徳永圀典の「日本歴史」29 完結篇
平成20年7月度

 1日 高度経済成長 敗戦から15年後の昭和35年頃(1960年代)より、略10年間は、年率10パーセントという、世界の歴史でも稀な経済成長を続けた。 1968年、昭和43年には、国民総生産(GNP)が資本主義国でアメリカに次いで世界第二位となった。
 2日 世界的企業へ この間、貿易も順調に発展し、石炭に替わり安価な石油が輸入され鉄鋼生産を始めとして外国からの先端技術へ素早い導入を行い日本経済の発展を支えたのである。 自動車、造船、鉄鋼、石油化学、電化製品などの産業が大きく伸びた。ソニー、ホンダ、トヨタなどが世界的な企業へと成長した。
 3日 無数の人々の工夫 コンピューターなどの先端技術の研究も盛んとなる一方、原子力の平和利用も拡大した。茨城県東海村などである。 また、中小の工場や零細企業での無数の人々の工夫や発明も積み重なり日本経済発展の基礎を築いた。
 4日

爛熟と喪失

高速道路網や新幹線の敷設もあり、国民の生活も電化製品や自動車が大きく普及して行く。農村も豊かとなり、欧米化の食事の為もあり、米の生産は過剰となり減反政策が取られだした。

敗戦後30年、日本人や日本社会は大きく変貌した。世界での日本の地位も向上し昭和39年には東京オリンピック、昭和45年には大阪万博が開催された。何れもアジアで初めてであった。

 5日

公害

経済成長が進むに連れて、政治・社会に変化が起きてきた。1960年後半から、工場の煙、排気ガスなど産業廃棄物による公害問題が発生、自動車排気ガスによる大気汚染、家庭の洗剤による河川の汚染などの解決が求められるようになり、昭和46年には環境庁が

設置され公害防止対策が取られることとなった。経済成長の結果、革新勢力の資本主義批判の主張は次第に説得力を欠いてきた。一方で、公害・福祉など身近な問題の解決を求め、一時期、東京などの都市圏で革新勢力から地方自治体の首長が選出された。
 6日 元気のあった日本の学生 アメリカのベトナム戦争に抗議する学生運動が日本でも盛んとなり、各地の大学では1968年、昭和43年頃から学生たちが、大学の改革や安保条約反対を主張し暴力で学校を占拠するなどの騒乱となった。 国家が民族が興隆期にある時は、歴史的に間違うこともあるが、純粋な青年や学生は社会的憤懣のために暴動を起こす事もある。安保反対もそれに該当しよう。21世紀の今日、小成に甘んじている学生や青年諸君だ。
 7日 外交 昭和40年には韓国と日韓基本条約を締結し国交を正常化した。韓国に対し有償・無償合計5億ドルの協力金を支払った。 韓国とは戦争をしていないし、朝鮮半島には8兆円の日本人の民間資産を放棄までした上にであった。 
 8日 沖縄返還 アメリカの施政下にあった沖縄はベトナム戦争開始で基地の使用頻度も高まり地元住民の抗議も強まった。佐藤栄作内閣は、非核三原則―核兵器を持たず、作らず、持ち 込ませずーを表明し核兵器抜きで沖縄の基地を維持するという条件で、沖縄返還をアメリカに同意させた。昭和47年5月、かくして沖縄の本土復帰が実現した。
 9日 ニクソンショック 中華人民共和国は、共産圏側の指導権を巡るソ連との関係悪化もあり、またアメリカとも対立していた。更に、1966年からの、所謂、文化大革命で多数の死傷者を出し中国社会は大混乱を惹起していた。

日本の朝日新聞社などはこれを賞賛していた。アメリカのニクソン大統領は、北ベトナムを支援するソ連への牽制もあり、中共政権に接近した突如としてアメリカと中国の関係が正常化した。寝耳に水の日本であった。 

10日 日中国交正常化

昭和45年、田中角栄総理は、それを受けて中国を訪問し、日中協同声明に調印した。日本は中国との戦争に反省の意を示した。

そして中華人民共和国を中国の正統な政府と認め国交が樹立したのである。然しこれにより台湾の中華民国との国交は断絶した。昭和53年には日中平和友好条約が結ばれた。
11日 オイルショック

第二次世界大戦後中東のパレスチナにユダヤ人の国家であるイスラエルが建国された。為に周囲のアラブ諸国と対立が続いていた。1973年昭和48年、両者の間に第四次中東戦争が始まった。アラブ産油国は戦争を

