傘寿」記念特集   雲斎の「回想」その七人生とご縁と宗教  

平和22年7月                       「岫雲斎の回想」−−総括索引

 1日 人生は習慣の織物 人生は習慣の織物、躾の意義はこの良い習慣を幼児の時から養うことであろう。型の鋳込みが伝統的な近道である。そこから個性あるヒラメキが生ずる。 徳性と知能、そして良い習慣で自己を確立し禍福終始を知ることができるのではあるまいか、時既に遅く、わが身を顧みて恥入るばかりだが。
 2日 この世に言いおくこと一言もなし 「われは程なく浄土に帰るなり、この世に言いおくことは一言もなし」とは親鸞聖人が死に臨んでの言葉である。 阿弥陀仏に全てを任せきってあるので別に「言いおくこと一言もなし」と云われた。
 3日 充実した生き方は幸福な死をもたらす レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉。充実した一日はくたくたに疲れても満足感がある。 自分の能力相応の働きをしたら結果がどうあろうと「人生の充実」と評価すべきなのではあるまいか。充実した一生なら、どんな死に方をしても死に様は問題ならないのではないか。
 4日

春風(しゅんぷう)を以て人に接す

佐藤一斎先生の「言志四録」(言志録、言志後録、言志晩録、言志老至録)を鳥取木鶏研究会で輪読をやり抜いた。言志後録に「以春風接人(しゅんぷうもってひとにせっす)」がある。一齋先生はそのようなお方であったと学んだ。 春風のような和やかな態度で人に接しよう、和言愛語で人と応対しようということ、努めているが出来るようで中々出来ない思いがつのる。
 5日

真味(しんみ)(たん)なり

食べ物の本当の味は淡白(たんぱく)(あっさり)にあることを、菜根譚に「真味(しんみ)は、(ただ)(これ)(たん)なり」と教えている。この歳になると、人と人の交わりも淡が最高のように思える。 荘子に「君子の交わりは淡きこと水の如しだが、小人の交わりは(れい)(甘酒)にて、飲んだ時は甘くておいしいが、ねちねちした味が後に残る。君子のつき合いは、こだわりがなくあっさりしているから親しさが何時までも保てる。小人(しょうじん)同士の関係は甘さが烈しいから飽きて切れやすい」と戒めている。真味は滋味に通じている。
 6日 人間の本質 現役時代は地位学歴が気がかりだが、人間本来から洞察すると所詮、それらは本質的なものではなく、仮りの姿に過ぎないと分かる。お金があっても、地位が高くても、立派な学歴があっても、バブル崩壊時、人間の表皮に過ぎない、これら仮りのものが崩れ落ちた高位高官・政治家・財界人を数多く見てきた。その人達は表皮が剥がれてみて、 人間の本質を痛いほど知り、本当の人間とは、と噛みしめたに違いない。

学ぶとは単なる「知識や学歴・資格を獲得すること」だと思っては大間違いである。現代は資格社会であり、それらは経済的に大いに役立つ。然し、幾ら表皮を厚くしても、人間本質の自覚が薄いと上述のようなことになる。
 7日

表皮を追い続けた結果

享楽が手を変え品を変えて我々に迫っている現代、更に表皮ばかり追及して行くと、人間は幸福となるのか。それは極めて明白で、毎日、報道される殺人事件は、表皮のみ追い続けた結果であることを如実に証明している。 生活が享楽、安易になれば人間は次第に頽廃し堕落し遂にものを考えなくなって行く。ただ目先の利便、安易、快楽を追っかける。わが国の経済が発展し、世紀の奇跡とか言われていたが、いつの間にか危殆に瀕し、漸く立ち直ったと思いきや、人口減少による国力下降の大転機が迫っている。
 8日 精神奮起 経済的繁栄というものは曲者で、精神、道徳を伴わない繁栄は、必ず大きな失敗堕落を招いている。経済繁栄を自慢した日本人が、いつの頃からかエコノミック・アニマルなどと軽蔑され、やがてエロチック・アニマルになった。最近は社会の指導的立場の人々にその多発が出現した。 これらの人間劣化を乗り越えるには、どうするか。一つのことが抜けているからどうにもならない。それは、良心であり、正義というものではないか。日本人として、或いは一社会人として、良心を持つ、正義を持つ。こういう精神奮起がなければ個人も社会も自滅を免れまい。
 9日 享楽社会特有の現象が多発 いま日本人には良心・正義が歴史に見ないような頽廃に直面しており、特に正義の感動が失せてしまっている。だから日本の未来は重苦しい。内に享楽社会特有の現象が多発し、暗澹たる 雰囲気がたちこめてきた。我々は未来に対して進んで有責でなくてはなるまい。背骨をピンとして、下品になった政治の革新を要求し、みんなが最大公約数的希望の持てるようになれないものか。
10日 人間の本質的なものは何か

