廃都の老帝

大化五年、鎌足は左大臣阿倍内麻呂の病没に乗じ、邪魔者となっていた右大臣倉山田石川麻呂も謀略によって殺害しましたが、孝徳天皇とて鎌足から見れば、もうほとんど利用価値のない存在になっていました。改新政治が一応の成功を収め、政権の安定と自分たちの権力が揺るぎ無いものとなった今、臨時政権の目的は達せられたのです。いい換えれば、この時期、鎌足にとつて孝徳天皇はいてもいなくてもよい程の存在になっていたのです。

こうして難波の新宮殿には孝徳天皇一人だけが残されました。実質上の都は大和に移り、いわば廃都となった難波に老帝が一人、孝徳天皇はまさに古代史上でも希有な屈辱的境遇におかれたのです。

悶々として日々を余儀なくされた孝徳天皇は、その翌年病に罹られました。臨終の間際になって漸く、中大兄は、天皇の姉である皇極前天皇や間人皇后ら身内を連れて見舞いに訪れました。しかし、孝徳天皇にとってそれが慰めになったとは思われません。老帝はうめようのない孤独感の中に寂しく崩じられたのです。

 

註 白雉

  孝徳天皇の年号。穴門、長門、国司が白雉を献じたので改元。6502156551

 

  有間皇子

  640658、舒明12斉明4、孝徳天皇の皇子。母は阿倍内麻呂の娘・小足媛。658年、斉明4、蘇我赤兄に謀られて謀反を企て、捕えられて紀伊の藤白坂で絞殺された。

 

斉明(ちょうそ)と鎌足の思惑

対抗しうる勢力を根こそぎにしようとする鎌足

孝徳天皇が崩御になつたのですから、皇太子である中

大兄が皇位を継ぐはずですが、鎌足はそうはさせない

で、ふたたび先帝皇極天皇を重祚(同じ人が再び天皇

になる)させて斉明天皇としました。そして、この女

帝の下で、中大兄は依然として皇太子のままその地位

に留まったのです。これも、斉明天皇を楯にして思い

通りに政治を操ろうという鎌足の策略だったことは

言うまでもありません。

鎌足は自分たちに対抗しえる勢力を根こそぎにし、絶

対に安全となるまで中大兄を天皇につけたくなかっ

たのです。蘇我氏打倒のときもそうですが、完璧なま

でに優位な状況をつくってから事を起こすというの

が鎌足のやり方なのです。

その鎌足が警戒したのが有間皇子です。中大兄の仕打

ちによって孝徳天皇は悶死させられたわけですから、

これを有間皇子が恨みに思わないはずがありません。

また、有間皇子は前天皇のただ一人の皇子として有力

な皇位継承者でもあり、鎌足らの政治に反感をもつ勢

力が皇子を擁立して対抗してくるとも限らないわけ

です。それゆえ、皇太子の中大兄をはずして斉明天皇

を立てるぐらいなら、正当な皇位継承者の有間皇子を

即位させればよいのに、あえて幼少を理由にそうしな

かったのです。

斉明天皇即位のとき、有間皇子は十五才、鎌足にすれ

ば、できるだけ早いうちにこの天皇を抹殺しておくに

こしたことはありません。そのころから鎌足は既に有

間皇子抹殺の機会を虎視眈々とうかがつていたと思

われます。

 

有間皇子にしのびよる鎌足の魔手

有間皇子は自分の立場が非常に危ういものであるこ

とを察し、父・孝徳天皇の崩御後は狂人の真似をして

危険を回避しようとしました。そうすることで、鎌足

らの警戒を和らげようとしたのです。皇子は孝徳天皇

の孤立無援の状態を引継いでおり恨みをはらそうに

も有力な味方はなく、それどころか若く無力なわが

身を守るには狂人の真似でもするしか術がなかった

のでした。

しかし、そうした苦肉の策でしのぐ有間皇子も遂には

老獪な鎌足の網に捕らえられるのです。

斉明天皇は舒明天皇の皇后の時代、ついで皇極天皇の

時代から非常に旅行好きで温泉好き、その上、土木工

事が大好きという性癖がありました。それは二度も天

皇に立たれながら、蘇我氏・中臣氏によって傀儡化さ

れて実権の全く無い天皇のせめてものはけ口だった

のでしょう。しかし、結果的にこの斉明天皇の性癖が

有間皇子を破滅へ導いてしまうのでした。

 

註 有間皇子

  640658年、舒明12-斉明4、孝徳天皇の皇子。

  母は阿倍内麻呂の娘・小足媛。658年、斉明4

  蘇我赤兄にはかられて謀反を企て捕らえられて紀伊の藤白坂で絞殺された。

 

