安岡正篤先生「易の根本思想」5

平成20年7月度

 1日 易経の生成

中国史の曙―(いん)()より周へ
中国は、西紀前十世紀以前にほぼ支配権を樹立していた(いん)王朝から有史時代にはいる。 その前の()は、今日のところ、まただ伝説時代に属しているといって大過はない。
 2日 殷王朝 恐らくは、殷王朝は山東半島に居った東夷民族の一部が、河南平原に向って、盤庚(ばんこう)のような優れた指導者の統率の下に西遷(せいせん)し、河南の商邑(しょうゆう)(安陽)に首都を建設した元来狩猟牧畜民族であろう。 殷という国号若しくは王朝の名は今まで分かっている卜辞(ぼくじ)には見当たらない。商という首都の名を以て連邦を代表していたらしい。殷は祭名で、合衆国的意義を持ち、周朝側からの称呼と推定されている。
 3日

(ふん)(すい)流域

これに対して、山西(ふん)(すい)流域の、気候も好く、地味もむ肥えた地方に、いち早く遊牧から進んで農耕生活を営み、近くに塩池の利をも有して、繁栄に向っていたのが周民族であった。殷王国はこれを侯に封じたが、始終武力を以て、或は女を周候に與へるような結婚政策を以て、或は背後の(けん)(じゅう)(苦力・鬼方)などを駆使して、(しきり)に周を圧迫し、遂に周文王の祖父・古公(たん)()は、汾水(ふんすい)流域に次ぐ肥沃(ひよく)な農耕地帯であった彼の西山(岐山(きざん))峡西(きょうせい)渭水(いすい)下流地方に移住しその子王季(おうき)の時代にはよく繁栄した。

(けん)(じゅう)(苦力・鬼方)などを駆使して、(しきり)に周を圧迫し、遂に周文王の祖父・古公(たん)()は、汾水(ふんすい)流域に次ぐ肥沃(ひよく)な農耕地帯であった彼の西山(岐山(きざん))峡西(きょうせい)渭水(いすい)下流地方に移住し、その子王季(おうき)の時代にはよく繁栄した。(苦力・鬼方)などを駆使して、(しきり)に周を圧迫し、遂に周文王の祖父・古公(たん)()は、汾水(ふんすい)流域に次ぐ肥沃(ひよく)な農耕地帯であった彼の西山(岐山(きざん))峡西(きょうせい)渭水(いすい)下流地方に移住し、その子王季(おうき)の時代にはよく繁栄した。 

 4日 文王は隠忍自重 殷王武丁(いんおうぶてい)(おう)()を謀殺し、王季の子文王(ぶんおう)(ちゅう)(おう)は都に招致して、?里(いうり)に監禁したが周は莫大な賄賂を使って殷の君 臣を篭絡(ろうらく)し、辛うじて免れることができた。文王は隠忍自重して、殷と宥和(ゆうわ)政策を取りながら、その間懸命に努力して国力を培養し民心を収攬すること五十年。
 5日 文王と武王の父子 殷政府は却って頽廃堕落し、尚は周にとって、もっけの幸ともいうべきことであったのは、殷の故地山東に新に東夷(人方)の強大な勢力が勃興して、殷の背後を(ねら)ったことである。(ちゅう)(おう)はこの征伐に国力を傾けて、民衆の怨嗟(えんさ)を招いた。(古字では夷は人と同一に用いられている)文王は西方の圧倒的勢力(覇者・伯・西伯)を作り上げ、遂にその子武王に至って革命を決行し、殷都朝歌の郊外・牧野に進撃し、惨憺 たる戦闘の後、幸に勝利を博して、(ちゅう)(おう)は自決したが、武王は徹底的殲滅策を取らず、(ちゅう)(おう)の遺子・武庚(ぶこう)らを保護してこれに統治を(ゆだ)ね周の王族菅叔(かんしゅく)蔡叔(さいしゅく)らを監視に付けて、王自らは峡西(きょうせい)の本拠(こう)(きょう)に帰還し、その後僅々(きんきん)二年にして崩じた。
 6日 周公旦(しゅうこうたん) 嗣子成王はまだ幼少であったので武王の后で成王の生母邑姜(ゆうきょ)(王姜)が成王を奉じて摂政の位にあたり武王の弟で周室内の 代表的実力者であった周公旦(しゅうこうたん)庶弟の一人である召公せきと共に実務をとることになった。
 7日 武王の死