有利に戦う為に、日本を含め、イスラエル寄りと見られた国に対し石油の輸出制限宣言をした。日本ではパニックが発生した。オイルショックであり、これを契機として日本の高度成長も終わることとなった。
12日

経済大国・日本

然し、日本の経済力はその後も衰えず1979年、昭和53年、アラブ諸国が石油を大幅に値上げした第二次オイルショックでも日本の産業は経営合理化を進め先進国の

中で最も速やかな対応をした。1980年代には、他の先進国がインフレや失業に苦しむ中、経済大国として期待されるようになった。 

13日 新冷戦 1970年代、昭和45年、米ソの緊張が緩和し、デタントと称した。然し、アメリカがベトナムから撤退した後、ソ連は軍事力を増強し、アフガニスタンに侵攻したり、ベトナム湾に拠点を確保するなど世界各地の共 産主義勢力の援助を強化した。アメリカはソ連への警戒心を強めた。1981年にはレーガン大統領が登場して、ソ連に対する大規模な軍事拡張に乗り出した。再び両大国の激しい対立が開始されたのである。
14日 ソ連の苦境 アフガニスタンでは、イスラム教徒ゲリラのソ連軍への激しい抵抗で戦争は泥沼化した。ポーランドでは、自主管理労組が結成されソ連の東欧支配は動揺した。 アメリカとの軍拡競争の負担も大きく、社会主義経済の非効率や官僚組織の腐敗もあり、ソ連は苦境に陥った。 
15日 ソ連崩壊の序曲

1985年、昭和60年、ソ連ではゴルバチョフ政権が誕生、市場経済導入、情報公開を行いソ連社会の根本的変革による再建を目指した。

然しこれにより国内は却って大混乱を起こした。バルト諸国やソ連圏を構成する国々の独立気運が月強まった。
16日 ベルリンの壁破壊

このソ連の新しい潮流を見て、東欧諸国に自由化要求が拡大し、ハンガリーがオーストリアとの国境を開放した。すると大量の東ドイツ市民が西側へ移動を開始し1989年11月、遂にベルリンの壁が破壊された。

西ドイツはこれを機に東ドイツを統合の歴史的決断した。ソ連共産主義は70年間の人間の自由強奪ち抑圧実験の失敗を示したことになる。人間は自由が最高のものであることを噛み締めたのである。
17日

冷戦終結

この結末を呼んだソ連はアメリカに敗北したと認めた。ソ連はアメリカとの軍拡競争を断念した。 1989年12月、米ソ首脳は遂に、冷戦終結宣言をしたのである。ソ連の敗北である。
18日 ソ連共産党解体 1991年、米ソ両国は、互いに戦略核弾頭を削減する戦略兵器削減条約(START)を調印した。米ソの長い対立は終わったのである。そして1991年12月には、ソ連が崩壊、ソ連共産党も解党した。 新たに独立国家共同体(CIS)が結成された。東欧諸国でも次々と共産主義政権が音を立てて崩壊しワルシャワ条約機構も解体した。感慨無量である。民主・自由の勝利である。
19日 EU結成 ヨーロッパ諸国は、1993年、ソ連崩壊後2年でヨーロッパ連合を結成した。相互の発展を目指したものだが、アメリカが唯一の世界覇権大国となるのを危惧したアンチテーゼとしたものだが、流石老練な国々であり 機を見るに敏なるものがある。日本など米国との平和条約締結の昭和27年に独立国としての布石を打たぬまま今日に至ってしまつた。その後の中国・韓国などの成長が自主日本の独立を妨げて混迷している。
20日

貿易摩擦

米ソ冷戦の狭間で、経済オンリーの日本は世界経済大国として、世界の金融資産の三分の一を保有し世界債権大国に君臨していた。アメリカは、世界最大の債務国となっており、その日本を見てそれはアメリカのお蔭であり冷戦費用を日本から返済して貰おうとしても不思議ではない。

アメリカから日本の市場開放を強く求められた。日本の対米黒字が膨大で中々減少しないからである。安保タダ乗りの批判を受けたのである。強い日本経済を求めて外国人労働者や不法入国者も激増し日本社会は国際化の高波が押し寄せてきた。
21日 国際的役割

