出雲文化の独自性

平成25年7月

1日 古墳文化

出雲の独自性
古墳時代となると、遺跡・遺物が急激に増え、文化の多様化とともに、出雲の独自の文化も想定できる状態が出現します。古墳時代以前の出雲の文化は、専ら北九州や山陽地方の文化と関係があり、それらの地域からの文化の伝播を受容する地帯として考えられます。また銅鐸文化が大和の文化であるとすれば、それが出雲にも伝わっていたとなると、吉備か安芸方面からの流伝ではないかと考えられます。処が、古墳文化となると、もちろん大和や北九州などの古墳文化との結びつきが考えられますが、私は出雲国には特殊な古墳文化が存在したと言う印象を強く持つのです。
2日

今日の考古学の考え方では、古墳文化は第三世紀後半期の大和において突如として発生した埋葬形式で、それが第四世紀を通じて大和の勢力の拡大に並行して全国的な伝播を示すとされております。

3日

私は基本的にはその見解を否定しませんが、古墳の封土形式の分布において、方墳系の古墳が特に出雲に集中していることなどから、特殊な古墳形式である前方後方墳などは、出雲が発祥の地となって東方へ逆伝播していったと思います。そして、伝説史上の出雲の勢力圏ないと出雲人の移動圏と、前方後方墳の分布権とが一致していることに注目すべき点で、私はこのあたりに日本古代史の一面を解明する鍵が宿されているのではないかと推測するのです。

4日 出雲の文化が独自の要素を持ち始めるのは

いずれにせよ、出雲の文化が独自の要素を持ち始めるのは、漸く古墳時代に入ってからのことで、日本文化史上、出雲が先進的な高度の文化を早くから開花させていた、とは言えないようです。出雲文化に独自の要素が発生し、一地方文化としての複合体が形成し始めるのは可なり遅く早くとも第五世紀ごろです。そして、日本の神話・伝説に出雲の要素が大きく混入しているのは、この第五世紀以降の出雲の文化や社会の発展やそれが古代政治上に及ぼした影響などが関係しているのだろうと私は考えます。

5日 前方後方墳の分布表1

エリア

県名

昭和42

昭和624

北九州

長崎

0

2

 

福岡

0

4

日本海沿岸

島根

17

33

 

鳥取

3

3

 

福井

3

3

 

石川

2

26

 

富山

1

2

 

新潟

0

1

 

山形

0

1

瀬戸内沿岸

広島

2

2

 

岡山

5

21

 

兵庫

2

7

 

大阪

1

7

 

愛媛

0

1

 

香川

0

1

 

徳島

0

2

 

和歌山

0

1

6日

中央

奈良

4

11

 

京都

3

8

 

滋賀

0

1

 

岐阜

1

1

東海地方

三重

3

4

 

愛知

0

6

 

静岡

1

4

 

神奈川

0

5

東国.

長野

0

5

 

群馬

2

3

 

栃木

6

15

 

茨城

3

13

 

埼玉

1

3

 

千葉

2

14

東北

福島

1

6

 

宮城

4

8

全国

 

67

224

縄文時代文化
7日 山岳地帯の高地遺跡 出雲の縄文遺跡は海岸地帯や島根半島部に限られているわけではありません。仁多郡仁多町上阿井王貫の遺跡は、島根より中国山脈の分水嶺を越えて広島県に通ずる、標高600米の王貫峠近くに位置する山岳地帯の、阿井川に面した山の斜面にあります。これは中国地方では最も標高の高い高地遺跡です。
8日

ここに出土する土器は貝殻文土器で、瀬戸内沿岸の同系統の土器に近似しています。壷形の小さな土器や、鹿の角と伴出した磨消(すりけし)縄文系の香炉型土器も出土し、縄文後期から末期にかけての遺跡であることがわかります。ほぼ同時期の遺跡としては、仁多郡高尾遺跡もあります。

9日

また、それより古く縄文中期まで遡り得るものとして、仁多郡横田町竜ノ駒遺跡や飯石郡来島遺跡もあり、出雲の南部の神戸川や斐伊川上流の渓谷地帯には、縄文中期以後既に住民がいたことを示しています。恐らくその地域の住民は、島根半島部の住民と異なり、山岳地帯を生活圏とし、専ら狩猟を業としていた山部(やまべ)の人々で、渓谷づたいに山陽地方・瀬戸内沿岸地域と通交していたと考えられます。さらに最近では、出雲大社の本殿神域内から末期の形式をもつ縄文土器が出土し、神山(しんざん)八雲山(やくもやま)の山麓、渓流に沿ったいまの大社の鎮座地点に、縄文末期より住民のあったことも確証されました。