進歩したが純朴さも失わぬ地方、品性ある溌剌たる生徒や教員、ゆかしい国史や伝統を大切にする、健康で清潔な大都市、親愛に溢れる行政府・議員、このような日本に戻れないものか。それには、人間の本質的なものは何かということを、家庭も社会もしっかりと自覚することからではないか。

その人間の本質とは、「明朗・清潔・正直・同情・勇気・義侠・反省・忍耐等の徳性、これらが人間の本質」だと自覚することからではないか。能力のうち最も大切なものは知能だが、これらの徳性に比べると枝葉である。理解、推理、記憶、想像、注意力等は幼児の初期から発達するが、鍛錬しないと早くから停滞するのは明白であるがゆとり教育をする愚かさ。
11日 生ける者の哲学書 私はお経は生きている人間へのものでなくてはならない、お経は「生ける者の哲学書」であらねばならぬと、心から強く信じている。 もとより菩提を弔うことは当然であり、私は毎朝の読経は欠かさない。然し、死者の菩提を弔うだけでなんの益かあらん。生ある者が、死と日々対峙する媒体が仏典であらねばならぬと思っている。
12日 私の座有銘

禍福終始を知る」。
私の座有銘の一つ、「ソレ学ハ通ノタメニアラザルナリ。窮シテ(クル)シマズ憂エテ(こころ)衰ザルガタメナリ。

禍福終始ヲ知ッテ惑ハザルガタメナリ」。

荀子の言葉である。

13日 人間の能力で知能は最も大切だが学ぶのは通ぶる為ではない。
こうすれば、こうなる、ああすればああなるの古今の栄枯盛衰の理法を歴史や人物に学び、
苦しい時に憂うばかりで心の力を衰えないようし、惑うことのないようにする。私はこのように自戒し学問は歴史に極まると思っている。
人間の本質とは何かも考え抜いてきた。
14日 逆修(ぎゃくしゅ)

この逆は順逆の逆ではなく、あらかじめということで、生前のうちに自分の為の法事を修し、冥福を祈ることを言い、現在では、生前に戒名(法名)をもらったり、位牌や墓石を用意することも指す。

実は、私はもう10年前、菩提寺の檀徒総代をしていた時、戒名を妻のものと自分のものを考えて住職に依頼しそれを認めてもらい法事をした。位牌も作り本堂と自宅の仏壇に祀り日々勤行をしている。
15日

人間と言うものは本当に縁だなと思う。一粒の種をコンクリートの上に落としたものと、豊饒な土壌に落ちたものとでは極端にその種の運命が違う。

人間とて同様であり、父母やその祖先の色々のものを受け継いでいる。偶々直前の父母の現世的、物質的能力の違いにより子供も違ってくる。
16日 如何とも致し難い

これはどうにもならないし、誰の責任でもない、人間は所詮、生まれながらにして差別があるのだ。

また、そうだからと云っても、親の庇護を抜けてから遺伝的な能力を発揮して父母以上のこの世的栄華を極める人間も出てくる。如何とも致し難いのが人間だ。
17日

全ては人しだい

企業は人なりと同じ意味、これを空海さんは「物の興廃は必ず人に由る」と続性(ぞくしょう)霊集(りょうしゅう)で言っておられる。(ごう)は元来は仏教用語、則ちカルマであり善悪をひっくるめた人間の生活行為の総称である。 松原泰道師によると、企業の元の意味は、人間がどのような生活行為をしようかを(もと)むることだと言う。生き方、働き方、でありそれにより事業の盛衰が支配されると、理に適っている。
18日 人徳は麹 酒とか醤油を造るのを醸造という。醸は「かもす」ことであり穀類の醗酵作用を応用して、ジワジワと少しずつ自然に酒、醤油を造る。人徳も同じだという。 学識は無くても誠実と謙虚とが酵母作用をして、その人の生き方に深い味わいのある魅力を醸し出して人徳になると言う。
19日 人目につかぬ

