春日老と妹背の山
平成20年7月度
| 1日 | つらつら椿 | 
      私の、とても好きな歌がある。 「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を」 坂門人足 万葉集 巻1−54  | 
      私の紀伊半島縦横のコラムの通り、熊野本宮大社を目指す、大峰奥駈道、熊野古道の小辺路、中辺路、大辺路、伊勢路と総て私の足で隈なく歩いた。巨勢もその紀伊半島にある。 | 
    
| 2日 | 古代の道 | 
      万葉の頃、大和から紀伊へ行く道はどうであったか。藤原京、或は飛鳥から現在の近鉄吉野線に沿い、 | 
      に出る。更に | 
    
| 3日 | 巨勢 | 
      
       御所市古瀬は、古代にはその一帯を巨勢と言った。  | 
      その折、供奉の一人、坂門人足の歌が「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつしのはな 巨勢の春野を」 万葉集巻1−54である。  | 
    
| 4日 | つらつら椿二首 | 
      坂門人足の歌は、秋9月だから椿は咲いていない。今は秋だが、巨勢の春野はどんなにいいだろう、想像して偲んだ歌である。 | 
      万葉集 巻1−56には、春日老が「河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は」と坂門人足より前に歌っている。 | 
    
| 5日 | 歌枕化した巨勢 | 
      
       「つらつら椿 つらつらに」、音調が頗る気持ちいい。旅での楽しさの陶酔感がある。「点々と連なり咲く椿の花」である。この音調の良さが宮廷間にいい伝えられたという。  | 
      春日老の歌は、大きい影響を与え、巨勢は歌枕と化し、この坂門人足の歌を作る原動力になっていたと想像されている。 | 
    
| 6日 | 列々椿 | 
      
       巨勢は近鉄吉野口付近JR線とに挟まれた一角に昔、巨勢氏の氏寺であった巨勢寺塔心跡の礎石がある。現在も落椿は見事なものだ。元来この巨勢  | 
      
       谷は椿の生育に適してヤブツバキの生垣もある。吉野口東方の阿吽寺には六十種の椿を集めている。「列々椿」と書かれているのもある。  | 
    
| 7日 | 春日老 | 
      
       もとは僧弁基という者で大化元年3月還俗、和銅7年正月、従五位を授けられた。懐風藻には従五位下常陸介とあり年五十一とも見えているから  | 
      やがて没したであろう。 万葉集には、短歌八首があり、地名十一と地名に密着する度合いの多い歌人である。  | 
    
| 8日 | 待乳山 | 
      
       巨勢谷の奥の重坂峠を越えた所に待乳山はある。巨勢からこの山の山頂までは約16キロ。  | 
      落合川が流れているが、神代の渡り場がある。当時この山の山頂が国境であったと言われる。 | 
    
| 9日 | 春日老の歌 | 
      「あさもよし 紀へゆく君が 信土山 越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね」 巻9−1680 「橡の 衣解き洗ひ 又打山 もとつ人には なほ如かずけり」  | 
      
       「いで吾が駒 早く行きこそ 亦打山 待つらむ妹を 行きて早見む」   | 
    
| 10日 | 
       石上乙麻呂卿の土佐に配さえし時の歌三首  | 
      「石上 布留の尊は 手弱女の 惑によりて馬じもの 縄とりつけ 鹿猪じもの 弓矢囲みて | 大君の 命かしこみ 天離る 夷辺に退る 古衣 又打の山ゆ 還り来ぬかも」 | 
    
| 11日 | その二 | 
      「大君の 命恐み さし並ぶ 国に出でますや わが背の君を かけまくも ゆゆし恐し 住吉の 現人神 船の舳に 領き給ひ 著き給 | はむ 島の崎崎 依り給はむ 磯の崎崎 荒き波 風にあはせず 草づつみ 疾あらせず 急けく 還し給はね 本の国辺に」    巻6−1020 1021  | 
    
| 12日 | その三 | 
      「父公に 吾は愛子ぞ 母刀自に 吾は愛児ぞ 参上る 八十氏人の 手向する 恐の坂に 幣奉り 吾はぞ追ふ 遠き土佐道を」巻6−1022 | 
      