斉明天皇の四年、658年、五月、皇太子中大兄には長

子には(たけるの)皇子(みこ)(蘇我倉山田石川麻呂の女・遠智娘(おちのいらつめ)

子)がありましたが、この皇太子が八才で夭折(ようせつ)されま

した。

斉明天皇はこの建皇子を寵愛していたため、その死を

いたく嘆かれ悲しみを紛らわすために十月になって

紀伊国の温泉・弁婁(むろ)温泉(和歌山県西弁婁郡白浜町湯

崎温泉)へ政府要人を引き連れていかれたのです。こ

の温泉は、有間皇子が自分の病気を治した素晴らしい

温泉であると斉明天皇に宣伝したところでした。

有間皇子が宣伝した温泉、そして皇室と大臣クラス一

行のいわば政府まるこどの温泉旅行、有間皇子は都に

残留。策士・鎌足はこの斉明天皇の発案になる慰安の

ための温泉旅行を利用して有間皇子謀殺に走ったの

です。

 

有間皇子事件

鎌足の策略

天皇も皇太子も一緒に温泉へ行かれたので都には主

たる人物がいなくなり、ただ大臣の蘇我(あか)()が残って

留守をあずかっていました。そしてこの時、有間皇子

もたまたま都に残っていたのです。

 

註 蘇我赤兄

  生没不詳。大化の改新政府の大臣。蘇我馬子の

  孫で倉麻呂の子。669年、天智8年、筑紫率、二年後左大臣に昇進したが672年、天武元年の壬申の乱には大友皇子方に与して敗れ、流罪。

 

鎌足は、有間皇子が父・孝徳天皇の恨みをはらすため

現政府に反旗を翻す機会をうかがっている、と読んで

いました。そこで、今回の状況を利用して赤兄をそそ

のかして有間皇子を挑発させます。

十一月三日、赤兄は密かに有間皇子を訪れて斉明天皇

には三大失政があるので早く退位させて新天皇を定

めなければいけない、と心にもない偽言を述べ立てま

した。赤兄の言う三大失政とは、第一に倉庫を建てて

民の財物を積み集め、天皇が私腹をこやしていること。

第二に香山から石上山にいたる長い溝を掘り、石垣を

つくっているが、それは税の無駄遣いであること。ち

なみに溝を掘るというのは、普通であれば灌漑用水路

をつくることですが、ここでは庭園に水を引くという

道楽で溝を掘り、国家の土木事業を濫用しているとい

うのです。改新政治では土地人民の私有を禁止してい

るのですから、時の人は斉明天皇が使用でつくった溝

を「狂心の渠」と言って謗っていたのです。第三には、

丘をなすほど沢山の石を船に積んで運び、建築資材を

蓄積しているがそれも税の無駄遣いであること。

これらの三つの悪行によって人民は非常に困苦して

おり、天皇以下留守のこの機を逸せず、今こそ兵を挙

げて天下を取るべきではないでしょうか。と巧みに赤

兄は有間皇子を挑発したのでした。

長い間頼るべき人もなかった有間皇子は、政府要人の

赤兄から心を打ち明けられた喜びで、全後の見境もな

く、ついにその口車に乗せられてしまいました。そし

て日ごろの不平不満と仇討ちの気持ちから「兵を用い

るべきときである」と口走ってしまい、それのみなら

ず作戦まで明かしてしまったのです。

赤兄は翌日そのことを紀伊の温泉にいる中大兄へ報

告しました。

 

大化の改新の裏面史

十一月五日、有間皇子は謀反の相談のため赤兄の屋敷

を訪れましたが、赤兄は脇息の足が折れたのを理由に、

不吉な前兆であるから当分挙兵は見合わせた方がい

いと皇子を帰しました。そして夜半、赤兄は兵を率い

て有間皇子邸を包囲し難なく皇子を捕らえ、そのまま

紀伊の温泉へ送ったのです。

中大兄らに詰問された有間皇子は「真実は天と赤兄が

知っている」と言っただけで弁明せず、十一日、紀伊

の藤白坂で絞殺刑に処せられました。

こうして、孝徳天皇とともにその子・有間皇子まで鎌

足によって悲運の最期をとげたのでした。

有間皇子事件は大化の改新の裏面史を象徴する一事

件にすぎません。鎌足には、不穏当な動きをキャッチ

するや口実にもうけて除去してしまおうという行動

が随所にみられます。本講座でとりあげた犠牲者ばか

りでなく、鎌足はその謀略によって不穏当な人物を

次々と消していったのです。

逆に言えば、そうした血なまぐさい事件が後を絶たな

かったということは改新政治に反感をもっていた人

びとも結構いたということです。流血のクーデターで

政権を奪取したことに始まる改新政治は、その後もず

っと血塗られた残虐の歴史を繰り返したのです。