日本人の心の古典
     万葉集 平成
186月 G山陽道―瀬戸の舟紀行

殆どの瀬戸内各地に万葉故地の分布がある。遣唐使、筑紫派遣の防人、官人、遣新羅使人、伊予温泉行等々である。

平成18年6月

 1日 名次山・角の松原 吾妹子(わぎもこ)に 猪名野(いなの)は見せつ 名次山(なすきやま) (つの)の松原 いつか示さむ 武市(たけちの)黒人(くろひと) 巻3-279
阪急宝塚線と、六甲山塊東麓を行く阪急電鉄今津―宝塚との間に挟まれた一帯の平野が、猪名野である。伊丹空港も入る。名次山と角の松原は西宮市内、阪急甲陽線苦楽園口の東方ニテコ池のほとりの名次町の小丘に式内名次神社、更に東北
1キロに広田神社、美しい丘陵を名次山。この近くに50年居住したから私は詳しい。角は松原町、今津の津門(つと)一帯、阪神電車西宮北口の東北のすぐに松原神社境内に僅かの松林。「土地と妻への清純淡白な愛を示す」
 2日 をとめ塚・求女塚 葦屋(あしのや)の 莵原(うなひ)処女(をとめ)の 奥つ()を 往き()と見れば ()のみと泣かゆ     (9-1810)

(つか)()の ()枝靡(えなび)けり 聞きし(ごと) 血沼(ちぬま)壮士(をとこ)にし 寄りにけらしも
       
(9-1811)

高橋虫麻呂 
(9-1810) (9-1811)
一人の処女に二人以上の男が思いを寄せ、処女は懊悩の果てに自殺する、妻争いの伝説歌。葦屋は西宮西部から芦屋市・神戸市東の地。血沼壮士は泉州信太(しのだ)の男で処女が心寄せていた。処女塚(をとめづか)は神戸東灘区阪神電鉄石屋川近くにある前方後円墳。又、血沼壮士の求女(もとめ)塚は処女塚の東1キロ阪神電鉄住吉駅近くにある。
 3日 須磨 須磨人(すまひと)の 海辺常去らず 焼く塩の 辛き恋をも (あれ)はするかも 平群郎女(へぐりのいらつめ) 巻17-3932
万葉の須磨は、海人部の住みついた荒涼とした海浜地である。藻塩を焼く海人などは見馴れない都人にとって聞いてはる風景か。「平群郎女が大伴家持への恋は辛きものであったのか。
 4日 明石大門(あかしおほと) ともしびの 明石大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

天離(あまざか)る (ひな)長道(ながぢ)ゆ 恋ひ来れば 明石の()より 大和島見ゆ 

柿本人麻呂 巻3-2543-255

明石海峡は万葉時代には、難関の大門であったろう。明石大門にはいろうとする日の不安と恐怖は、そのまま離郷、望郷の心につながる。

 5日 松帆(まつほ)の浦 名寸隅(なきすみ)の 船瀬(ふなせ)ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪(あさなぎ)に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩(もしお)焼きつつ 海人(あま)をとめ ありとは聞けど 見に行かむ (よし)の無ければ 大夫(ますらを)の (こころ)は無しに 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はぞ恋ふる 船楫(ふなかぢ)を無み 笠 金村 巻6-935

淡路島最北端に松帆崎、聖武天皇の印南野行幸(神亀3年、726)の時、お供の金村が「名寸隅の船瀬」(明石市大久保、江井ヶ島付近)から松帆崎遠望の歌。

遊行にお供した宮廷人の珍しい海浜風景、松帆の対岸の好風への思慕、天皇賛歌が見られる。

 6日 野島の崎 淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹きかへす 柿本人麻呂 巻3-251
北淡町の野島、播磨灘の家島群島や小豆島が望まれる。「出発の時、妻が再会を祈り結んでくれた衣の紐が西風に無心にひるがえるのを見て、寂しい旅情と妻への慕情を訴える。
 7日 飼飯(けひ)の海 飼飯の海の 庭好くあらし 刈薦(かりこも)の 乱れ出づ見ゆ 海人の釣船 柿本人麻呂 巻3-256
津名郡五色町鳥飼浦、名勝「慶の松原」が広がる。元々
笥飯野(けいの)の地、四国に行く人麻呂が荒れがちな西浦の凪を祈った翌朝いつにない海上平穏な凪を迎えて、既に漁船が刈薦(枕詞)の乱れるように海上に動いている実景に心踊る思いであった。
 8日 藤江の浦 柿本人麻呂
荒栲
(あらたえ)
の 藤江の浦に (すずき)釣る あまとか見らむ 旅行くわれを

