日本、あれやこれや その63

平成21年7月度

 1日 伊能忠敬 「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります」と伊能忠敬は言った。 「寒冷で湿気の高いなか、奥西別(北海道のほぼ東端)まで往復したにもかかわらず、みな病気もなく江戸へ帰還できたこと、君命と祖神の霊のご守護によるものでございます」とも。
 2日 欧米諸国は驚嘆 それまでの実務的な記述に感傷があった。寛政12(1800)年10月21日、伊能忠敬の日記の一文である。旧暦で同じ年、忠敬は測量結果をもとにした地図を提出する。 その精巧さに驚いた徳川幕府は忠敬に全国の測量を命じ、20年の歳月をかけて完成した日本地図は半世紀後、来航した欧米諸国を驚嘆させることになる。
 3日 人間50年 前半生の忠敬は有能な商人だった。下総・佐原(千葉)の豪商の婿養子となり、身代を30万両相当(数百億円)に拡大し、49歳で家督を息子に譲ったのだが、一つまた驚くこ とがある。
「人間50年」の時代に、彼は私財を投じて天文学や測量術を習得したのは隠居の後、しかも当代一流とはいえ、親子ほどに年の差のある学者を師と仰いだのだ。
 4日 自然天命 冒頭のことばは名声を追いがちな跡取りを戒めた手紙にある。
自然天命」とは「自分ではなく人類のための使命」と言い換えて
よいだろう。忠敬がそれを見付けることができたのは、彼にとっても、後世にとっても大きな幸せだった。
 5日 嘉納治五郎

「自ら省みて素行を修め品格を高くし、外国人より尊敬を受けるようになる、それが真の愛国である」(嘉納治五郎『青年修養訓』)。柔道の創始者であり、東京高等師範学校長、そしてわが国初の国際オリンピック委員会(IOC)委員だった文武両道の人、

嘉納治五郎は万延元(1860)年、兵庫・御影で生まれた。語学にすぐれ、満17歳の年に最初期の東大に入学するほどの俊才だったが、「きわめて虚弱なからだであって、他から軽んぜられた」ことから、すたれた存在ではあったが「柔よく剛を制す」という柔術を学ぶようになった。 

 6日 道が根本で術はその応用 嘉納はそれまで、
「非常な癇癪(かんしゃく)持ち」だったが、柔術で身体が鍛えられると精神的に安定し、その勝負や練習が人生の縮図であることを悟る。そこから、「道が根本で術はその応用」という哲学が生まれ「柔道」が誕生する。嘉納が説く「道」とは冒頭のことば、さらには後に提唱する「自他共栄」であろう。
「品性の力によって磨かなければ、如何に良好な才能も到底十分に発達する事は出来ぬ。これに反して品性の力で磨いたならば、さほどでもない才能も相応にその光輝を発しむる」。

