王朝交代劇による国内統一
平成27年7月

1日 王朝交代劇による国内統一 崇神王朝は、第四世紀後半にいたって、九州狗奴国王・応神天皇と対決しましたが、仲哀天皇の戦死によって滅亡してしまいます。そして狗奴国王であった仁徳天皇は第五世紀初頭までに浪速に遷都して九州・本州西半を制する強大な統一国家を現出します。
2日 仁徳王朝

仁徳王朝は、朝鮮植民地の確保を本願とし、高句麗との激烈な戦闘を継続したため、軍事力の維持、増強の必要から本州東半への征服。開拓運動を絶え間なく行いました。

3日

しかし、仁徳王朝は兄弟相続という特異な皇位継承法を採用していたことが一因し、有力民族を巻き込んだ激しい内訌を経て、雄略天皇の後、遂に皇位継承者が絶えるという事態に陥ってしまったのです。

4日 継体王朝

そこで当時、勢力のあった大伴氏が越前から継体天皇を迎え新しく継体王朝が始まったのでした。以上の経緯は、第三章において詳しく述べたわけですが、このような王朝交替劇によって古代史を再構築するのが私のいわゆる三王朝交替説です。

5日 古墳から見た古代王朝の実力 第三世紀末ごろから大和を中心として大型の前方後円墳が各地に波及していますが、これは崇神王朝の伸張と機を一にするものと思われます。
6日 ただし、古墳文化というものが、大和朝廷(ここでは崇神王朝)によって突如としてて発生した文化であると見なすことは「弥生古墓」などの最新の考古学的知見によって疑わしいものとなってきています。
7日

寧ろ、各地に見られる弥生期の墳丘墓などからの発展形としての古墳ということが考えられるようになってきておれ、必ずしも大和朝廷によって古墳文化がつくられ普及させられたと見ることは出来なくなっている状況です。

8日

古墳の発生に就いては今後の研究が待たれるわけですが、少なくとも大型古墳を築造するほどの権力、つまり統一国家的な強大な権力がこのころ生まれたということは間違いありません。

9日 仁徳陵

そして中期古墳、つまり仁徳王朝のころになると、巨大前方後円墳が畿内を中心にして増産されており、この期の権力が著しく大きくなったことが伺えます。一説では、この仁徳王朝のころの古墳を前時代と異質なものとみなし、そこに騎馬民族による王朝樹立を考える立場もあります。

10日

しかし私は仁徳王朝が騎馬民族を遠い先祖とすることは認めても、この期に変革的な古墳文化の変容を認めてそこから他民族による日本統一があったとするような古代史の構成は考えません。

11日 大和朝廷の権力安定

巨大古墳の後、後期古墳の時代、第六世紀に入ると古墳は小規模化するとともに群集墳が造られるようになりますが、これは家族墳の普及というだけでなく、地方豪族の権力の分散ないし縮小、逆に言えば大和朝廷の権力安定、朝廷内で権勢をふるう中央豪族の勢力伸張という政治情勢を反映したものと言えます。そして、第七世紀、末期古墳の時代になると、古墳文化そのものが衰退していき、律令体制の強化と氏姓社会の解体という状況を反映するようになります。以上は第四章においてみてきたところです。

天皇と有力豪族の権力が匹敵した時代

12日 有力豪族の台頭 さて、本章では三王朝交替説における第三番目の始祖である継体天皇の擁立期かせ聖徳太子が摂政となられた推古朝にいたるまでの概略を見ていくのですが、時代的にはちょうど第六世紀、つまり後期古墳の時代ということになります。
13日

この時代、天皇陵は方墳に変わり、畿内の古墳の数は減少します。また規模が小さくなるとともに天皇陵と有力豪族のものとみられる古墳との間に規模的な格差がみられなくなり、一方では群集墳が各地にみられるようになるわけです。この事は、大和朝廷が国内統一権力としては安定してきたが、朝廷内における有力豪族の権力が天皇権力と匹敵するほどに伸張していた一つの現れとみることもできます。

14日 (おみ)(むらじ)的連合組織内部の抗争  そもそも、中期古墳の時代、つまり仁徳王朝の時代の国家組織は、(おみ)(むらじ)的連合組織であったと考えられます。臣・連とも朝廷内での豪族の地位を表す(かばね)ですが、おおむね、臣が旧来の大豪族に、連は朝廷の一定の職務を担当した豪族に与えられた姓であったと考えられます。
15日