山部赤人、「沖つ波 辺波(へなみ)静けみ (いさり)すと 藤江の浦に 船ぞさわける 」

3-252  6-939
明石の西
6キロ、山陽電鉄藤江駅からすぐ海岸。海蝕崖があり屏風が浦と言う。沖合いに、鹿の瀬の漁場があり夏はスズキ、秋はカレイの釣り場。荒栲(あらたえ)は枕詞、旅行く自分を藤江の浦で鱸を取る漁夫とでも見ているであろうか。
 9日 なきすみ 行きめぐり 見とも飽かめや 名寸隅(なきすみ)の 船瀬の浜にしきる白波 笠 金村 巻6-937
兵庫県魚住の船瀬、元々人口による船の泊所、僧行基によると今の江井ヶ島である。酒造の盛んな町。「浜辺を歩きめぐり見ても見ても見あきなようか、と後から後から押し寄せる白波を称えている。」都の官人の気持ちと興奮が分かるようである。
10日 いなみの海 名くはしき 稲見の海の 沖つ波 千重(ちへ)に隠りぬ 大和島根は 柿本人麻呂 巻3-303南野は今の加古川河口から高砂市の西辺から東方明石にかけての海沿いの平野を言う。名くはしき(名の美しい)は「いなみ」の名によせる思い。いなみの海の波また波で、懐かしい大和の山々は完全に千重の彼方に隠れてしまう。
11日 ()南都麻(なみつま) 吾妹子(わぎもこ)が 形見に見むを ()南都麻(なみつま) 白波高み (よそ)にかも見む

遣新羅使人 巻15-3596
()南都麻(なみつま)
は、加古川河口に出来た三角州、現在の高砂市。景行天皇が印南別(いなみのわき)(いらつめ)を妻問うた時、いらつめが島に逃げ隠れたので、天皇が「()びし()し妻はも」と言ったことから南枇都麻(なびつま)の島と名づけたという同地である。「いとしい妻をしのぶよすがとして印南都麻を見てゆこうと思うのに、おりから白波が高いので遠く離れて見なければならないのか」
12日 室の浦・鳴島 室の浦の 湍門(せと)の崎なる 鳴島(なきしま)の 磯越す浪に 濡れにけるかも 作者未詳 巻12-3164
姫路市的形町福泊は韓泊、西に室津、相生湾の金ガ崎の外れの君島が鳴島。この辺を
湍門(せと)と言った。大自然だけで船旅の旅愁も不安も妻恋いの吐息が息づいている。
13日 からにの島1. あぢさはふ (いも)が目()れて 敷栲(しきたえ)の 枕も()かず 桜皮纏(かにはま)き 作れる舟に 真楫(まかぢ)()き わが漕ぎ来れば」淡路の 野島も過ぎ ()南都麻(なみつま) 辛荷(からに)の島の 島の()ゆ 吾家(わぎへ)を見れば 青山の 其処(そこ)とも見えず 白雲も 千重になり来ぬ」漕ぎ()むる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 (くま)も置かず 思ひぞわが来る 旅の()長み

・玉藻刈る 辛荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや 家思はざらむ

・島隠り わが漕ぎ来れば 羨しかも 大和へのぼる 真熊野の船

辛荷(からに)の島を過ぐる時、山部宿禰(すくね)赤人の作る歌 6-942


・反歌一 巻 
6-943


・反歌二 巻
6-944
14日 からにの島2. 兵庫県室津港の南方に唐荷(からに)の無人島。妻と別れて桜皮で巻いた小さい船に左右の艪をつけて難波津を出た。唐荷の島ににかかるのに4日、望郷と妻恋の旅心の湧く時であろう。 唐荷の島に上陸して、淡路あたりからの海藻(ふのり)採りの船も見られ、大和へのぼる帆船に熊野を幻想したのか。
15日 反歌

