箸墓伝説から解く古墳出現の謎
平成26年7月
1日 | 箸墓伝説 |
箸墓古墳が崇神王朝と関係したものであることは、「日本書紀」中のいわゆる箸墓伝説からも窺い知れます。崇神紀10年9月の条に記されている箸墓伝説。ご存知の方も多いと思います。少し長くなりますが、この話の全文は次ぎのようなものです。 |
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2日 | 大物主神との関係 |
そこで、倭迹迹日百襲姫命は夫である大物主神へ「あなた様は決して昼間はおいでにならない為、お顔をはっきり見ることができませぬ。今夜はこのまま留まられて、明朝、その麗しいお姿を見せて頂きたく思います」とお願いしたのです。大物主神は、これに「そのように言われるのは尤もです。私は明朝、あなたの櫛入れの箱に入っていることにしましょうか。けれども、私の姿に決して驚かないで下さいよ」と応えます。 |
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3日 | 三輪山とむ深い関係 |
大物主神は、これに恥じ入るように忽ち人間に変身し、妻に言います。「私はあなたの気持ちがよく分るので、恥を忍んで自分の本来の姿をお見せしたのです。」と。そして、大物主神はそう言い終わると、大空を飛んで三輪山へと上っていかれたのでした。 |
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4日 | 昼は人、夜は神が造った墓 |
倭迹迹日百襲姫命はそれを見て、我に帰って後悔し、その場にへたりこんでしまわれましたが、その時、箸で陰を突いてしまわれ、亡くなられます。亡骸は大市(現在の |
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5日 | 二上山の石 |
墓は大坂山(奈良県北葛城郡二上山の北にある山)の石を運んで造られましたが、山から墓に至るまで人民が列を作って石を手渡しにして運びました。 |
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6日 | 箸墓伝説が語るもの |
「日本書紀」の「崇神紀」中の箸墓伝説は、「古事記」では「崇神紀」に見える三輪山伝説の部分に該当するとみられています。 |
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7日 | 三輪山伝説との共通性 |
三輪山伝説は、活玉依毘売(倭迹迹日百襲姫命に該当)が夜訪れる未知の恋人によって妊娠させられた時、相手の素性を知ろうと環状に巻かれた麻糸を通した針を男の裾に刺しておいたた処、翌朝、糸環は三輪が残っているだけで、糸先は鍵穴を通って三輪山の神社へと続いていた。そこで、その地は三輪と呼ばれるようになった、という地名説話として語られるものです。 |
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8日 |
いずれにせよ、夜訪問してくる未知の恋人との情交、そしてその未知の恋人の探索話と、その正体の意外性(多くの場合は人間ではない)、妊娠して出来た子供は神の子・・・という伝説は朝鮮、蒙古にも見られ、そうした物語はユーラシア大陸の北半から北米大陸にかけて見られる太陽(妹)が月(兄)に恋する物語のモチーフの変形ではないかという説があります。 |
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9日 | 三輪山が王権と密着した聖地 |
こうした神話伝説の分析から、古代大和政権の文化的質、その民族的な由来というものがある程度は推測できるかもしれません。ただ、私が今ここで述べておきたい事は、箸墓伝説や三輪山伝説に限らず、「崇神紀」・「崇神記」にみられる神霊が憑く姫(活玉依毘売の名の意味)や崇神天皇と三輪山の深いつながりを感じさせる説話などから、崇神王朝においては三輪山が王権と密着した聖地であったと見られることです。 |
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10日 | 崇神王朝は三輪王朝 |
恐らく、崇神王朝は三輪山付近を根拠地とした政権であり、三輪山の祭祀権を中核とした呪教王朝という性格を持っていたと考えられることができます。こうした考えから崇神王朝が三輪王朝と言われることもあるのです。 |
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11日 | 箸墓の構築説話 |
さらに、箸墓伝説や三輪山伝説、或は「崇神紀」や「崇神記」の記述から推測される崇神王朝の性格という問題にからんで、いまここで特に注目したいのは箸墓伝説の後半部、箸墓の構築説話です。 |
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12日 | 箸墓構築説話にみる神の協力 |
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13日 |
恐らく、人々はいかに工事を目撃しても、いわば山が一つ造りだされたような大型の古墳の出現をとても人間業のように思えなかったのでしょう。また、古墳は死者を葬った墓というよりも、古代人にとっては神聖な霊域であったと考えられます。そうした背景があればこそ、神が古墳の造営に協力されて何の不思議もないという感じ方がなされたと思われます。 |
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14日 | 大和政権を支えていた大物主神と深い関係 |
さらに、「神の協力」が語られたのは、古墳に葬られる人物が生前から神と密接な交渉のあった人で、その人の為に立派な古墳を造ることによって神威が高められるという見方があったからだと思われます。即ち、箸墓古墳でいえば、女性司祭者である倭迹迹日百襲姫命は死んだことによって神の一員となると観念それると同時に、その倭迹迹日百襲姫命の神霊を祭る古墳が立派であるほど、倭迹迹日百襲姫命が生前祭っていた神、例えば大和政権を支えていた大物主神という国の守護神をも敬うことになり、神威も高められる、そうした古墳の造営には当然、神の協力も期待できる、というような観念があったと考えてよいでしょう。 |
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15日 | 註 大物主神 |
大国主命の和魂で、奈良県大神神社の祭神。 |
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16日 |
三輪山伝説 |
