明治神宮鎮座百年祭 

令和2年11月1日であった。

大東京の鬱蒼たる100年の明治神宮の森。

世界でも珍しいゼロから作られた人工の森だ、

全国各県から10万本の献木植林によるものだ。

森林造営は地方から上京した若者の手によるが
11万人と言われる人々の奉仕であった。

「森林造営参加は我が家の末代までの又参加者個人終生の栄誉であり
子々孫々に至るまでの記念たるべき慶事」と喜んで奉仕したのだ。

日本の近代と共に歩んだ「豊穣な森」である。
今でも「清正井戸」から湧水がこんこんと流れている。

人口の大森林。世界でも珍しい。東京都だけでなく日本人の精神的
シンボルでありましょう。

明治の森は70万坪、鬱蒼たる内苑、明治人のスケールの大きさ感じます。

明治天皇は、世界でも名だたる皇帝でありました。
ドイツのビスマルク皇帝と共に世紀の名皇帝と世界から尊敬されていたのである。

明治は武家社会の封建時代から近代化日本を完成され、
しかも二度に亙る国家の命運を賭けた対外戦争、即ち
シナとロシアとの戦争日清・日ロの大戦に勝利した
明治時代である。

日本歴史上、現代日本人は忘れてはならぬ明治飛竜の時代だ。
勿論、国民も懸命な努力をした。

明治天皇がご薨去されると東京都民は明治天皇の御陵を東京にと希望したが、既に明治天皇は京都桃山に決めておられ、それで東京にとなった。

森林は全国各県からの寄贈であり、樹木は個人負担で搬入された。

私の家内の里からも献木している。

神宮設立の動機は新札1万円札の渋沢栄一翁。

明治の森の中に 直径14.5米の花崗岩の円壇の中に巨木クスノキが亭々と茂っている。葬儀殿跡だ。

葬儀は大正元年9月13日、午後8時、陸軍の弔砲の
轟音、品川沖の軍艦からは海軍の弔砲が、都内の寺院からは、弔鐘、

その同じ時刻に陸軍大将乃木希典夫妻が殉死を遂げた。

この式場に、じ車到着は午後10時56分。
葬儀が終わり 
桃山へ出発したのは翌日14日午前1時40分であった。、

明治神宮には正月には50万人が参拝する。
東京都民の、日本人の精神的シンボルと言えよう!

植林後100年、自然に生えた木であり手つかずの大自然だ。
世界的に稀有。

大阪府の仁徳御陵も自然に生えた木、天然更新、
五世紀半ばからの原生林が維持されているのだ。
素晴らしいではないか。落ち葉も森に返えるのだ

森厳なる神社にふさわしいとされる杉や松でなくて良かったと言われる。
針葉樹林であったつたらどれ程みじめであったろうか。

明治神宮には鳥居が8ツある。全て台湾ヒノキであった。
直径2メートル。高さ17米。

アメリカによる空襲にもあっています、本殿の御柱は焼け残った。
燃え盛る境内で「奉遷の儀」が行われ、600米離れた宝物殿に御霊を
遷し奉ったと言われる。満身創痍の神宮であった。

明治神宮の社殿が再建されたのは昭和33年10月31日、全国から6000人参加した、
東京タワーが作られた年だ。

想起すれば明治神宮外苑では、戦争が思うようにならぬ昭和18年

「学徒出陣壮行会」が行われた。銃を担いだ学生が雨中を行進する姿を見られた方も
ありましょう。

正に、歴史と共に生きた百年の明治神宮。
 
森のピーク 
当初の完成見込みは150年後であったが、現在100年。 

森は成熟し、専門家によると 森は崩れ始めているとされる。
専門家によると 樹木数は
第一次調査で167688本が、36322本へ減少している。

森林変化の最終段階にあるとされ明治神宮の森林は変化の
最終段階の「極相」にあるとされる。

明治天皇は、
物凄い多数の和歌を作られ有名でした。

愛馬「金華山号」陛下にお辞儀したと言われた名馬、

明治天皇の指示で馬は剥製となっている。


明治天皇の御製、

「癖なきは得難かりけり  牧場よりすすめし駒の数はあれども」

「乗る人の心を 早く知る駒は  もの言うよりも あはれなりけり」

北陸巡幸で、橋のたもとに差し掛かった時、金華山号は歩みを止めて進まない。橋を調べると
土台が腐っており。応急修理をすると渡ったという。

宝物殿がある。 明治天皇の使われた粗末な 箪笥の前に、
凝視していた人物の物語りもある。

質実剛健な明治天皇、質素な皇室の伝統
日本人の原点は皇室であり天皇。

贅沢豊満な平成、令和の時代人よ。

明治という時代を学び返す 必要があろう。

 令和6年7月1日 鳥取木鶏会  徳永圀典