンゴルや満州は全て中華の外にいる蛮族。本来の漢民族は、秦から三国時代の間に絶えてしまったと言われている。隋や唐は鮮卑族、元はモンゴル、清は満州人の王朝である。
中国の官僚の登竜門とされるのが「科挙の制度」、実は言語オペレーターの養成試験であり、科挙に合格するために、まずやる勉強とは「四書五経」を丸暗記することでありました。
それは儒教的に
立派な人格養成のためではありませんでした。
現在、中国語とされている普通語や簡体字は、中華人民共和国が建国後に整備したものである。
今の中国語には大量に日本語が含まれているのは本会でしばしば愚生が発表してきたところです。
現代中国の指導者たちは、日本の支援を受け、日本で共産主義や近代国家に必要なことを学んだと言える。
明治に日本人が訳した西洋の書籍や日本をモデルとした新体制を彼らが作ったからである。
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典