醸造には直射日光を避けるように、人徳を醸すのにも、人目につかぬように、黙々と人間としてなすべきこ

とを誠実に積み重ねることだという。
今更ながら、よく分るではないか。
20日

人間の昇沈(しょうちん)

空海の続性霊集に「人の昇沈(しょうちん)(さだ)んで道に在り」とある、その意味は「人の浮き沈みもまた、教えの道を学ぶか否かで決まる」のだと松原師は言われた。孔子も「財を生ずるに大道あり」と大学で述べている。 大道は「人の歩むべき正しい道・根本道徳・真理を示唆し誰でもが通れる、また通るべき公道に通じ人の道を指している」。道を学ぶのは知識よりも、寧ろ人徳を身につけるのが主たる目的だ。大徳は、多くの人から敬愛される身についた品性(人柄)で、知識と大元が違うから学んで得られるものではない。
21日 はやきもの それは水の流れ、百代の過客、光陰などと書き連ねると大層な調べとなるが還暦と共に一市井人となりて過ぎ去りしここ十九年は矢の如しであった。
この間敬愛してやまないまだ若いと言える知人友人の死をただ呆然と然し厳粛に受けとめた。
悠々たるかな宇宙のことなどと思いを馳せていても天地自然の創造進化の必然は一刻の休みもなく粛粛と行われている。
人の生死の後先などはつかの間のことなのであろう。
22日 余裕のひととき 初夏のこと、とある昼さがりクラシックを聞きながら屋敷の庭をいじる。驟雨(しゅうう)に驚くがままよと濡れるにまかせるも冷えるので切り上げる。明るい浴室で暖かいシャワーは心地よい。衣を替えて実に爽快な気分で書斎に入る。机上には友より文きたる。急ぎ封をひらけば懐かしい数々が心を豊かにしてくれる。

持つべきは心の友なりとふと窓をみれば夕立は去り早や薄日がさしている。庭の樹木に眼をやれば雷雨は雨滴となり青葉、青葉を伝わり落ちて時折キラッと露光る。思わず硯を持ちて受けとめたい衝動が湧く。五滴六滴で海は既に満潮。落ち着いた心で墨をする。友への筆をとる。陽はまだ高い。

23日 微妙なるもの

人間の暮らしとか営みには微妙なるものがある。自然で素朴なのがよい。現代諸悪の根源は成長至上主義にある。人物育成も経済も追求が余りに急すぎた。組織の自己増殖の過程でそれを失ったのであろう、現代人の悲哀が聞こえる。

微妙なる営みの中に人間らしい含蓄、風韻が生まれる。その為には発酵と熟成の時が要る。
それには自然になることよ、虚を以て養うことよとの内なる声が囁き呟く。
24日 失いて知るもの 若さとは何と素晴らしきものか。未来がある。いのちが溢ふれている。万金のカネ地位など比較にならぬ。若さのさ中はその価値に気づかない。 失いて初めて知る。加齢と共に父も母も失い友も失ってゆく。老齢になり健康も一つ二つと失ってゆく。それが生けるものの定めだと沁々と知る。
25日

師と友と

近年日本の古きものに一段と関心を深める。人間は加齢と共にルーツを求めるのであろうか。自分を産み且つ育てた大自然への愛着。友なる山川草木。そこに生まれる生きとし生けるものへの熱い眼差し。人間は皆同じと言う連帯感。どんなお方も人生で尊いものを學んでおられる。 人間互いに師であり友であると切に思う。人間の表層に付着する世俗的なものは一過性に過ぎぬ。
これに囚われるとものの本質を見失う。
人間の在り方の基本は恭倹であり慎独だよとおっしやった安岡正篤先生の俤の浮かばぬ日はない。
26日 究極の悟言 先般阪急車中で無心に読んでいる老婆に驚嘆する。近来、苦心探求中の正法眼蔵ではないか。日本の庶民はレベルが高い。仏教に関心を以て久しいが般若心経は高神覚昇師で自分なりのものとし朝の読経は懈怠ない。東大寺元管長の平岡定海師が二月堂ご住職の頃、般若心経の中から所望通りに揮毫して頂いた私の究極の悟言を軸にした
(しん)()(けい)() ()(けい)()() 無有(むう)恐怖(くふ) 遠離(おんり)一切(いっさい)]である。
一切は心より転ずと頭で理解していても解脱は至難である。只管打座(しかんたざ)もせず身心(しんじん)脱落(だつらく)出来る道理はない。