武王の死は大きな衝撃を与えた。(ちゅう)(おう)の後に封ぜられた()(こう)は、好機逸すべからずと、早速山東の諸国と通謀して反乱を起した。これは新興周朝の運命を決する一大危局であったが

周公は召公(しょうこう)と力を(あわ)せ、成王・王姜(おうきょう)の親征を決定し、與国(よこく)(げき)して総動員を行ひ、大軍を挙げて討伐を決行し、完全に反乱軍を征服することができた。
 8日 中原(ちゅうげん)洛陽(らくよう)の地

そして、陜西(きょうせい)の首都に凱旋(がいせん)したが、華北の大平原を掩有(えんゆう)した王朝が、これを統治する為に従来の都は辺鄙(へんぴ)に過ぎる為、陜西と中原(ちゅうげん)の要衝に当たる洛陽(らくよう)に地を(ぼく)して、

成周の新都を此処に建設した。周公は此処に成王を迎え、自分は陜西に退隠しようとしたが、成王始め周囲はどうしてもこれを許さず、遂にその死まで政務に心血を(つく)し、堅実な封建制度を樹立して文化の発達に偉大な貢献をなしとげた。
 9日 周公の成功 周公の成功と権勢は様々な嫉妬や疑惑や流言を生じたようである。 成王・周公に狐疑(こぎ)す(論衡・感類)とか周公流言に狂懼(きょうく)するの日(白楽天詩・放言)という句など、察するに余りあるのである。
10日 周の危機 成王、次の康王の治世は、周朝が最も平和と繁栄とを保持した時代であるが、その充実した国力を以て、次の昭王・(ぼく)(おう)は対外発展政策を遂行した。 然し代を重ねる中に、漸く沈滞と堕落を生じ、(れい)(おう)に至って内乱勃発し王は山西に蒙塵(もうぢん)して宰相司馬共(師和父)が執政となり辛うじて局面を収拾した。
11日 周室の東遷

この時が周の大いなる危機であったが、幸に英明な宣王が即位して、名相(いん)(きっ)()らを登用し、在位四十余年、よく中興の大業を成し、崩壊し易い封建制の弱点を改めて強力な中央集権制を施行した。然し、その為に鬱積(うっせき)した地

勢力の不平憤懣(ふんまん)は、宣王の死と次いで立った幽王の不肖の為に爆発し外戚(がいせき)(しん)(こう)の謀反、北方遊牧民族犬戎(けんじゅう)との通謀となってその侵略を蒙り、都は蛮族に蹂躙され王は殺害されるに至った。
12日 周室の東遷 後嗣(こうし)平王は(しん)(しん)(えい)ら大諸侯の協力を得て東の洛邑(らくゆう)に即位して辛くも王朝の命脈を

つなぐことができた。これが有名な周室の東遷と言われるもので(世紀前八世紀末)これにより春秋・戦国の時代となってゆくのである。 

(いん)(しゅう)卜筮(ぼくぜい)
13日 神・霊・鬼 古代人はあらゆるものを不思議とし、目に見える形の奥に不思議な力()が潜在することを信じ、その目に見えぬ、感覚で捕えることの出来ないものを神とし、それが何らか奇怪な形をとって現れるものを鬼とした。そして、それらの祟りを恐れ、それを祭って災厄を 避けることに熱心であった。特に祖先の精霊の実在を信じ、祖先の霊を祭って、生ける者の如くに仕え、その霊によって、これから為そうとする事の判断を與へられ、それに従って行動することに決意と安心を得ようとした。 
14日 霊媒(れいばい)

これには凡そ二つの方法がある。その一は、特殊な霊能を持っている霊媒(れいばい)(()(女称)(げき)(男称))の神がかりによる言葉を聴こうとする。

所謂シャーマニズムである。もう一は、神に供えた犠牲のある部分を霊媒として、特殊の技術によりこれを操作し、そこに表れる象を見て判断する方法である。
15日 亀甲(きっこう)

後者の代表的なものが亀の甲や牛の骨などを使用する卜占(ぼくせん)である。(ぼく)亀甲(きっこう)()いて出来た亀裂(ひび)の形から取ったものと説かれている。従って(うらない)(ぼく)と口との(ごう)()である。

