正法眼蔵 現成公案 A
平成18年6月
1日 | 一体・ 一如 その8. |
このところをうれば、この行李にしたがひて現成公安す。このみちをうれば、この行李にしたがひて現成公安なり。 |
行李は行動、「現」はあらわれるの意、成はなる、公は公平とか平等の意、案は分を守る。即ち現成公安とは、事象が完全に曇りなく現成するという意味で完全行動ということである。 |
往生 |
一般には「往生」とは死ぬ意味に解している。 |
本来の意味は「生を往く」という意味で「きわ」なき道、即ち仏道を歩み「往」くことである。 |
|
2日 | 一体・一如9. |
このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆえに、かくのごとくあるなり。 |
さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらず(不生不滅の意)、かくのごとく(如是)、行動の方向は時間・空間を超越しているから、大小・自他・過去現在というような相対的なものではなく絶対的なものである。即ち「一如」であり、このような行動こそが、生き生きとした、生きがいある行動だという。いつも他との比較、大を誇り、小を卑下し、過去の栄光をなつかしみ現在の悲運を嘆き、日々落ち着きのない生活に明け暮れするものではないのである。 |
3日 | 結 |
しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。 |
法(知、行動の方法、テクニック、証、ここでは法は事象を意味しない。)。行(行動、修の意)。得一法通一法(あれこれとテクニックを使わない、やたらと新しいものを追いかけない。)、遇一行修一行(一つの仕事に直面したらそれ一つだけ修証する。)コツコツとやる場合、その際(結果)を考えない。それは仏が考えていいようにしてくれると信じることが正しい意味の信仰である。 |
4日 | これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するゆえに、しかあるなり。 |
しらるるきは(知り得る極限)、しからざるは(はっきりしない)、究尽(究極の処、根本)、同生同参(共に生き、共に歩む)。一如的行動をするところに路は開ける。 |
|
5日 |
得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、蜜有かならずしも現成にあらず、現成これ何必なり。 |
得処(会得したこと)、知見(知識)、慮知にしられんずるとならふことなかれ(理論的に考えさえすれば、把握できるなどと思ってはならない)、証究(研究の結果得る知識)、現成(現われなる)、蜜有(概念、知識)、何必(何ぞ必ずしも然らん。必ずそうだとは一概に言えない)。 |
|
6日 | 麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふ。ちなみに僧きたりてとふ。風性常住、無処不周なり。なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。僧いはく。いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに師あふぎをつかふのみなり。僧礼拝す。 | 風性常住、無処不周(風の本質はどこからどこまでも、あまねく、みちみちている)、仏家の風(仏性、自然の摂理)。 禅問答で行動することの意義を示している。 |
|
7日 |
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず。つかはぬをりも風をきくべしといふは常住をもしらず風住をもしらぬなり。風性は常住なるがゆえに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ長河の酥酪を参熟せり。 |
酥酪(乳製品、長河の水が肥え、作物を成長させるたとえ)。行動しなければ、風も出ない、作物もできない。 |
|
8日 | 身心脱落 | 只管打坐、道元の行動に関する基本的な考えは、「身心脱落→一如」に尽きる。 |
「身心脱落」は「一如」になるための準備行動である。 |
9日 | 身心脱落 | どうすれば身心脱落をなしうるか、 道元は「只管打坐」、 即ち、ただ(只管)坐禅(打坐)せよと言う。 |
一切の仏事は不要、ただ坐禅さえすればよいという。 |
10日 | 人工的半覚醒 |
催眠術、坐禅が人工的半覚醒状態を作る。それで無注意の注意がうまく出来るようになると、様々な功徳があるという。 | 今まで忘れていたことや、気のつかなかったことの思いだし(記憶の呼び戻し)。今まで考えのつかなかった角度から、物事を見られる(創造性)。 |
11日 |
大脳皮質の新と古1. |
新しい大脳皮質はブレーキ、古い皮質はエンジンと考えられる。大脳はこのバランスがうまくとれておれば正常である。 | 一方が異常に強いとか、より弱いと異常を生ずる。交感神経型の人は、新皮質の働きがより強く、副交感型の人は、その働きがより弱いといえる。 |
12日 | 大脳皮質の新と古2. |
半覚醒状態とは、新皮質の半覚醒状態をさし、古い皮質のことをさしているといわれる。古い皮質には本能と情動(快、不快、怒り、恐れ)の心が宿る。 |
新しい皮質には、それらの本能と情動に適当にブレーキをかける心が宿っている。また古い皮質は記憶力、独創力にも大きい関係を持つ。 |
13日 | 数学者・岡潔の言葉 | 「・・・処であなた方は、数学というものが出来上がって行く時、そこに働く一番大切な智力はどういう性質のものであるか知らねばなりません。・・こうした智力はそれではどのようにして養うことができるのでしょうか。普通考えられるように、数学が上達するためには大脳前頭葉を鍛錬しなければなりません。 |
然し、その鍛錬の仕方が大切だとうことは案外に気づかれていないようです。ちょうど、日本刀を鍛える時のように、熱っしては冷やし、熱っしては冷やしというやり方を適当に繰り返すのが一番いいのです。そしてポアンカレーの言う智力も、冷しているときに、(この冷やすときが、身心脱落または無注意の注意に該当する)働くものなのです。 |