風吹けば 浪か立たむと 
伺候(さもらひ)に 都太(つだ)の細江に 浦(がく)()
山部赤人 巻6-945
前の長歌の第三の反歌である。姫路市の飾磨区の細江であろう。船場川の対岸に津田が
都太(つだ)である。「外洋の風浪を想像して不安におののきも静かな細江に身の安らぎを求めてじつと伺っている様子である。」
16日 家島(いえしま) 家島は 名にこそありけり 海原(うなはら)を ()が恋ひ来つる 妹もあらなくに 遣新羅使人 巻15-3718
家島、姫路市福泊から相生湾にかけての南方
100キロ、東西24キロに渡り連なる群島。本島の真浦・宮ノ浦をかかえる家島港は西南季節風を防ぐ天然の良港。家とあるだけで望郷の感慨を深めたのであろう。家とつくだけで、いとしい妻がいないけど。
17日 山陽道―瀬戸内 山陽道は大和と筑紫を結ぶ重要な官路、沿岸航路は古代にも「海の廊下」の汐と波の不安の要路である。松浦船、筑紫船、熊野船の往還が見られた。 延喜式によると大和と筑紫は「海路三十日」とある。郷愁、旅愁、望郷、妻恋の心情が有り余ったことであろう。
18日 牛窓 牛窓(うしまど)の 浪の潮騒(しおさい) 島(とよ)み 寄さえし君に 逢はずかもあらむ 作者未詳 巻11-2731
牛窓の瀬戸は急潮で潮待ちになくてはならぬ港。西からの潮が動き始めると、潮流は急にさわさわと音を立てて狭い瀬戸に流れ込む。艪の音も高くなる、潮騒も高く「牛窓の浪の潮騒島響み」となる。「私との高い噂を立てられたあの方に逢わないでいるのだろうかとの趣」
19日 ()羽山(しゅうざん) 大君の (とほ)朝廷(みかど)と あり(がよ)ふ 島門(しまと)を見れば 神代(かみよ)(おも)はゆ 柿本人麻呂 巻3-3.4
()羽山(しゅうざん)
、海抜133米、児島半島南西端、風光明媚。だが万葉に出ているのではない。ここは四国讃岐との至近距離(4)、山頂から塩飽諸島、備讃の海に散在する島々の眺望抜群。讃岐富士も見えて造物主の神秘な美しさに「神代し思ほゆ」となろう。遠い筑紫の政庁に往来する時の景観に感動したのであろう。
20日 多麻(たま)の浦 ぬばたまの 夜は明けぬらし 多麻(たま)の浦に 求食(あさり)する(たづ)鳴き渡るなり 遣新羅使人 巻15-3598
現在の岡山県玉島市の海浜、高梁川河口、水島工業地帯である。干潟の多い所であった、乙島、柏島、狐島などは地名は往時の島か。異郷で聞く鶴の群れのかん高い鳴き声に清澄な夜明けの空気を感じ、朝の清爽も旅情のひと時であろう。
21日 神島 (つく)よみの 光を清み 神島の 磯廻(いそみ)の浦ゆ 船出すわれは 遣新羅使人 巻15-3599
神島
(こうのしま)
は笠岡市の港南方海上の島、延喜式神名帳にある神島神社あり。丘からは絶景の眺望。夜航は慎む習いながら海上平穏、「あまりの月光の清さに鏡のような海面を進むこともあったのか。」一たび荒れれば、「吹く風ものどには吹かず、立つ浪ものどには立たぬ」恐ろしい゛神の渡り゛(海路の難所)の浜辺に漂着死体となる者もあった事は「備後国神島の浜にて(調使首(つきのおびと))の屍を見て作れる歌(13-3339-3343)にて分かる。
22日 (とも)の浦 海人(あま)小舟(をぶね) 帆かも張れると 見るまでに 鞆の浦廻(うらみ)に 波立てり見ゆ 作者未詳 巻7-1182
備後の鞆は福山市、仙酔島にかけて風光実に明媚、一面の白波を「海人の小舟が帆でも張っているのか」と思いまがう歌。潮流の激しい所だけに船旅の心細さ、「ま
(さき)くて また還り見む 大夫(ますらを)の 手に巻き持てる 鞆の浦廻(うらみ)(7-1183)」と無事帰還を祈らないではおられない。
23日 鞆・むろの木

吾妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は 常世(とこよ)にあれど 見し人ぞ無き (3-446)

鞆の浦の 磯のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも (3-447)

磯の(うえ)に 根這ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか (3-448)

