フィヒテの講演

ナポレオン侵攻の最中に行なわれた講演で、祖国ドイツの惨状を憂うフィヒテは、教育で自立的な国民を育成することを説いている。

1807年フランス占領下のベルリンでフィヒテが行った講演の内容。ドイツの国民教育についての展望を示し、真に祖国を愛することとはどういうことかを論じる。

フィヒテは本書で痛切な現状認識から始め、現在が自己の理念を実現するのに不可能な状況にあることを率直に認めている。

そして彼は次世代の世界に希望の眼を向ける。教育問題こそ彼がここで訴えようとする主題である。彼はここで抽象的で空虚な道徳教育論を述べているのではなく、自己の理念の実現可能な方策を具体的に、ペスタロッチの教育論とその実践を学びながら、独自な形で述べている。時代状況の差違は、今日の我々にとって、ここで述べられている内容の多くを無効にしていることは認めなければなるまい。しかし教育問題について今日の我々が等閑視している重大な側面をフィヒテが鋭く指摘していることも間違いのない事実である。なんの理想も理念ももたず、ただ知識、技術の獲得に照準している学校教育の現状を省みるとき、フィヒテの訴えはいかに深く心に迫ってくることか。

さらに本書は真に祖国を愛するとはどういうことか、という問題にも深い示唆を与えてくれる。フィヒテは祖国ドイツの特有性を、たんなる偏狭な民族主義的熱狂からではなく、広い歴史的知見と、とくに言語に関する深い洞察を基にして論じている。このことは、時代と国を異にする今日の我々日本人にとっても重要な教示になると思われる。

新たなドイツ人としての深い自覚、そこに立ち塞がったのがナポレオンである。フランス軍がプロイセンを支配するなか、フィヒテは何度も軍靴高まるベルリンのアカデミーで講演に立ち、祖国の再生を訴えた。ウンターデン・リンデン通りにある真冬のベルリン・アカデミーの講堂だ。講演は14回にわたった。それがぼくを驚かせた『ドイツ国民に告ぐ』である。熱烈な教育論だった。  

 フィヒテは次のように演説を始めた。


 「独立を失った国民は、同時に、時代の動きにはたらきかけ、その内容を自由に決定する能力をも失ってしまっています。もしも、ドイツ国民がこのような状態から抜け出ようとしないなら、この時代と、この時代の国民みずからが、この国の運命を支配する外国の権力によって牛耳られることになるでしょう」。そして、次のような趣旨を激烈に語っていく。

 私がこれから始める講演は、3年前の冬に行った『現代の特質』の続きだ。
 私は先の講演において我々の時代は世界史の第3期にあたり、たんなる官能的利己心がそのすべての生命的な活動、運動の原動力になっているということに向かって突き進んだことを述べた。しかし同時にこれがために、利己心は行くところまで進みすぎて、かえって自己を失うに至ったのだと語った。
 これでは行方を失いつつあるドイツは救えない。私はこの講演をドイツ人のために、もっぱらドイツ人についての出来事に絞って語りたい。なぜドイツ人のためなのか。それ以外のどんな統一的名称も真理や意義をもたないからなのだ。
 我々は、未来の生を現在の生に結びつけなければならない。そのためには我々は「拡大された自己」を獲得しなければならない。それにはドイツはドイツの教育を抜本的に変革する必要がある。その教育とは国民の教育であり、ドイツ人のための教育であり、ドイツのための教育である。
 この講演の目的は、打ちひしがれた人々に勇気と希望を与え、深い悲しみのなかに喜びを予告し、最大の窮迫の時を乗り越えるようにすることである。ここにいる聴衆は少ないかもしれないが、私はこれを全ドイツの国民に告げている。

新たな教育の提案に移っていく。それはドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための教育計画とその哲学である。

(1)     学校を、生徒が生み出す最初の社会秩序にするための「共同社会」にするべきだということ。

(2)     教育は男女ともに同じ方法でおこなわれなければならないということ。
 

(3)     学習と労働と身体が統一されるような教育こそが、とくに幼年期から必要であること。
 

(4)     学校は「経済教育」をおこなう小さな「経済国家」のモデルであろうとするべきであること。
 

(5)     真剣な宗教教育こそが「感性界」を可能世界にしていくはずだということ。
 

(6)     すべての教育は国民教育でなければならず、したがってすべての教育はドイツ人の、ドイツ人による、ドイツ人のための教育計画とその哲学でなくてはならぬ。 

当時の教育論がペスタロッチに代表されている時期、しかもその計画をドイツ人の民族観念や言語感覚と根本的に結びつけ、それを熱情あふるる口調で主張しつづけたということは、やはり尋常ではなかった。

教育論だけだとは思わなかった。このように一国の民族を語る方法があるということに、心を揺さぶられたのだった。

中央公論社の「世界の名著」のフィヒテ・シェリングの巻で瞥見できる。またフィヒテがヘーゲルとはかなり異なる精神現象学に到達していることは、フィヒテ『浄福なる生への導き』(平凡社ライブラリー)を、フィヒテの思索を辿るものとしてはディーター・ヘンリッヒの『フィヒテの根源的洞察』(法政大学出版局)