時には文学を その五

時には文学に触れて心を癒したいと思う。

平成27年7月

1日 万葉の風土 それは、素朴、純朴な人間性、大らか、自然、というような印象であろうか。
2日 大和国原

万葉時代の都はだいたい大和に位置した。万葉の故郷は当時の政治の中心であった。大和三山、香具山、畝傍山、耳成山、その南に開けるのが飛鳥の里である。二上山、葛城山がその西方に位置する。

3日 国のまほろば

(やまと)は国のまほろば
(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山(こも)れる
倭し うるはし (やまと)(たけるの)(みこと)

4日

万葉のふるさと大和

日本の詩歌の原泉、周りを緑の山々に囲まれた盆地の生活は巡り来る四季にしたがって営まれ、自然の移り変わりの中で、農耕や神祭り、季節の行事が繰り返された。個人の生活も宮廷の生活も自然と融け合っていたのが万葉集の歌に満ち溢れている。
5日 山之辺の道 本ホームページに既にご紹介した。三輪山西麓から北へ石上神社まで伸びる古道で日本最古である。崇神王朝の要路として開けた。現在も歴史の道として賑わっている。
6日 飛鳥川 万葉歌の黎明の地、現在の橿原市一帯、その中央を流れているのが飛鳥川、「明日香川 ()()(たま)()うちなびき (こころ)(いも)に 寄りにけるかも」を思いだす。
7日 万葉集の歌の分布

阿騎  大和宇多

(ひんがし)の 野に(かぎろひ)の 立つ見えて かへり見すれば (つき)(かたぶ)きぬ」 柿本人麻呂

8日 平城京 

唐の都・長安を模してつくられた。「(あお)()よし 奈良の都」と歌われた。

9日 多賀城

多賀城 宮城県
大和朝廷最北端の軍事基地、それは、宮城県多賀城の城址である。とてもいい雰囲気であった。

10日 越中国府跡 越中国府跡
大伴家持が国守として過した、家持の歌。
「春の(その) (くれない)にほふ 桃の花 (した)()る道に 出てで立つ少女(おとめ)
11日 多摩川 多摩川
東歌「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの()の ここだ(かな)しき」
12日 筑波山 筑波(つくは)()()(がひ)に見ゆる (あし)穂山(ほやま) 悪しかる(とが)も さね見えなくに  東歌
13日 (にぎ)田津(たづ)

(にぎ)田津(たづ)の夕暮れ
 (にぎ)田津(たづ)に船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ  今は漕ぎ出でな  額田大君

14日 近江の海=琵琶湖

近江の海=琵琶湖
 (あふ)()の海 夕波千鳥 ()が鳴けば (こころ)もしのに  (いにしへ)思ほゆ 柿本人麻呂

15日 二上山

大和国原の西に聳える二上山(ふたかみやま)
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を (いろ)()とわが見む 大伯(おおくの)皇女(ひめみこ) 

16日 大宰府の跡

大宰府の跡 旅人(たびと)(おく)()が活躍
 わが盛り また()()めやも ほとほとに ()()(みやこ)を 見ずかなりなむ  大伴旅人

17日 吉野川 離宮跡

吉野川 離宮跡  ここの淵で素っ裸で泳いだ。
吉野なる (なつ)()の河の 川淀に 鴨そ鳴くなる 山陰(やまかげ)にして   湯原(ゆはらの)(おうきみ)

18日 (きさ)の小川

(きさ)の小川  北に流れて吉野川に注ぐ
 昔見し 象の小川を 今見れば いよよ(さや)けく なりにけるかも 大伴旅人

19日 宇治川

宇治川 大和から近江への道に沿って流れる
 もののふの八十(やそ)(うじ)(がは)網代(あじろ)()に いさよふ波の 行方(ゆくえ)知らずも  柿本人麻呂

20日 万葉時代の祭祀

万葉時代の祭祀
 この時代、人間には肉体と霊魂の二つがあり、肉体は消滅しても霊魂は別の世界、黄泉の国へ行き生活すると考えていたと思われる。霊魂の去った死者の肉体は、石製・土製の人馬や、日常の生活用具、鐘や剣などの副葬品とともに埋葬された。

21日 古墳壁画 茨城県の虎塚古墳、地方豪族の墓の内部であるが、横穴式石室の奥の壁に、神秘的な幾何学模様や、「やり」「ほこ」と「矢」を入れて担ぐための「(ゆぎ)」、矢を射る時に弦が手首を打つのを防ぐ為に覆う「(とも)」なとが描かれている。
22日

人形(ひとがた)や「こま」「さいころ」

人形(ひとがた)や「こま」「さいころ」

人々は自分の身代わりとして「人形」に穢れや災いを移そうとした。「こま」や「さいころ」は遊び道具ではなくて占いに用いられた。

23日 地方人の生活 竪穴住居に農民が起居した。(はん)(でん)収受(しゅうじゅ)の法により国から与えられた農地=口分田(くぶんでん)を耕作して生活していた。然し、租税や国への労働力の提供、防人(さきもり)衛士(えじ)という兵役の義務があり農民生活は苦しいものであった。
24日 鬼板と武器

鬼板と武器
多賀城の遺跡から多くの鬼板が出土している。鬼板は鬼瓦の代わりに用いる板。

25日 交通・流通

交通・流通
 大和朝廷が基盤を固め中央集権が確立すると、体制が整い、中央と地方諸国とを結ぶ幹線道路やその支線が設けられてきた。東海、東山、北陸、山陽、山陰、南海、西海の七街道が幹線である。幹線には駅が置かれて役人の旅に利用された。貨幣も流通し始めた。また大陸の文化を求めて遣唐使が派遣されるようになってきた。

26日 馬の埴輪

馬の埴輪
盛装した馬の埴輪が出土されている。馬は騎馬用に使われたばかりでなく、陸上交通機関として大切であった。また死者の御霊(みたま)の乗物でもあったと言われる。

27日 貨幣

貨幣
土で鋳型を作り文字を浮き上がらせている。貨幣奨励政策を取っていたが偽金が横行した。

28日 船の埴輪

船の埴輪
素造船技術も発達してきた、物資の輸送に用いられて。

29日 遣唐船

遣唐船
技術の発達により遠洋航海が可能になり遣唐使用の船も作られた。

これにて、本稿は終わりです。