       「大崎の神の 小浜は狭けれど 百船人も 過くどいはなくに」          | 
    
| 13日 | 又打、亦打 | 
      峠の山として聞えていたこともあり、又打、亦打が、砧で再生する意味を持つという。 | 
      「衣解き洗ひ 又打」と言い、「古衣 又打の山ゆ」の如く又打、亦打の山の名に新鮮な再生整備の心地よさを感じていたという。 | 
    
| 14日 | 妹と背の山 | 
      橋本市隅田から南海道は紀ノ川右岸に沿い | 
      ては、妹背ふたつ並ぶ山容は旅人の何よりの魅力と安堵であったのではないか。この妹と背の山にかけて、万葉集中、十四首の歌が集中しているという。 | 
    
| 15日 | 妹・背の山の歌 | 
      「人ならば 母の最愛子ぞ あさもよし 紀の川の辺の 妹と背の山」 巻7−1209  | 
      
       「我妹子に わが恋ひ行けば 羨しくも 並び居るかも 妹と背の山」  | 
    
| 16日 | 古代人の思い | 
      「大穴道 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも」 巻7−1247  | 
      大国主の神、少名彦神の作られたものと、神秘を感じたのであろう。 | 
    
| 17日 | 詔にも | 
      「これやこの 大和にしては 吾が恋ふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山」   巻1−35 | 
      世に聞こえていたのであろう。孝徳紀、大化2年の詔に「越勢能山時、阿閉皇女御作歌としてある。 | 
    
| 18日 | 旅人の郷愁 | 「背の山に 直に向へる 妹の山 言許せやも 打橋渡す」 巻7−1193  | 
      「妹に恋ひ わが越え行けば 背の山の 妹に恋ひずて あるが羨しさ」 巻7−1208  | 
    
| 19日 | 問答 | 
      丹比真人笠麻呂が背の山を越える時の歌 「栲領巾の かけまくほしき 妹が名を この背の山に かけば如何にあらむ」 巻 3−285  | 
      
       同行の春日老は即座に答えて応酬した。  | 
    
| 20日 | 春日の歌 | 
      「三河の 淵瀬もおちず 小網刺すに 衣手ぬれぬ 干す児はなしに」 巻9−1717  | 
      
       「照る月を 雲な隠しそ 島かげに 吾が船泊てむ 泊知らずも」    巻9−1719  | 
    
| 21日 | 春日蔵首老の作れる歌 | 
      「在嶺よし 対馬の渡 海なかに 幣取り向けて 早還の来ね」 巻1−62 | 
      「つのさはふ 磐余も過ぎず 泊瀬山 いつかも越えむ 夜は更けにつつ」 巻3−282 | 
    
| 22日 | 固有名詞 | 
      「焼津辺に 吾が行きしかば 駿河なる 阿倍の市道に 逢ひし児らはも」 巻3−284  | 
      固有名詞をふんだんに歌に入れているのが春日老の特徴のようである。 | 
    
| 23日 | 聖武天皇の神亀元年十月、和歌の浦行幸の時、笠金村の歌 巻4−543  | 
      「大君の行幸のまにま物部の 八十伴の雄と 出で行きし 愛し夫は 天飛ぶや 軽の路ゆ 玉だすき 畝火を見つつ あさもよし 紀路に入り立ち真土山 越ゆらむ君は もみち葉の 散り飛ぶ見つつ |  親しみ 吾はおもはず 草まくら 旅を宜しと おもひつつ 君はあらむと あそそには かつは知れども しかすがに もだ得あらねば 吾背子が 行のまにまに 追はむとは 千たびおもへど 手弱女の わが身にしあれば 道守の 問はむ答を 言ひ遣らむ 術を知らにと 立ちてつまづく。 | 
    
| 24日 | 反歌 | 
      「後れいて 恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを」 巻4−544  | 
      「吾背子が跡ふみ求め追ひ行かば紀の関守い留めてむかも」 巻4−545  | 
    
| 25日 | 調首淡海 | 
      
       大宝元年、持統・文武白浜行幸の時、調首淡海  | 
      「あさもよし 紀人ともしも 亦打山 行く来と見らむ 紀人ともしも」 巻1−55 | 
    
| 26日 | 
       落合川の渡り場では  | 
      「白妙に にほふ真土の 山川に 我が馬なづむ 家恋ふらしも」 巻7−1192  | 
      異郷の山に、「ともしも」と言う憧憬心を表した気持ちが見られる。 | 
| 春日老はこれにて完 |