(てい)の字も(ぼく)と貝との(ごう)()で、本来卜間(ぼくかん)の意であり、()(てい)(うらな)うに()し。貞吉()は、吉()たること、夢疑なしの意であろう。
16日 巫師(ふし) 殷人(いんじん)は特にこの卜占を重んじ、日常生活から始めて政事・軍事の重大問題まで万事万端(ぽく)に問ひ、これによって決した。そこで政府に(ぼく)専門学校の役人(巫師(ふし))を置き、その勝れた人物は大臣にも挙用(きょよう)されている。 明君の武丁(ぶてい)(たす)けた巫咸(ふかん)巫賢(ふけん)は一見明瞭であるが、有名な賢相(けんそう) 傅説(ふえつ)も、実は巫師(ふし)の一人で、()は保と同じく神がつく、神がかりを意味するものである。
17日 亀甲(きっこう) 亀甲(きっこう)()くと、ぴんと一直線にひび割れ((たく))ができ、続いて支線が走り(()(たく))、色々のうらか ((ちょう))になる。そのひびの入りかた、色沢(いろつや)・形((ちょう)(しょう))で判断する。 
18日 (ぼっ)(きょう)

後世この亀卜(きぼく)に関してもなかなか複雑な説明がある。(ちょう)(しょう)に二十四種を認めその一々を五つに分って百二十種となる。色沢を五種に分つとこれが六百種になる。更にひびの入りかた((ぼく)(たく))を大小・明暗の二種に分って都合千二百種に達する。 

この千二百種に夫々占辞(せんじ)をつけて、これを「(しょう)」又は?(ちう)」という。これを集めたものが(ぼっ)(きょう)であるというが、今日伝わってをらない。然し、断片的に易経の中に残存している。
19日 亀卜(きぼく)

亀卜(きぼく)は元来手数のかかる仕事である。そもそも亀の甲からして、沢山使うのには入手に困難である。
さればこそ、殷虚(いんきょ)の発掘に伴う卜辞(ぼくじ)の研究によれば、

亀甲は一、二割で、大部分は(じゅう)(こつ)であるという。そこで周代になると、簡易化を求めて亀卜とは別に占筮(せんぜい)が用いられるようになったのである。
20日 筮竹以前

亀卜の簡易化が要求されると同時に、農耕本位の社会生活関係もあって、周代にはいると占いに()という草の茎が用いられるようになった。この草は長寿なもので百年にして一本に百茎を生ずると言われる(本草綱目)。和名めど、或は、めどはぎは菊花に属しも山野に育つ多年

生の植物で、茎は細長くて高さ60−90センチに達する(牧野博士・日本植物図鑑)。日本ではこれを、かの()になぞらえ、筮に用いた。()は後に竹で代用されることになり、これを策という。今の筮竹である。その筮法の大要が繋辞伝に載っている(後章筮法参照)
21日 (すう)」の(すい)(きゅう) 殷代の占卜は前述のように神がかりの託宣、シャーマン的なものであったが、周代にはいると共に、人間の自信が強まり、形而上的な思索が発達して、占筮にもそれが加味され、次第に判断が論理的・思想的になり、霊威(れいい)思惟(しい)と実践とが不思議な関連を持つ活々したもの、西洋的に言うと、dynamic、kineticなものに進歩していった。政府では史官がこれに当り占人(せんじん)

卜人(ぼくじん)が居って、占筮(せんぜい)ごとに、その判断である筮辞(ぜいじ)を作り、これを記録して府庫(ふこ)納め、年度末に検討したもののようである。占筮は()を特定の方法で数えて、その結果を符牒(ふちょう)で表し、それを見て吉凶(きっきょう)を判定する。つつまり「(すう)」の(すい)(きゅう)である。 

易経の成立
22日 占筮の符牒 占筮の符牒は、--」 とを基本とする。()の一(けい)とその折半に(のっと)ったものと思えば、(あた)らずと雖も遠からぬものであろう。

男女の性器に徴したものという説もあるが(渡辺千春・郭沫若の如き)、素朴な古代人の感覚から言えばあり得ることであろうが、朝廷で発達してきた歴史から言えばそれは穏当でない。 

23日 八種の(しょう) 然し、は男・剛を意味し、--は女・柔を意味する。 この、--を三画づつ重ねて、八種の象が出来る。これが八卦(はっけ)(くわ・け・掛に通じ、象を徴す。同時に又時を(あらわ)すもの)である。
24日