『青年修養訓』からの一文だが、昨今の柔道界や相撲界に対する警句だけにとどめるのはもったいない。
教育界、そして日本人が銘ずべき道。
 7日 勝海舟

気力と胆力と頭脳を兼ねた人物
幕末が生んだ一世の巨人・勝海舟は最下級の幕臣で、青年時、困窮生活を送った。だが海舟はこの境遇に屈せず文武両道に努めた。 江戸随一の荒修業で有名な島田虎之助の下で10年間剣道に励み、21の時、免許皆伝を受けた。これが海舟の人物を鍛え上げた。海舟は単に頭だけの秀才ではなく気力と胆力を十分に備えていた。
 8日 根気と努力 そのあとが10年間の蘭学修業である。これまたすさまじい勉学であった。蘭学には「ヅーフハルマ」と呼ばれた蘭和辞典が必須だが60両もしてとても買えない。海舟は1年間10両の損料で借り昼夜をおかず2部筆 写し、1部を売りそれで損料を払った。その頃、海舟は貧窮のどん底にあった。薪を買う金がないから天井など燃やせるものは皆はがして炊事をした。まことに驚嘆すべき根気と努力であった。写し終わって巻末にこう記している。
 9日 吉田松陰 誰でもデジャ・ビュ既視感)を経験したことがあると思う。一度も体験したことがない事柄なのに、以前あったように感じる錯覚にほかならない。歴史にも似たことが起こる。時も場所も違うのに人間は同じ振る舞いをしがちだからである。 結局、政治や戦争の極端な局面では、人間の思考や反応のパターンはさほど違わないのだ。そこで、現代を考えるよすがとして幕末を話題にするのは不自然ではない。黒船来航から開国、尊王攘夷から明治維新とめまぐるしく移り変わる歴史は、世界史の試練に直面した日本人の危機感の表れでもあったからだ。
10日 歴史で人間を学ぶ 平成の現代、グローバリゼーションの下で未曾有の経済金融危機を迎え、政治も複雑さと混迷を極める折、「回天の事業」をもたらした幕末の歴史と人間を学ぶことは、日本の未来を照らす導きと教訓にもなろう。歴史を知るのは趣味や好事の楽しみだけではないのだ。 実際に、幕末と明治に活躍する人材を育てた長州の吉田松陰は抽象的な世界観でなく、人間が歴史で示した具体的な行為を事実として考えるほうが、人びとに訴える効果も深く、切実に理解されると信じていた。哲学的観念論でなく、賢人や豪傑の仕事ぶりを実例で学ぶ作業のほうが有益というわけだ。
11日 歴史の考察 この点では、恩師の佐久間象山が『論語』をよく読んで「道」を理解する伝統的な方法を勧めたのに、松陰は政治危機の原因や人間社会の構造を考えるために歴史の知識を生涯大きな手がかりにした。故郷の萩で入牢したときでさえ、歴史の考察こそ何よりも有益だという考えが不変だと兄に伝えていた。 松陰は代表作『講孟余話』のなかで、いつも歴史書を読んで古人の具体的な仕事を学び自分の志を励ますことを好み、「是亦(則)故而已矣の意なり」という有名な言葉を残している。「これまた()(のっと)るのみ」とは、自分の行いもすべて歴史の故事や偉人の振る舞いに学んだという意味であろう。
12日 空言より行事(こうじ) 29歳で刑死した松陰は米国への密航の企てなど迷いのない純粋な行動や信念にこだわり、夢とユートピアを思い描きながら現実の条件に背を向けて、理想郷に陶酔したような錯覚を後世の人間に与えがちである。しかし事実は逆である。松陰は 「空言」(抽象的言辞)よりも「行事(こうじ)(具体的仕事)で考える手法を大事にした孔子の言葉に何度も触れている。こうして松陰は、孔子が歴史の名著『春秋』を作り、孟子も聖人と賢人の業績について事実を挙げながら具体的に称賛した面を高く評価した。
13日 歴史の学習 松陰によれば、歴史の学習は世のために2つの面で役立つ。
その1つは時事をきちんと遠慮せずに書くために、官僚もこれを畏怖して不正をおこさないことだ。
2つ目は、時事のプラスマイナスや施策の善悪をよく学べば、別の政策を考える場合にも大いに役立つというのである。
松陰の考えは、歴史的な実例を手本にすれば宗教と世俗のいずれでも有益な効果をあげられると述べたイブン・ハルドゥーンの指摘とも共通する。
大著『歴史序説』を書いた14世紀アラブの歴史家と、幕末にきらめくような光芒を発してすぐ消え去った松陰が、同じ問題に関心をもっていた点は興味深い。
14日 松陰の現代的意義 歴史にこだわりながら幕末の暗がりに去った松陰の言説には重みがある。 そして、松陰と同じ時代に生きた人物たちの足跡が現代に投げかける意味を考えてみる必要がある。
15日 原敬 「日英米三国の提携とならば国家の将来極めて有利なるも、之に反し日米疎隔を来たさば国家の危険(この)(うえ)なし」(原敬) 原敬は幕末生まれの明治・大正時代の政治家。大正7(1918)年9月、わが国で初めて本格的な政党内閣が誕生したさい、立憲政友会総裁だった原が首相に就任した。
16日 反骨精神 南部(盛岡)藩の名家の出身だが、分家して士族から平民となったため、「平民宰相」と呼ばれ、人気が高かった。明治維新で東北諸藩の多くは賊軍」 とされ、「白河以北(の価値)は一山(ひとやま)百文」とあざけりを受けたことから、号を「一山(いっさん)(のちに逸山)」に定めた反骨精神の持ち主でもある。
17日 一身を国家に捧げる者 首相就任直前の『原敬日記』にみえる冒頭のことばの通り、彼は対米協調を外交の基軸に置いた。別に「日米の間に親交を保てば支那(中国)問題は自ら解決するだろう」ともしたためている。その原が大正10年、東京駅頭で暴漢に刺殺された。享年65。 「一身を国家に捧げる者は、護衛に頼らず運を天に任せるものだ」という剛胆さがあだになった。
その9カ月前、すでに作成していた遺書には「余分なお金で人を救済するのはよいが、金を貸すようなことは決してするべからず」と記されている。大きな損失だった。原が長命なら米国と日本の歴史も変わっていたかもしれない。
18日 上杉謙信 「義こそ、わたくしが願い、益々もってきわめてゆくところでございます」(上杉謙信 自らを護法戦勝の善神・毘沙門天(びしゃもんてん)の生まれ変わりと信じた「越後(現・新潟県)の軍神」。
19日 気高い勇 名著『武士道』のなかで戦前きっての国際人、新渡戸稲造は「その気高い勇は(儒教最高の徳である)仁に近し」とたたえている。 戦国時代のただなかである1530(享禄3)年、その上杉謙信は越後守護代の老将の末子として誕生した。
20日 男性的爽快(そうかい) 前述は1564年、出兵を前に必勝を祈願した奉納文のなかにある。「私利」の時代に義を実現しようとした謙信にほれた、ということだろう。
作家、海音寺潮五郎は名作『天と地と』で
謙信の半生を描き、評伝『武将列伝』では宿敵、武田信玄の「計算高さ」に対して謙信を「ストイックで、男性的爽快(そうかい)さをもって生涯をつらぬこうとし、また最も積極的な活動家であった」とたたえている。
21日 塩を送る逸話 こうした謙信評をささえているのは敵(信玄)に塩を送る逸話や川中島の戦いでの単騎駆けだが、史実か否かは定かではない。 しかし、新渡戸や海音寺をはじめ、多くの先人たちは信じた。それは、ひとは義と善の心をもっていると信じることでもある。時代は変わっても「謙信」は永遠であってほしい。
22日 平将門 「自身の行いを省みると恥ばかり多く、どうやって面目を施そうかと考えるばかり。この心情、お察しいただければ幸いであります」(平将門)。 《時に(うつつ)に天罰ありて、馬は風飛の歩みを忘れ、新皇(しんのう)(そら)(しん)(てき)(あた)り−》、 軍記物語の祖となる『将門記(しょうもんき)』のクライマックス。
23日 “神の一矢” 「新皇(新しい天皇)」を称して関東を支配した平将門が天慶(てんぎょう)3(940)年、討ち死にする場面の描写がある。 「天罰であろう、新皇(将門)を乗せた名馬が歩みを止めた。そこに“神の一矢”が命中。新皇は激戦のすえに反逆の地に滅んだ」。
24日 将門の敵は 彼はまた天慶2年末、朝廷に釈明書を送っているが、そこには「武門の長」という自負とともに、冒頭の一文のようなとまどいがうかがえる。 「(将門が)敵としているところは、本当は天皇家ではない。摂関政治であり、無制限な利潤追求で民を苦しめてやまなかった荘園制度であった」。海音寺潮五郎のこの評は、なぜ彼をまつる神社が関東一円にあるのかの答えでもある。
25日 民の英雄だった将門 当初、民の英雄だった将門は儒教全盛の江戸時代に「逆賊」となり、その後次第に一面的な評価から解放された。 その先駆は文豪、幸田露伴。彼は史伝『平将門』で、将門を情の厚さと「子分」のために身の処し方を誤る「大親分」として描いた。包囲した敵将をわざと逃したのはその一例だ。
26日 平知盛

