風姿(ふうし)花伝(かでん)その2   世阿弥(ぜあみ)

この本は、どうして若い時に、育児の前に読まなかったのかと、悔やまれてならない書物であった。芸のみでなく、人間形成、物事の発育過程の自然な姿、過程を心情的に亦、実に本質を突いたもので、圧倒的な名著である。先ずは、「風姿花伝の名言」から抜粋しご披露することとする。  

平成247月   岫雲斎圀典

()(けん)(けん)

自分の姿を左右前後から、よくよく見なければならない。これが「()(けん)(けん)」)」。これは、「見所(けんしょ)(どう)(けん))」とも言われる。見所は、観客席のことなので、客席で見ている観客の目で自分を見なさい、ということ。

実際には自分の姿を自分で見ることはできない。客観的に自分の行動を批判してくれる人を持つなど、ひとりよがりになることを避けるよう心掛けなければならならない。

ではどうやって、自分を第三者的に見ればいいのか。世阿弥は、「目前(もくぜん)心後(しんご)」という言葉を用いている。

「眼は前を見ていても、心は後ろにおいておけ」ということ、即ち、自分を客観的に、外から見る努力が必要だ。これは、単に演劇の世界に限ったことではない。

「後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず」(後姿を見ていないと、その見えない後姿に卑しさがでていることに気付かない)。それではいけない、と世阿弥は言っている。

歳を重ねれば重ねるほど、地位が上に行けば行くほど、前を見ることが要求され、自分の後姿を見ることを忘れてしまいがちだが、自分が卑しくならない為には、自分を突き放して見ることが必要なである。全体の中で自分を客観的に見ることは、いつの世でも難しく、しかし必要とされる。

家、家にあらず。次ぐをもて家とす

家というものは、ただ続いているだけでは、家を継いだとはいえない。その家の芸をきちんと継承してこそ、家が続くといえるのだ、という意味。

世阿弥は、「たとえ自分の子であっても、その子に才能がなければ、芸の秘伝を教えてはならない。」といった上で、このことばを続けています。激しい競争社会の中で、「家の芸」を存続させるには、このように厳しい姿勢が必要だった。さまざまな分野で「二世」が闊歩する今日、この世阿弥の言は、もう一度噛み締める必要がある。

稽古は強かれ、情識はなかれ

(じょう)(しき)」とは、傲慢とか慢心といった意味です。「稽古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない。」という意味の言葉。世阿弥は、後生に残した著作の中で、繰り返しこの言葉を使っている。

「芸能の魅力は、肉体的な若さにあり、一時のもの」という、それまでの社会通念を覆したのが、世阿弥の思想。それは、「芸能とは人生をかけて完成するものだ」という考え。

「老骨に残りし花」は、観阿弥の能を見ての言葉。老いて頂上を極めても、それは決して到達点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古することが必要だと、世阿弥は何度も繰り返し語っている。

慢心は、人を朽ちさせる。それはどんな時代の、どこの国にも当てはまることである。

時に用ゆるをもて花と知るべし

物事の良し悪しは、その時に有用なものを良しとし、無益なものを悪しとする、という意味。世阿弥は、この世を相対関係で考えていた。ここでは、美しさ、魅力、面白さなどさまざまなプラス概念を総合した意味で、「花」という言葉を使っている。

年々去来の花を忘るべからず

「年々に去り・来る花の原理」とは、幼年時代の初々(ういうい)しさ、一人前を志した頃の技術、熟練した時代の満足感など一段ずつ上ってきた道で自然と身についた技法を全て持つ事で、これを忘れてはならない、という意味。

ある時は、美少年、ある時は壮年の芸というように、多彩な表現を示しながら己の劇を演ずるべきだ、と世阿弥は説く。入門時から現在の老成期まで芸人は、その一生を自分の中に貯え、芸として表現しなくてはならない。日々の精進が大切な事を指す。

秘すれば花

誰も知らない自分の芸の秘密、いわゆる秘伝を持つことを世阿弥は求めた。これを徒らに使うことは控え、いざという時の技とすれば、相手を圧倒することができるという。現代でも、自分の可能性を広げるための準備として「秘する花」を持てば、いざという時に世界が広がる可能性がある。