10日 特殊な遺跡の出雲

このように出雲の縄文遺跡もある程度まで確認されるようにはなりましたが、この時代、出雲が関東や東北の縄文文化と並立して縄文文化の一つの中心であったとまでは考えられません。遺跡や遺物がはるかに劣っており、やはり縄文文化の西日本における末梢文化的要素を示すといわざるを得ないでしょう。然し、山陰地方における縄文文化の中では、出雲地方のそれは注目すべきものであり、遺跡は数は少ないが、それぞれが特殊な遺跡であり、また出土遺物の中にも珍貴なものが多く、今後の研究に期待するところは大きいのです。

11日 出雲文化の安定性

出雲地方に縄文文化の発展をみるのは中期以降、特に後期の遺跡が多く、末期(晩期)のものはそのまま弥生時代へと自然の移行を示しています。これは、縄文から弥生への過渡期に、少なくとも出雲地方では、人種的・文化的交替が考えられないということであり、非常に重要な点です。とりわけ、縄文から弥生へのスムースな移行が、水人(あま)部族の文化としての海岸遺跡において顕著に確認できることは、文化の変化を解釈する上で重要な結果をもたらすのです。

12日

また、出雲の縄文文化遺跡の分布が、海岸地帯ち中国脊梁山岳地帯との二者に明確に分かれて分布している点は著しい特色の一つです。海岸地帯の遺跡は共通して漁撈生活者――水人部族のものですが、海産・淡水産の幸の豊かさによって彼らの生活の条件は充たされていたでしょう。そして、山岳地帯の遺跡は、脊梁山脈を越えて、山陽へと抜ける通路となる渓谷の山林部族のものですが、彼らは、栗林繁殖地帯に住み、鳥獣の狩猟とともに、豊富な植物果実の採集生活を営んでいたものと考えられます。ともに豊かな自然環境の中で、食料蒐集経済の段階の生活を、長い間ここで続けていたことが明らかです。

弥生時代の文化
13日 出雲の弥生文化の展開 弥生時代に入ると、弥生土器の出土地や石器の分布地域は相当な数にのぼってきます。
その種の弥生遺跡は洞窟遺跡のほか、海岸や湖岸の砂丘上の低標高地帯に立地しています。また平原・低湿地帯の遺跡の出現も既に前期に端を発しているようです。
14日

中期になると、遺跡は山岳地帯にも拡大されます。仁多郡横田町(かめ)(だけ)遺跡はその例です、また、八束郡鹿島町佐陀前遺跡からは中期の壷底が出土し、黒石づくりの環状(せき)()が特殊な遺物として伴出しています。出雲市知井宮町の多聞院貝塚も大和シジミを主体とする淡水産貝塚で、弥生中期から後期にかけての貝塚です。弥生後期の遺跡としては平田市関町猪目の洞窟遺跡が注目されます。

15日 出雲は銅剣・銅鐸文化圏

さらに、弥生文化を特色づける重要な遺物である青銅器についてはどうでしょうか。佐陀川河口の東2キロ余りの佐陀本郷志谷奥にある狭い谷の急斜面の遺跡には、二個の銅鐸と六本の銅剣(全部中細形銅剣C型)とが埋葬されてしました。この遺跡は、島根半島の高峰342メートルの朝日山の東麓にありますが、朝日山は「出雲風土記」に「神名(かんな)火山(びやま)」と記されている神聖な山で、「いわゆる佐太大神の社は、この山の麓にある」と説明されています。この聖地から剣と鐸とが埋収したかたちで伴出しました。また荒神谷遺跡でも銅剣と銅鐸が伴出しています。従って出雲は銅剣・銅鐸文化圏と銅鐸文化圏とが接触していた地域であると断言してよいでしょう。

16日 三角神獣鏡

また、注目すべき青銅器として、斐伊川の支流赤川左岸にある、大原郡加茂町の神原神社本殿の下にあった古墳(高さ6米、一辺30-35米の方墳で、内部主体は竪穴式石室)の副葬品で、景初3年、西暦239年銘のある三角神獣鏡があります。景初3年銘のある鏡は大阪府和泉市上代にある黄金塚古墳が知られていますが、共に重要な遺物です。神原古墳は出雲においては前期古墳とされています。