大国となった日本は、より積極的に國際的役割を期待されるようになった。従来から増え続けてきたОDA−発展途上国への政府開発援助―は

1989年に世界第一位となった。また国連の日本分担金も1991年にはアメリカに次ぐ世界第二位を占めるなど世界の中での役割が増大した。
22日 湾岸戦争 1990年8月、イラク軍が突如クウェートに侵攻し翌年1月、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクと戦いクウェートから撤退させた。湾岸戦争である。 日本は憲法の規定上軍事行動には参加しなかった。巨額の、1兆円を越す財政援助で大きな貢献をしたが、國際社会は評価しなかった。国内では深刻な議論が起きた。
23日 世界音痴の野党 平成2年、国連による平和維持活動―PKО―の参加を決めた國際平和協力法により同年秋から、日本は自衛隊、警察官をカンボジアやゴラン高原に派遣するなど、世界の幾つかの地域でPKО活動に参加している。 だが、民主党が参議院で多数を占めることにより、高く評価されていた中東での石油給油をストップするなど、世界音痴の野党第一党の為に国益を損じる結果となっている。
24日

バブル崩壊

昭和64年頃から、大幅な金融緩和で土地や株への投機が盛んとなり、地価や株価の暴騰を招いた。留まる処のないような株式高騰は国民を狂気にさせた。そしてバブルと呼ばれる現象が起きた。

株価の暴落、地価の暴落は、多くの企業、銀行、個人資産を直撃し膨大な損失を与えた。そして「平成不況」と呼ばれる戦後最大の不景気が延々と続いたのである。 

25日 自民党政権を失う

長期自民党政権の下で、様々な汚職事件も起り、頂点に達した感があった。自民党内部でも、それまでの保守と革新の区別に囚われる必要は無いという考えも拡大した。

平成5年、選挙制度の改正を巡り自民党から分かれた一派が野党と連合して政権を樹立し自民党は遂に40年振りに政権を失った。 
26日ー

30日
奇妙な政権


憲法問題奇妙な政権の結果は


新しい対立と矛盾

アメリカの覇権の揺らぎ

亡国的惨状の日本
然し、翌年平成6年には、連立政権内部の分裂を捕えて社会党と連立するという実に奇妙な政権を樹立した。この政権のなしたことが、外交関係でその後の日本を困らせることとなった。その流れは今猶続いている。現在の日本の政治の不安定なものの遠因である。戦後六十年を経ても、今猶自前の憲法論議すら捗々しくないという現状は、国家として惨憺たるものである。その為に、国民の多くは、自主独立の気概を喪失し普通の国家ではないという自覚すら失せてしまつた。政治家にもそれが蔓延し、真に、子々孫々の国民、日本の未来の為にという真剣なものが力となっていない。まさに亡国的惨状の日本となっている。21世紀を迎えた当初の日本はバブル処理の真っ只中であり夢も希望もない状態であった。この世紀はテクノロジー、科学技術の実際的工学的応用の花開いた世紀である。その上に急速に小型・軽量化し地球全体がコンピューター管理されようとしている。それらは、20世紀の大国による兵器産

業により齎したものだ。欧米による植民地支配も終わり、米ソの大国の対決も取りあえず終わった。資本主義と共産主義の対決は清算されたと見る。
然し、中国を筆頭とする共産主義の残滓、中東に見る宗教と人種にからむ対立は依然として激しく不安定である。
中国の倫理無き、資本主義的繁栄は未だその結論を出しておらず不安定なものを内臓したたままの矛盾があり予断を許さないものがある。アメリカのドルは、イラクの失敗、金融市場主義の矛盾もあり、通過覇権の地位が大きく揺らいでいる。中国の歴史的台頭とEUの統合により、通貨の不安は戦後最大のものとなり今後の問題でもありホットな問題でもある。また、環境問題が人類全体の問題として大きくのしかかっている。巨大人口を抱え欧米思考の生活を希求しつつある大人口の中国・インド・アメリカは真剣でなく用意ならざるものを秘めている。
 

31日 絶望的日本そして地球 地球の温暖化は激しく、このままでは、人類はポイント・オブ・ノーリターンが後十年そこそこまで迫っているのにその対策は無い。日本は環境先進国でありながら、 世界に指導力を発揮するべきを、与野党共、小さい次元での政治をやるばかりであり、国民も視野狭窄に近い孤島民の有様で目先のことばかりに現を抜かしている。