「運命つきぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。東国の者共に弱気見すな」(平知盛) 『平家物語』。

文治元(1185)年、現在の山口県下関市の関門海峡、源氏と平家の最後の決戦「壇ノ浦の戦い」の火ぶたが切って落とされた。知盛は平家軍の総大将
27日 浪の下にも都のさぶらふぞ 当時すでに亡き平清盛の「最愛の息子(四男)」だった。「おごれる人も久しからず」と冒頭にうたい、「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」で結ばれる『平家物語』は「ほろび」の文学と称される。 その頂点はこの海戦であろう。平家は壊滅的な打撃を受け、知盛は入水。清盛の妻、二位の尼も6歳の安徳天皇を抱き、「浪の下にも都のさぶらふぞ(海の中にも都がございますよ)」と言って身を投げる。
「あはれ」と『平家物語』の作者(未詳)はそのさまを記す。
28日 ほろび 別の「ほろび」もある。たとえば「口惜しけれ(情けない)」。
「壇ノ浦」で捕虜になり、源氏の温情にすがって生きのびようとする平家の総領、宗盛(清盛の三男)である。
また、話は違うが、「源頼朝(こうべ)をはねて、わが墓の前に置くべし」と高熱にあえぎながら遺言する清盛は「罪ふか(深)けれ」だ。
どの「ほろび」が後世の日本人の心をとらえ、かたちづくったのか。
29日 (らい)山陽(さんよう)

「其の国に報ずるの志、百敗(くじ)けざるを見る。今に至るまで凛として生気あり」(頼山陽)『日本外史』)、頼山陽は江戸時代後期の歴史家、詩人。『日本外史』は彼の代表作である。

源氏と平家の興隆から900年にわたる「武士の歴史」を描いたこの史書は幕末、志士に愛読された。情熱的かつ引き締まった文章で、英雄や時代の盛衰が尊皇(王)の視点で描かれているからだ。
30日 独自の目 山陽はだから尊皇の忠臣ではあるが歴史的に見れば敗者といえる楠木正成を「(武士の世を確立した)源・平氏に継ぐ」と位置付ける。また豊臣秀吉と鎌倉幕府の執権、北条氏の比較にも独自の目が 光る。尊皇においては両者は痛み分けとするものの朝鮮半島に無理な出兵をして国力を疲弊させた秀吉は2度の蒙古来襲を防ぎ独立を守った北条氏に「及ばざるや遠し」としている。
31日 新田義貞 史家にはあまり評判がよくないこの南朝の敗将を山陽が高く買ったのは、将軍・徳川家の祖が新田氏だからだ、ともいう。だが、『日本外史』に引用されている義貞の次の言葉を 考えるとき、彼はやはり後世に伝えられるべき人物だと思う。「将たる者は、上に奉じ、下を愛育し、志を決して行動し、運を天にまかせ、人を(とが)むるなかれ」