大伴(おおともの)旅人(たびと) 
鞆の浦と言えば
66才の大伴旅人が妻(大伴郎女(いらつめ))を失ったのを悲しむ歌で有名。相携えて赴任した妻への回想、寂寥感、亡妻への思慕、旅人哀切の歌である。「むろの木の変わらぬ姿を見て、いま独りとなつた自分、木にまで亡妻を追い求めようとする老齢純情の心根が読み取れる。」ちなみに、旅人は翌年天平3年、67才で没した。
24日 風早の浦 わが故に (いも)嘆くらし 風早(かざはや)の 浦の沖辺に 霧たなびけり 遣新羅使人 巻15-3615
広島県呉線三津湾、風早駅も風早村もある。湾口には小さい島々があり風波を避ける絶好の船泊である。一行がここに泊った夜、ひそりとした海上に霧が棚引いているのを見て、「私の為にいとしい妻が嘆いているのだろう」と夜霧に家郷の妻の嘆きの息を感じている。残る妻の歌「君が行く 
海辺(うみべ)の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ」(15-3580)と夫の航路に思慕を馳せる。
25日 長門の島 わが(いのち)を 長門の島の 小松原 幾代(いくよ)を経てか (かむ)さびわたる 遣新羅使人 巻15-3622
呉市の南方の倉橋島、西南端の岬に長門崎がある。本浦に桂浜あり、白砂青松の好風の地、松林の中に万葉歌碑、ひっそりとした浜辺。異郷の松林は一入神厳に迫るものを感じ、「わが命を」長くあれかしとの心で「長」にいいかけた。命懸けの船旅の実感がある。
26日 長門の浦 (しげ)み 慰めかねて ひぐらしの 鳴く島陰(しまかげ)に (いほり)するかも
(いは)(ばし)る 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ (15-3617)
「われのみや 夜船は漕ぐと 思へれば 
沖辺(おきへ)の方に 楫の音すなり (15-3624)
遣新羅使人 巻15-3620

真夏にこの島陰に仮泊。望郷と妻恋の思いに堪えかねている様子。

倉橋島の本浦の桂浜、
苦難の様子が分かる、異郷流離の心細さ。
27日 可太(かだ)の大島 筑紫道(つくしぢ)の 可太(かだ)の大島 しましくも 見ねば恋しき 妹を置きて来ぬ 遣新羅使人 巻15-3634
柳井の南の周防大島
(屋代島)が「可太の大島」と言われる。瀬戸内で淡路島、小豆島に次ぐ大きい島。「しばらくでも逢わない恋しい妻を、家において遠くもやってきてしまった」と大島の「しま」と「しましく」をかけている。筑紫も大陸もまだ遠く不安と寂寥感が旅愁望郷につながっている。
28日 大島の鳴門 これやこの 名に負ふ鳴門(なると)の 渦潮(うづしほ)に 玉藻刈るとふ 海人(あま)娘子(をとめ)ども 田辺(たなべの)秋庭(あきには) 巻15-3638
遣新羅使人の一人。阿波の鳴門とともに渦潮で名高い「大島の鳴門」は山陽本線大畠駅の近くで大畠瀬戸で眼下に渦巻く急潮を見られる。「これがまあ、あの、名高い鳴門の渦潮で海藻を刈るという海人乙女たちか」と都人らしい賛嘆の声は
1200年後の現代人と同じである。
29日 熊毛(くまげ)の浦 都辺(みやこへ)に 行かむ船もが 刈薦(かりこも)の 乱れて思ふ (こと)()げやらむ 羽栗 巻15-3640
山口県熊毛郡、光市の室積港と言われる。室津と上ノ関は幅
100米の水路、古来より要衝として風待ち、汐待ちの帆船の停泊地。「都の方へ行くような船があればいいなあ(刈薦は枕詞)、思い乱れる慕情を伝言してやろうに」。
30日 祝島 家人(いへびと)は 帰り早()と 祝島(いわいしま) (いは)ひ待つらむ 旅行くわれを

「草枕 旅行く人を祝島 幾代経るまで斎ひ来にけむ(15-3637)」。
遣新羅使人 巻15-3636
室津半島の西南に続いて長島その西方にあるのが祝島。瀬戸内海島嶼群の西端、波高い周防灘の東端にある島、海抜
357米、航路の目標となる島。「家の者は早く帰れと祝島の名のように、いはひ待っていることだろう。」古代航路の苦難が偲ばれる。