「天皇」 最高の危機管理機構 2  佐々淳行氏 

平成23年7月度

 1日 承詔必謹(しょうしょうひつきん)」ということ 占領軍・マッカーサー元帥は、同年92日に厚木飛行場に降り立った。マッカーサーが東京に入る沿道には警察官が等距離に並んで警護に当たったが、一発の銃声も聞くことなく騒乱も見当たらない状況に、連合軍は驚嘆したという。国家危機管理の機関として、天皇陛下の威光が燦然と輝いた瞬間であった。
 2日 御聖断の御威光

むしろ、連合軍総司令部の職員たちは、ついこの間まで特攻攻撃をかけて肉弾戦も辞さずと眦を決して向ってきた日本がこんなに静寂なのはおかしい、と恐怖心を押さえられなかったようだ。占領軍の検閲を緻密に分析した江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」には、その時のことが詳しく書かれている。以下、その一部を引用する。

 3日 全国民が余りにも冷静

昭和219月、逐次占領を開始した米軍の前で、日本人は殆ど異常なほど静まり返っていた。連合国記者団の第一陣として東京に乗り込んできたAP通信社のラッセル・ブラインズは、「全国民が余りにも冷静なのに驚いた」と告白している。 

 4日 米軍は一挙に殲滅かと疑惑

だが、「驚いた」のは何もブラインズだけではなかった。実は占領軍自身が、全ては「巨大な罠」ではないかと疑っていたのである。この沈黙が解けたとき、俄に血の雨が降り、米軍は一挙に殲滅されてしまうのではないかと」。

 5日 占領政策

こうした認識の下で、「潜在的な敵」と位置づけた日本人に対する占領政策がより徹底して行われることになったのは皮肉としかいいようがない。占領軍は真っ先に広島県・呉に乗り込んで「回天は、まだどれくらいあるのか」と問い質した。

 6日

神風特別攻撃隊とともに彼らをノイローゼにさせた人間魚雷・回天がどこかに隠れていて、占領軍の軍艦めがけて突進してくるのではないか、という思いが払拭できなかったようだ。

 7日 想像出来なかった
承詔必謹

彼ら占領軍は「承詔必謹(しょうしょうひつきん)」、(みことのり)を承りては必ず謹め、という日本人の鉄則を知らなかった。一枚の降伏文書で、徹底抗戦の姿勢が消え去るとは俄には信じられなかったのであろう。例え知識として、そうした日本の国家体制や民族性、精神性を把握していたとしても天皇陛下の詔勅にそれほど徹底した統率力があるとは想像出来なかったに違いない。 

 8日 日本を解体を目論む

そして、彼らは、日本人のバックボーンたる(皇統と靖国と教育)を潰さなければ潜在的な敵・日本を解体できないと考えるに至った。

 9日 跡継ぎ問題の発端

結果的に、皇室は存続を許されたものの、その藩屏たる皇族に大きくメスが入れられた。即ち(じき)宮家(みやけ)(秩父宮・高松宮・三笠宮)を残して、それ以外の11宮家の皇籍を剥奪した。皇族の森を刈り取って4本の木だけにすれば、やがて立消えになる、というわけだ。この占領政策が、今日の皇室をめぐる跡継ぎ問題の発端になっている。 

10日 御巡幸

強権をもって敗戦国・日本に乗り込んだGHQだったが、彼らの予想が大きく外れる事態が起こる。それが天皇陛下の御巡幸だった。 

11日 GHQの計算は裏目に出る

GHQが陛下の御巡幸を認めたのは、焦土と化した国内を回れば疲弊しきった民衆の怨嗟の声が天皇に向ってぶつけられるに違いない、という計算があった。しかし、この予想と計算は裏目に出る。

12日 「また来るよ」 御巡幸は、昭和21219日、神奈川県・昭和電工を皮切りに、同298月の北海道まで、述べ33000キロに及んだ。何度もソフト帽を脱いで会釈されるために陛下の髪が乱れることもしばしばだった。
13日 通々浦々に足を運ばれた

休む宿がないために車中や船中泊になり食事も入浴も十分にとれない状況であっても、それを厭うことなく日本全国、通々浦々に足を運ばれた。傷病兵や原爆患者を収容した病院や、戦災孤児や引揚者収容施設、開墾地、漁港、農村、炭鉱、工場、学校など、ありとあらゆる所を巡幸された。 

14日 また来るよと孤児に

昭和24年、佐賀県・洗心寮を巡幸され、両親の位牌を持った子供には「おさみしい?」と声をかけられて頭を繰り返しなでられ、車に戻ろうとした陛下の洋服の裾を離さず、車までついてきた孤児に「また来るよ」と声をかけられた。日本全国は、この御巡幸を通して感動のうねりが復興の原動力となった。