坐禅 |
|||
14日 | 道元の教え 「学道用心集」 |
「参禅学道は一生の大事なり、ゆるがせにすべからず。」「・・聡明を先とせず、学解を先とせず、念意識を先とせず、念想観を先とせず、向来すべてこれを用ひずして良心を調へて以て仏道に入るなり」 |
「仏道は思量と分別と卜度と観想と慧解との外に在る・・。 思慮分別等の事を用ふべからず。文学法師の及ぶ所に非ず。」 |
15日 | 「普勧坐禅儀」には |
「・・歴劫の輪廻は還って疑論の一念により、塵世の迷道はまた商量の無休による」、「・・ゆえに言をたずね、語をおふの解行を翻し、廻光返照の退歩をもちひよ。自然に身心脱落し、本来の面目現前せん」 |
「・・諸縁を放捨し、万事を休息し、善悪を思はず、是非を管することなかれ。心意識の運転をやめ、念想観の測量をやめよ」、「・・早く直指端的の正道に向かひ、速に絶学無為の真人となれ」 |
16日 | 「坐禅儀」には |
「・・諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり、心意識にあらず、念想観にあらず、作仏を図ることなかれ。坐臥を脱落すべし、飲食を節量すべし、光陰ほ護惜すべし。頭念をはらふごとく坐禅をこのむべし」 |
「・・かくのこどく身心をととのへて、欠気一息あるべし。兀兀と坐定して、思量箇不思量底なり。不思量底如何思量、これ非思量なり、これすなはち坐禅の要術なり、坐禅は智禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」 |
17日 | 「祖師西来意」には |
「・・不思量は粘来し、非思量を粘来して思量せんに、おのずから香厳老と一蒲団の功夫あらん」 |
要約すると、「坐禅中の心構え」と「坐禅中の心理状態」の二つに就いての指摘であろう。 |
18日 | 坐禅中の心構え「要約」五条 |
@一切の人間関係を絶縁する。 |
A善悪是非の価値判断は全くしない。 (善也不思慮、悪也不思慮なり。是非を管することなかれ。) |
19日 | B思考も瞑想もしない。 (心意識にあらず、念想観にあらず。) |
C悟りも求めてはならない。 (作仏を図することなかれ。) |
|
20日 |
D坐禅していることすら思うな。 |
以上の状態に入る時、大脳の新しい皮質は完全な休息状態に入り、心が安らぎ大脳の古い皮質は生き生きとしてくる。かかるが故に道元は「坐禅は習禅に非ず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」というのである。 |
|
21日 | 上述のような心構えで坐禅をしても、色々な考えが次から次へと浮かぶものである。この浮かんでくる雑念は坐禅の妨げになるから浮かばせないように努力しなければ、と思うのはかえってよくない。 | 前述のAに反する。浮かぶものは浮かばせて相手にしなければよい。相手にしないということは、浮かんだある一つの考えをそれ以上発展させないことである。浮かばせまいとすることは困難だが、発展させないことは容易に出来る即ち脳を休ませるように休ませるようにすればよい。 | |
22日 | そすうれば、半覚醒状態(非思量が出やすい状態)は坐禅中継続維持できる。そうでなく、浮かんだある一つの考えを次ぎから次へと休み無く発展させると、半覚醒状態はその考えの発展(不思量が思量に発展)に応じて次第に覚醒状態になる。 |
そこで道元は「兀兀と坐定して、箇の不思量底を思量するなり。不思量底を如何に思量、これ非思量なり」という。 |
|
23日 | 前述の心構えで実際に坐禅しなければ「身心脱落」も「非思量」の境地も体得できない。大切なことは百万言の説明より、一人一人がこの境地を実践により体得することだと言う。 |
坐禅の実践の於いては先述の坐禅の心構え@―Dは一括して「無し」とし、座禅中は出る息「無」入る息「無」と、ただ「無」を念ずるがよい。かくして坐禅するこどに、段々思量、不思量は非思量にいつときなく転化していくのを体得するものだという。 |
|
24日 | 某氏の坐禅 |
毎朝30分、起床と同時に寝床の上で行う。半覚醒状態であり坐禅で人工的にそれを高める。道元「冬暖夏涼をその術とせり」だから、寒さ暑さが不快では心の安定によくないので、夏は裸、冬は毛布で足腰を包む。 |
道元は「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」であるとした。 |
25日 | 某氏の坐禅2. |
道元の普勧坐禅儀の示す「欠気一息し、左右揺振して兀兀として坐定して箇の不思量底を思量せよ」に従い、まず大きく溜息をする。そして少しでも心の底に残っている雑念や引っ掛かりを一気に吐き出してしまう。それから三・四回身体を左右に揺ぶって坐りを安定 | させる。それから数息観に入る。息の出入一回を一つとして、一五〇回数えると、約30分間に当たる。その間、例により雑念が浮かぶが、息の数をかぞえているのに気をとられて、雑念(不思量)は思量にまでは発展せず消える。 |
26日 | 某氏の坐禅3 |
このようにして、数息観が終われば、すぐに坐を立つのもなんとなく、惜しいような、また味気ない気がするので、しばし、隋息観にいる。隋息観は数えることをやめて、ただ息の出入に心を打ち込んでいるだけである。 |
雑念は殆ど浮かばない。 |
27日 | 坐禅の準備七条 |
@なるべく静かな場所がよい。 |
E食べすぎた時、食事直後は避ける。 |
28日 | 坐禅の手足の組み方 |
結跏趺坐と半跏趺坐の二通りある。 結跏趺坐 |
半跏趺坐 |
29日 | 手の組み方 |
先ず、右手の掌を上にして、へその直下で足の上におく、次に掌を上にして、右手に重ねる。 |
それから両手の親指の頭を軽く相互に接触する。両ひじは身体から心持ち離す、足の上の両手は下腹につける。 |
30日 | 坐禅の姿勢1. |
一番大切である。坐禅は一切姿勢が決定する。身体の重心が正しい場所にデンとおかれなければならぬ。重心の重みのものがデンと布団に坐りこんでいるというものである。 |
重心は身体の最下部の中心の会陰にある。力をそこに加えない。肛門にも加えない、背骨をまっすぐに伸ばす。 |