妙な悪平等主義 

近代民衆に、知識階級に、非常な感化を与えたものはいわゆる民主主義デモクラシーの思想教養であります。 

デモクラシーというのは今更論ずるまでもなく、ことに西洋のように奴隷制度の深刻なものを長く持っておった階級的社会にありましては、当然起こらざるを得ない人道的思想であります。 

人間平等の眼目は

例え、農奴であろうが、乞食であろうが、奴隷であろうが、何であろうが、とにかくいやしくも人間である限り人格を持っておる。

すべて人格を具備するものであるということに於いては、人間皆平等である。

だから、一切の人間に人格を認め、出来るだけ人間の教養を高め社会を人間生活にふさわしい自由で平等で情愛のあるものに自治してゆこうということが眼目であります。 

妙な悪平等主義

そのデモクラシーが大正時代から段々に歪められ変質されて参りまして妙な悪平等主義になって来たのであります。

それは、いかなる英雄も哲人も、やはり食欲もあれば性欲もある。その点においては普通一般の民衆と変わりない、一切の偉人も凡人も総て人間としては平等である。

否、偉人なんというものは、多数の民衆を踏み台にし、これを食い物にして自分の欲望を恣にし、自己の特権を弄ぶものであって寧ろ民衆の敵だ。

だから大衆は斯の如き偉人だの英雄だのというような偶像礼拝から解放されなければ救われるものではないという英雄偉人の排斥、価値の否認、平凡の礼讃、そういう意味における悪平等思想が非常に流行って来たのであります。 

歪んだ思想の蔓延

或は英雄、偉人の崇拝の盛んな東洋思想、東洋的社会なんというものは最も時代錯誤である、唾棄(だき)すべきものである。ことに日本などはその典型的な存在だというので日本を特殊国、特殊人と呼んで、日本を国際的特殊な国なりとして(てん)として恥なきというよりも、むしろ得意とする程であったのであります。 

馬鹿げた日本人

それで、ある模範中学校で卒業式の代表者が答辞を述べたものに「我々は今後大きくなって英雄になるのでも偉人になるものでもない。平凡にして且つ善良なる市民たらん事を光栄と致します」。

というような答辞があった程、この思想は普及し、その当時のジャーナリズムはこれを日本の思想的進歩のように礼讃したものであります。日本人が日本を何事によらず嫌悪し外国人から日本人の被虐症と言われるような言論が盛んに流行するのは何も新しいことではなく、大正の時代、既に今日あるを示しておるのです。

       安岡正篤先生の言葉