15日 ヴ・ナロード

この昭和天皇の御巡幸は、暗殺や暴行の危険に満ちた勇気あるヴ・ナロード(人民の中へ)だった。共産党や左翼過激派の反皇室闘争は、「天皇制打破」を呼号し暴力的な天皇制打倒行動を繰り返したが、国民の天皇に対する尊崇の念は揺るがなかった。

16日 御稜(みい)()

私は昭和50年、昭和天皇御在位50周年に行われた第30回三重県国体の警備をつとめた三重県警本部長をつとめたが、伊勢神宮御参拝をはじめ全行程を直近で警備の任に当たった。沿道に集う何万という善良なる三重県民が恰も稲の穂が吹き渡る風に靡いてひれ伏すようにも誰も号令もかけず、合図もしないのに昭和天皇のゆくところ自然に頭を下げてお迎えする状況を、行幸の行き先全てで目のあたりに見て、天皇を50年間それた方の御稜(みい)()はこれかと感じ入った。

17日

昭和天皇は、大正天皇御不例(ごふれい)の間、摂政宮(せっしょうのみや)をつとめられたが、摂政宮の暗殺を企てた、難波大介の虎ノ門事件」があった。

18日 北面(ほくめん)武士(ぶし)

北面(ほくめん)武士(ぶし)」皇宮警察や警視庁の警衛課など、戦後の全国御巡幸のすべての訪問先で身辺警護に命を(かんな)で削るような思いで天皇を守った。

19日

昭和天皇は、この警察の苦労を深く理解され、常に御嘉賞(ごかしょう)のお言葉を賜り、決してお叱りになることはなかった。の時、陛下は多くの御製を詠まれててるが、以下は、そのうちの二首である。 

戦の わざわひうけし 国民を      おもふ心に いでたちて来ぬ 

海の底の つらきにたへて 炭ほると  いそしむ人ぞ たふとかりける

20日 先帝陛下終生の心残り

そして、この時、沖縄県を御巡幸できなかったことが、先帝陛下終生の心残りとなる。
思わざる 病となりぬ 沖縄を

たづねて果さむ つとめありしを

こうして、昭和天皇の御巡幸が契機となって、日本全体が復興に向けて立ち上がっていくが、これと同様のことが平成57月に起こる。

21日 天皇陛下が来られる これは、海上自衛隊の幹部だった落合o(たおさ)氏から聞いた話である。落合氏は昭和206月、沖縄戦を最後まで指揮した末に「沖縄県民、斯く戦へり。後世、格別の御高配あらんことを」と海軍次官宛て打電した後、海軍司令部壕で自決した大田実海軍中将の三男である。
22日 ペルシャ湾掃海作業

寄り道をお許し頂いて、落合氏についてもう少し言及すれば、平成3年、落合一佐は湾岸戦争停戦後のペルシャ湾掃海作業「湾岸の夜明け作戦」の指揮官を務めた。

23日

時の海部政権は、130億ドルに上る資金援助を行った。しかし、「カネだけだして汗も血も流さない」日本への国際社会の風当たりは厳しく、最後の最後になって、漸く内閣が海上自衛隊掃海艇の派遣を決断した経緯があった。

24日

海上自衛隊の掃海艦が1月半かけて現地に到着した頃は、世界各国の海軍掃海艇は既に掃海作業を終えて帰国した後だった。ペルシャ湾には最も困難で危険な場所の機雷しか残されていない状態だった。

25日

日中50度に達する炎天下の中、連日14時間の三交替勤務をこなして、海自の掃海部隊は1200個全ての機雷を無事故で処理し、米海軍から最高の賛辞を贈られたのである。

26日 落合海将補

さて、話を戻して、平成57月、落合海将補は、津軽海峡で掃海作業の訓練を指揮した。将にその時、死者230人、全半壊家屋1000棟を越す北海道南西沖地震が発生した。落合海将補は「そのまま奥尻島に向い、復興支援に従事せよ」という指令を受けて、奥尻島に向かう。

27日

しかし自衛官が復興支援を行って励ましても、また地元選出の衆院議員が派手なパーフォーマンスで激励に訪れても、震災に打ちのめされた島民は一向に立ち直ろうとしない。

28日 天皇陛下が来られる

「どうしたものか」、落合氏は頭を抱えた。処が、ある日を境に、も抜けの殻のように終日、道端に座り込んでぼんやりしていた島民が急に元気を取り戻したのである。それが、「天皇陛下が来られる」という知らせだった。

29日

島民たちは、全国から送られた支援物資の衣料品の中から自分に合う洋服を探して周囲の片付けを開始し行幸の日に備えた。

30日 島は、一気に客気を取り戻した

島は、一気に客気を取り戻した。そして震災から二週間後、今上陛下の行幸がなされたのである。

31日 日本人のDNA 落合海将補は、その変化を目の当たりにして、日本人のDNAに受け継がれる「(すべらぎ)との(きずな)」に深い感銘を覚えたという。