まさに(めい)()は我にありだ。そこにさる高僧の話で多少安堵する。
曰く、成仏とは生きて悟る即ち人間らしい人間になる事だと。
今からでも遅くはあるまい。来たるべき日までの一日一日を修業と心得たい。 
27日 生きてこそ


密かに思う。迫りくる更なる老いと旅の終わりを。人生への諦観が自然に深められ静かな心で迎えたいと。大河への合流が自然であれと。身は大自然に還るとも心事は留めたいとも。そして静かに人知れずお暇乞いをとも願う。瞬間は自他も時空も越えたまどろみの中であろうか。

母なる大自然に同化される日まで、生かされる日々を生き生きて生きたい。往生(おうじょう)一定(いちじょう)なるが故に生きてこそ日々(にちにち)(これ)好日(こうにち)でありたいと願う。

28日

現世の救いは

仏教に関心を持って久しい。智者の振る舞いをせずただ南無阿弥陀仏を唱うればお浄土にいけると仏典にある。鎌倉戦国時代の民衆は飢餓と戦乱でこの世は地獄であった。お念仏を唱え来世に託すしか救いはなかった時代と異なり現代の民衆に果たしてそれだけで現世の救いとなり得るか。 鎌倉時代のように民と共に生き、共に苦しみ、生きる道の見本を示す祖師のような実践者もいない現代である。現代の衆生を救うには多少の理、ことわりが必要と思える。その理の向こう、人間の最晩年には間違いなく南無阿弥陀仏のみの境地があるとは確信するが。
29日 現代宗教に無いもの 然し、青壮年期のこの世の生きる戦いの最中に南無の帰依のみで生きる支えとなり得るか。そういう意味で理のある救いをと私は多年にわたり求め続けてきた。第一、阿弥陀仏は西方浄土の盟主、即ちあの世の仏さまだ。あの世に行く時にお願いするが、この世では現世の仏様に導いて頂きたいと思って少しも不思議はない。 飢餓と戦乱の時代は現世を絶望の末、来世の浄土を祈念するしかなかった。人間は現世を精一杯、誠実に生き抜くことが自ずから来世のお浄土に繋がって少しもおかしくはない。現世の導きと、衆生と共に生きる道の範を示す事こそ現代宗教者の真の目的であらねばなるまい。これらの答えが現代宗教に無いように見える。
30日 色は匂へど散りぬるを 仏教の核心に触れたいと思い続けてきた。仏教の基本原理は「三法印(さんぽういん)」、「四聖諦(しせいたい)」、「十二(じゅうに)縁起(えんぎ)」、「(くう)」と言われる。空海が作ったと言われる、いろは歌は涅槃経(ねはんきょう)諸行(しょぎょう)無常(むじょう)を、いろはで表現した日本の傑作である。 「色は匂へど散りぬるを」-桜花爛漫もこの世の栄華も人間も、文明さえも平家のように必ず滅びる。

「わがよたれぞつねならむ」-我が世誰ぞ常ならむ-これは是生(ぜしょう)滅法(めっぽう)-この世には常なるものは無い、宇宙の本質は変化である。
31日 「うゐのおくやまけふこえて」 有為(うい)の奥山今日越えて-あるゆる存在、因縁により作られたものを越えるとは因縁の道理に目覚めること、この世の存在を不変と見ずに因縁により生起(せいき)したと見る-これは生滅滅(しょうめつめつ)()「あさきゆめみじゑひもせず」-人生は、今日は今日のみの一期一会(いちごいちえ)と見る。寂滅(じゃくめつ)()(らく)である。 諸行(しょぎょう)無常(むじょう)諸法(しょほう)無我(むが)涅槃(ねはん)寂静(じゃくじょう)が仏法の真理のしるしの三法印である。

すべてのものは無常であり、無我であると悟り執着を断った処に平安な境地が訪れるという事であろう。