八卦と六十四卦

これに古代人の生活体験から、世界の最も偉大な力のある存在と思われた天・澤・火・雷・風・水・山・地をあてはめた。 この八卦を更に積み重ねて発展させるちと六十四卦となる。
25日 三百八十四(こう)と天地万物 一卦がそれぞれ六画(六爻(ろっこう)・数に通じ変化の動を象徴する意味のもの)から成り立っているから、六十四(こう)

なる。
これによって宇宙万物・人生・国家万般の問題がすべて推究されるとしたのである。
 

26日ー

30日
彖辞(たんじ)象辞(しょうじ)占筮(せんぜい)原典

八卦は、伏羲(ふぎ)(庖羲(ほうぎ))が作り、六十四卦は神農(しんのう)或は()、或は文王が作ったと言われているが、もともと仮託であって、六十四卦ができたのは恐らく西周初期てであろう。卦爻(けこう)変化の体制が整うにつれて、従来専門家によって作られてきた筮辞(ぜいじ)が検討されてこの六十四卦・三百八十四爻に按配されるようになり、ここに占筮(せんぜい)原典のようなものが出来た。その時代は西周末から春秋初期の間と推定される。これを易または周易と称したことは左伝等によって明らかである。周易に対して、連山と帰蔵と更に二種の易書があったと言われ、連山は()の易、帰蔵は殷の易という説と、内容の異なる編集という説とあるが、後世に伝わっていない。恐らくちよを集めた異本であろう。各卦に繋けられた判釈(はんしゃく)、つまり卦辞を別に彖辞(たんじ)と言い、各爻に繋けられた爻辞を象辞(しょうじ)ともいう。(たん)(いのこ)の走る形とも、占に用いられた一種の動物、日本でよく使われた(きつね)のようなものとも言われる。彖辞(たんじ)は文王、象辞は周公の作と伝へられたが、まことに好く考えたものであるけれども、もとより一人の手になったものではなく、年代もまちまちである。周易の周の字については、周朝の周とするのが通説であるが、物に周普(あまねく)して備はらざるはない意とするものである。(漢の(でふ)(げん)、その学に本づいた清の姚配中(ようはいちゅう)

及び黄以(こうい)(しゅう)らの如き)とにかく原典の出来たことは占筮に非常な利便を與へ、権威と進歩をもたらした。筮者は一々筮辞を作る必要がなくなり、原典に照らして解釈すればよいことになったので、自然一般知識人に普及し、それと共に占に対する信憑性に対して、自主的な思想性・哲学性が著しく加わっていった。論語に、ある人が「人として恆(自主性・不変性)が無くなれば、巫も医も何もならない。その徳を恆にせずんば、或は之が羞を承く(易経恆卦九三爻辞)とあるのは善い言葉である」と言ったのに対して、恆無き者は凶であることは言うまでもない。卜うを持たぬと孔子が言ったという一節がある。(子略)荻生徂徠(おぎゅうそらい)がこの章句の切り方について意見を立てているが、それは此処では問題としない。詩経の小雅(しょうが)に、我が亀既に()きて、我に(いう)(おもうこと)を告げずという句がある。人間の愚かな迷いからする卜ひに対して理性の声を伝へたものである。

礼記緇(らいきくし)()に「子曰く南人・言有り。曰く、人にして(こう)なきは以て卜筮(ぼくぜい)を為すべからずと。古の遺言なるか。
亀筮(きぜい)猶ほ知る能はざるなり。而るを(いわ)んや人に於いてをや」の次に前記詩経の句を引用して結んでいる。周代思想・精神の進歩を物語る好例である。
 

31日 注釈 孔子が周易に意を用いたであろうことは十分察せられる。然し、果してそんなに好んだかどうかは疑問である。怪力乱神を語らず、人格の自主的権威を重んじて理性と自由の道力説した孔子が、当時流行の占筮などに重きを置かなかったことは、前記論語の例によっても察知することができる。よく引用される我れに数年を()し、五十にして以て易を学ばば、以て大過無かるべし(論語・述而)も、魯論の方では、易が(えき)となっていて、五十にして学ばば亦以て大過無かるべしである ということが論ぜられている。寧ろ、易は孔子を代表とする当時の思想学術によって大いに進化させられ、戦国時代にはいって、陰陽思想や五行思想と合致して、更に思想体系が整えられ、戦国末期から秦になって、始皇帝の言論弾圧、思想書籍の償却にも、卜筮の書としてほぼ免れ、漢にはいって又その研究が進み、易経(えん)()・易経解説ともいうべき(じゅう)(よく)ができて、それらが総合されて今日の易経となった。