17日

前方後方墳
古墳時代の墳墓形式。方墳に前方部を付設した外形を呈し、前方後円墳とともにわが国独特のもの。

磨消縄文
縄文土器及び、弥生土器にみられる文様の一。土器の表面に縄文を施し、沈線で区画し、区画に応じて縄文をすり消す手法。また沈線で区画してから縄文を施して同じ効果をあげることもある。

18日

青銅期
日本では、紀元前200年頃、大陸文化の伝来によって出現、銅剣、銅鉾、胴戈などの種類がある。初め朝鮮から刃が鋭く実用的な細形銅剣や銅鉾、銅戈が銅鏡とともに北九州に舶載され、甕棺や箱式棺などの墳墓に副葬された。弥生後期初頭以後に国内で鋳造されたものは、祭祀用儀器及び宝器的性格が強い。
 

19日 出雲の弥生文化は北九州から海路直接に伝播 以上のような出雲国内の弥生文化跡から当時の社会状態を考えますと、まず弥生時代前期の遺跡が海岸地帯か湖岸に面した低地に限られていることから、そのころの集落は海岸・湖岸に沿って展開していたことが分ります。そして、海岸か湖岸の断崖の洞窟というような低湿地帯に全く縁の無い住居遺跡があり弥生文化と言ってもすべてが水稲稲作民の文化であるとは言えず、水稲民とともに、漁撈民・航海民という海部の民が多かったことが考えられます。即ち、それらの遺跡は縄文時代からの生活が引き続き営まれていたことを示唆しています。 註 三角遠神獣鏡(景初3年銘)
20日 出雲と瀬戸内の混淆文化 出雲における弥生中期の土器は、畿内及び瀬戸内に分布の中心が見られる中期弥生土器の代表的な櫛目文式土器です。このことから即断すれば、前期の弥生文化が海路で北九州から伝わったのとは逆に、畿内・山陽の弥生文化が脊梁山脈を越えて陸路で伝播したように考えられます。
21日 しかし、ひとしく櫛目文とは言っても出雲の中期初頭の櫛目文式土器には弥生土器の初期の様相(即ち先に述べた北九州系の初期弥生土器の様相)が漂っていても必ずしもそれが山陽方面からの文化伝播によるとだけは断言できないようです。
22日 そこで、私は、北海岸の島根半島部に展開した弥生文化が中期初頭には南の山地帯の盆地や渓谷地帯にまで広がっていった、それと同時に、瀬戸内沿岸から新しい櫛目文式土器文化が脊梁山脈を越えて出雲に入った、こうして出雲の山地帯が南進した出雲の弥生文化と北上した瀬戸内の弥生文化との接触地帯となり、両系統の文化がそこで混淆した、その結果、出雲の弥生中期の特にその初頭の櫛目文式土器は瀬戸内のそれとは微妙に違っているのだと考えるわけです。
23日 何れにせよ、瀬戸内と出雲との山地帯を経る南北交通路による文化接触は、中期を通じて活発化してきます。そして中期の後半から後期にかけ、出雲の文化をも含めて山陰地方の文化は山陽・瀬戸内の文化の影響を強く受容することになります。
24日 さらに、前期に於いて活発であった北九州との文化交流の影が薄れ、やがて後期弥生土器にみるように、文化が次第に広域に拡散され簡略化される傾向がこられます。
25日 土器を見ても、中期の終わり頃から後期にかけて櫛目文が簡略化され、凹線文や沈線文が施され、或は刺突文などの簡単で粗略な文様をつけるか、段々と無文化して、古式土師器への関連を示すような器形をとります。こうした文化の変化が大きな社会変化を示唆することは言うまでもありません。
26日 板付式土器
北九州前期弥生土器の一型式。福岡市博多区板付にある遺跡出土の土器を標準とする。弥生土器の最古の型式に属する。福岡・長崎・佐賀から山口県西部に分布している。
27日 立屋敷式土器
福岡県遠賀郡水巻町立屋敷にある弥生時代の集落址出土の土器。有文で、弥生前期の古式に属し、いわゆる遠賀川式の標準である。
28日 櫛目文
櫛歯状の施文具でつけた文様の総称。主として弥生時代にみられる。施文の方法や文様の種類に変化があり、列点文・平行直線文・波状文などに区別される。
29日 土師器
古墳時代以降、奈良・平安時代まで続いて製作された素焼の土器。弥生土器から直接続くもの。普通黄褐色で、陶土を水に溶かしてその粘土質の精粗を分けた粘土が用いられた。杯、高杯、壷、鉢、器台などの器形があり、文様は殆ど見られない。
30日 次項は8月1日より
31日 お休み