住する所なきを、まず花と知るべし

「住するところなき」とは、「そこに留まり続けることなく」という意味。停滞することなく、変化することこそが芸術の中心である、と世阿弥は言っている。

よき(こう)(じゅう)して、悪き劫になる所を用心すべし

劫は「功績」の意味、「良いとされてきたことに安住すると、それがむしろ悪い結果になってしまうことに用心せよ」という意味。このことに、「よくよく用心すべし」と世阿弥は説く。世阿弥は、世間の変化の中で、その変化と関わりあっていくのが人間であり、芸術であると考えた。その変化の中で、変化することを恐れず、「(じゅう)しない」精神を世阿弥は求めた。

世阿弥・波乱の生涯

世阿弥は、南北朝時代の1363年、大和四座の人気スターであった観阿弥の長男として生まれた。幼名を(おに)夜叉(やしゃ)、本名、元清と言う。

11歳の時、京都は今熊野での演能で、父・観阿弥と供に獅子を舞ったことが契機となり、世阿弥は一躍人気役者となる。この時、若き将軍義満に出会い、以後、世阿弥は、彼の寵童として、側近くに召し使われた。当時最高の文化人であった二条良基も世阿弥を贔屓にした一人で、「古今集」などの古典や連歌の知識を授けた。

当時、新興芸術のためには、将軍や公家などのパトロンがとても重要な存在であり、将軍家の眼に留まることは、観阿弥・世阿弥親子にとっては、またとないチャンスであった。

「寵童」という身分について、自らも能を舞った白州正子は、その著書『世阿弥』の中で次のように述べています。

「男色は、当時珍しいことではなく、現代のような不健康なものでもなかったようだ。性的倒錯というよりは、主従・師弟間の愛情の煮詰まった形で、初々しい少年に女性的な美しさを求めるというよりは、若さと美の象徴として、男性の理想を求めたようである。僧侶の間では、仏道に入る機縁として、美しい稚児(ちご)に観音の化身を見たという物語もある。」

「世阿弥は、将軍の寵愛におぼれるような人物ではなく、好奇心に富んだ利発な少年だった。書物の中でも、将軍への恩義は示しても、格別それを誇る様子はなく、無論甘えた根性などは見受けられない。」

世阿弥が20歳を少し過ぎた頃、父・観阿弥が旅興行先の駿河で亡くなる。以後、世阿弥は、名実ともに観世座のリーダーとなり、演出・主演を兼ねるシテ役者として一座を束ねてゆく。演目でも、父のレパートリーなどの旧作を補綴、編曲するほか、数々の新作も手がけた。

順風満帆な人生を送る世阿弥を悩ませ続けていたのが、後継者問題である。世阿弥には中々子どもができなかったので、後継者として弟・観世四郎の子、後の音阿弥を養子に迎えた。彼は、この頃から自分の芸の伝承を考え、『風姿花伝』の執筆を開始したと言われる。これは、純粋芸術論ではなく、自分の後継者たちが第一人者の地位を保ち続けるためにどうすればよいかを教える、いわばマニュアル本のような存在である。

処が、長年子供ができなかった世阿弥夫妻に、長男の十郎元雅、さらに七郎元能、金春(こんぱる)(ぜん)(ちく)の妻となる娘の3人の子どもが生まれた。

一端、後継者と定めた四郎・音阿弥親子と実子・元雅の間で、世阿弥は苦悩するが、応永25年(1418年)に全編が完結した『風姿花伝』は、実子元雅に相伝している。

将軍・義満に愛された世阿弥でああるが、年月を経るにつれ、この関係も変化した。義満は、晩年、世阿弥のライバルである能役者・犬王を寵愛し、「猿楽の第一人者は道阿弥(犬王)である」とランク付けした。しかし、義満が病気のため急死し、禅に通じた文化人義持が次の将軍となると、道阿弥に替わり田楽の増阿弥が寵愛を受けるようになる。

正長元年(1428年)、義持が死に、6代将軍義教が後継となる。将軍即位の盛大な猿楽公演で演者をつとめたのは、世阿弥ではなく養子・音阿弥であった。こうして音阿弥の時代が到来し、観世座は、主流の音阿弥派と、反主流の世阿弥・元雅派に分裂して行く。 この頃、将来に絶望した為か、次男の元能は、出家してしまう。さらに2年後、長男・元雅も旅興行の伊勢で、30代前半の若さで客死してしまった。

後継者・元雅を失った世阿弥の最後の心の拠り所は、娘婿の金春禅竹であった。最晩年の世阿弥は、芸論など自分が作り上げた「思想としての能」をこの禅竹に伝えた。