大臣・大連は、それぞれ臣・連の姓をもつ有力豪族を代表し、朝廷の最上位の官として政治に当ったとみられます。

16日

仁徳王朝においては、諸豪族長は統一君主の下でそうした臣・連的な地位を得て世襲的官司支配組織を構成していたと考えられるのです。

17日 内訌発生の危険 そして征服王朝たる仁徳王朝は、世襲的な臣・連的連合組織として支配階層を固定すると同時に被支配階層も固定することで王朝の権力を確立したわけですが、そうした王朝の基本的性格は支配層内部における内訌発生の危険を初めから内包していたものと言えます。
18日 その内訌は、単に臣・連的大氏族間の抗争、あるいは新旧氏族間の対立というだけでなく、天皇の地位を巡る争いと絡んで天皇家を巻き込む権力争奪戦へと拡大する必然を伴っていたのです。
18日 継体天皇

有力豪族間の抗争は、兄弟相続制による皇位継承の抗争と絡み仁徳王朝においては正に骨肉兄弟が互いに相攻めあう内訌が絶え間なく発生しました。挙句の果て、雄略天皇崩御の後、遂に皇位継承者としての男児の皇族が事実上皆無という異常事態にまで至ったのです。そして、この時期、一歩抜きん出ていた大伴氏が、とうとう越前から継体天皇を迎えて継体王朝を樹立したのでした。

20日  
(おみ)

註 (おみ)
  氏姓制度の固定とともに孝元天皇以前の皇族出と伝える氏に多く与えられ、有力な者は大臣となって国政に参画した。

21日 (むらじ)

(むらじ)
 むれ()・むら()のあるじ()の意味と言われる。
(しん)(べつ)諸氏(しょし)に多く、伴部(ともべ)の首長として朝廷に仕える者に与えられた。連姓のうち、大伴・物部などは、大連(おおむらじ)と称して政界に威を揮った。

22日 姓  
古代氏族の史や名につけた称号。諸豪族が大和朝廷に組織され、一定の職掌を分担世襲するに至ると、姓もそれに応じて朝廷から授けられ、次第に秩序づけられていった。姓には、(おみ)(むらじ)
宿(すく)()(みやつこ)(きみ)(あたい)(おびと)など数十種ある。
23日 官司制

官司制
 律令国家の確立以前に成立した大和朝廷の官僚組織。六世紀から推古王朝前後に形成されたものとされる。天皇・皇太子と大臣の下に大夫(まえつきみ)と呼ばれる畿内出身の有力氏族の代表者が集まって重要な政事を合議・奏請した。その下部機関には政治の実務を担当する伴造(とものみやつこ)がおり、()(ひき)いて宮廷の諸官司を構成し、諸地域の首長を国造に任命し、地方政治組織の軸とした。

大伴氏の盛衰
24日 継体天皇擁立の経緯 23講の復習になりますが、大伴氏の台頭を見るために今一度、継体天皇の擁立の経過をみておきましょう。
25日 飯豊

第五世紀の末に雄略天皇が崩じられ、そこで仁徳王朝が断絶し、その後を継いで飯豊(いいとよ)(あおの)(みこと)が擁立されたと私は述べましたが、そのことは、歴史には記されていません。飯豊(いいとよ)(あおの)(みこと)は御歴代に公式には加えられていない天皇です。

26日 飯豊天皇

しかしも「記紀」ともに飯豊(いいとよ)(あおの)(みこと)が一時政治を執られたという話を載せており、それを基に私は飯豊天皇を一代に認めるのです。今日でも飯豊皇女の御陵には「飯豊(いいとよ)(あおの)(みこと)陵」という標識が宮内庁によって立てられていますから、決して私の考えは出鱈目ではないのです。

27日

私の考えのポイントは要するに雄略天皇から継体天皇にいたる間に、飯豊天皇という女帝を一代加えようということにあります。

28日 皇子を探す物語 「記紀」では、雄略天皇の後、だれを天皇に擁立したらいいかというので、前々からおられた皇子の中で、皇位継承するに相応しい皇子を探す物語が伝えられています。
29日 四代の天皇

(せい)(ねい)顕宗(けんそう)(にん)(けん)武烈(ぶれつ)という四代の天皇を立てておきながら、その間にも絶えず皇子探しの物語が出てきており、実に不自然な記述になっています。

30日 架空の天皇

そこで、これらの四代の天皇について詳細に「記紀」の記述を検討してみると、まず清寧天皇はその諡号(しごう)や尊号が後の時代のものであることなどから架空の天皇と思われ、他の天皇についても、その在位年数や「古事記」の(ほう)(ねん)干支(かんし)註記(ちゅうき)の有無、血統のつながりの矛盾などから考えて、いずれも架空の天皇と断じてよいと考えます。

31日 創作された天皇

暴君の武烈天皇などは、中国的な合理主義的思想から聖帝である仁徳天皇に始まる皇統も武烈天皇という暴君が出たとめに王朝は断絶したという説明をするための明らかに創作された天皇と見られます。