神婚伝説の一。神が人間の娘に妻問いに通い、神の衣服をつけた糸などを頼りに娘は男が神である事を知るといいう型をとる。多く神は蛇身であるが、矢に化ける話もある。記紀の三輪山の大物主の話が典型。 |
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17日 | 蒙古 |
中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。 |
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18日 | ユーラシア 北米大陸 |
ユーラシア |
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19日 | 祭祀権の統制によって勢力を拡大した崇神王朝 |
古墳は、権力ある司祭者的首長クラスの人物の神霊を祭るものとして造営されていたと考えられます。それが大型で立派なものであるというのは、権力の大きさを誇示すると同時に、そうした立派な古墳を造ることで神の加護を得られるという発想があったからに違いありません。ちなみに、こうした古墳の聖域としての性格は、古墳の形に現れているとされます。つまり前方後円墳であれば、後円部に亡き首長が葬られていて、後継者である首長は前方部において亡き王の神霊を祭り、その神霊を身に受けることによって王としての地位を確かなものにしていたのだという考え方があります。こうした古墳の理解の仕方は基本的に正しいものと思います。 |
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20日 |
然し、古墳が神霊と深く結びついたものであり。司祭者的首長の神霊を祭るものが古墳であったと見られるとは言っても、それを以て例えば崇神天皇が自ら神を祭り、神託を受けて国を統治していたと言うわけではありません。 |
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21日 | 崇神王朝は各部族の司祭者たる首長たちの祭祀権を統制 |
崇神天皇は天照大神や大物主神の祭祀を自ら司ることをやめて、祭祀は他の人に委ねて自らはそうした実際上の司祭者たちを指揮する立場に立っています。 |
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22日 |
古墳分布の拡大 |
大和には箸墓古墳のほか、前期の古墳と見られるものが多数あります。 西殿塚古墳(全長230米)、茶臼山古墳(207米)、メスリ山古墳(230米)、渋谷向山古墳(310米)、行燈山古墳(240米)があるばかりでなく、いくつかの大型古墳群もみられ、単に崇神王朝時代の王権の強大さを誇示しているだけでなく、王朝内部における氏族間の確執というような事態もうかがわせています。 |
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23日 | また、規模としては大和のものほどではなくとも、前期には畿内を中心に、瀬戸内、北九州にもみられ、前期後半の頃になると関東、東北南半、加賀、能登地方にも分布が拡大していきます。 |
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24日 | 崇神王朝の本州西半の統一 |
このように第三世紀末から第四世紀初頭前後を境目として全国各地に統一規格(前方後円墳や前方後方墳など)の古墳が造られていくのは何故なのか。これは、明らかに大型前方後円墳を造った大和政権の支配地域が拡大し、その古墳文化が何らかの強制力を伴って支配地域や隣接地域に広がったからとみられます。 |
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25日 |
然し、こうした古墳分布の拡大を以て、崇神王朝の権力が絶対的なものであったとすることは出来ません。 |
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26日 |
連合・同盟の関係であったかどうかは兎も角、吉備や出雲の勢力が原大和国家に統合された後もかなりに勢力を温存していたことは間違いないでしょう。そうした点では、次ぎの仁徳王朝の時代である中期、第五世紀に入ってからの前期をはるかに凌ぐ巨大古墳の出現、爆発的な大型前方後円墳・前方後方墳の全国拡大を見れば、崇神王朝は仁徳王朝ほどにはまだ強大な王朝に成長していなかった事も窺われるのです。 |
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27日 | 巨大古墳の例 |
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第28講 仁徳天皇稜と古墳黄金時代 |
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28日 | 仁徳王朝の巨大古墳 |
世界一の古墳を二つも造った仁徳天皇 仁徳王朝の天皇の実力が非常に大きなものであったことを的確に証明しているのは、仁徳天皇とその父親である応神天皇の陵墓です。 |
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29日 | 仁徳王朝の実力は一目瞭然 |
仁徳天皇の陵墓と伝えられているのは、和泉国、 |
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30日 | 世界一の古墳 |
両古墳は第五世紀の中期古墳ですが、中期古墳の中でも最大の古墳であるというばかりか、今日知られている墳墓の中では、容積・面積の点で夫々世界一の古墳なのです。それただけでも、仁徳王朝の権力の絶大さは理解できますが、さらに驚くべきことに、この両古墳を造営したのは一人の天皇・仁徳天皇であったと見られることです。 |
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31日 | 応神天皇は、狗奴国王 |
即ち、応神天皇は、狗奴国王であり、大和は浪速の地においでになれず、九州日向におられたと考えられます。ですから御陵もそちらにあって然るべきなのですが、実際には河内国にあるわけです。この理由として私は、仁徳天皇が浪速に都を移してから、父親である応神天皇自身が生前に自分の御陵を造った(いわゆる寿陵)事は「日本書紀」に記されていますから、仁徳天皇は一代で二つの巨大古墳を構築したと考えられるわけです。恐らく仁徳天皇は自分の墓を造るとき、その造営と前後する時期に父親の陵墓を改めて新来の河内の国に造ったのでしょう。そうした経緯は、地図の上で仁徳稜と応神稜が東西を結ぶ一直線上にあること、地形的にも距離的にも非常に近接していることなどからも窺い知れます。 |