清貧(せいひん)に就いての考察 その三 

 平和22年7月度            岫雲斎圀典「清貧に関する考察」索引  

 1日

富貴を臨んで縁組してはならぬ、(ろく)なことにならぬ、それは人間関係を(そこな)うばかりでなく人間そのものをダメにすると若者に言い聞かせていた。

 2日

妙秀が最も重んじたのは、何よりも人の心であった。例え貧しくとも、夫婦の間に愛情さえあれば「いかほど貧しくともたんぬべし」と言った。人の幸せは富貴か貧乏かによるものではない、ひとえに、ただ人の心の在り様によると言っている。

 3日

妙秀は、貧困より起きる不幸よりも富貴が人の心に及ぼす害毒を重視していたのである。貧しくとも人間らしいほうが余程よいと考えていたのであろう。

 4日

そこで纏めとして妙秀の心構えの原理を列記してみよう。
一、身の貧なる事には苦しからず、富貴なる人は慳貪にて有徳(ゆうとく)(なり)つるやらんと心もとなし。
二、金銀など持参する嫁を尋ねるはふがいなし、禍の基なり。
三、金銀を宝と好むべからず。
四、夫婦の仲互いに大切ならば、いかほど貧しくともたんぬべし。

 5日

これが妙秀の生き方の原理であり、人を観る基準であったのだ。現代人がいかに、判断基準に「損か得か」になり過ぎていることかと判るではないか。

 6日

妙秀の所有に関する話がある。人間が生きてやく為に、一体何が必要か、何が必要でないかをよく省察していたと思われる話である。人ひとりが心の充実を図りながら生きてゆく上で、住居、家具、衣類、食物その他生活のあらゆる面で、何が有れば足り、何が無ければ不足か、現代人き考えたことがあろうか。それを考え抜いた、凡そ極限と思える程、きりつめた簡素極まりない所有となって現実に示している。

 7日

妙秀は90歳で死んでいるが、死んだ跡を見ると、唐島(からしま)単物(ひとえもの)一つ、かたびらの(あわせ)二つ、浴衣(ゆかた)紙子(かみこ)夜着(やぎ)木綿(もめん)のふとん、布の枕ばかりでこの他には何も無かった。

 8日

妙秀のこの人柄に畏れを抱いていた一類の子孫は大いに重んじられて我も我もと孝養を競った。訪れる度に、土産、時服を献上する。だが妙秀はそれらを貰う度に、みな()ち切って、帯、えり、頭巾(ずきん)手覆(ておお)い、ふくさなどに仕立て直し大勢の人に与えてしまうのであった。

 9日

小袖(こそで)を差し上げても最早や袖を通すことはあるまいからと、銭を差し上げると一入(ひとしお)に喜ぶ。そしてその銭で色々な物を山ほど買いおいて、家を持つ者には(ほうき)(ちり)取り、火打ち箱、火ばし、または硫黄を取らせ、六尺(ろくしゃく)や草履取りには、ワラジ、こんごうを、女には、糸、綿、鼻紙、手拭いをとらせ、また厚紙を求めて手ずからよく揉みほぐしておいて、薬売り、乞食、非人を招いてこれを背に当てるがよいと大勢の者に与えるのであった。

10日

世間では、ともすれば、金銀でも持ち物でも多く所有すればする程に人は幸福になると信じているようであるが、これくらい間違った考え方はない。寧ろそれは逆であり、所有が多ければ多いほど「人は心の自由」を失う。

11日

人は所有が多いほど、所有物に心を奪われる。心は物の奴隷となってしまっている。人間が自由にのびのびと日を送ろうと念ずるならば、物欲を捨てることということになるのである。物への執着から自由になった時、人の心はどれくらい豊になるか分かるような気がする。

12日

徒然草の百四十段にある。「身死して(たから)残る事は智者のせざる処なり。よからぬ物蓄えて置きたるもつたなく、よき物は、心に止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。(のちち)は誰にと志す物あらば、生けらんうちにぞ(ゆず)るべき。朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき」。

13日

徳永の徒然草口語訳にはこう解説している。「自分の死後に財産を残しておくということは、智者はしない。つまらぬ物を蓄えておくのはみっともないし、良いものであれば故人がそれに思いを残したと思われるのも虚しい。遺産が多いのは何にもまして感心しない。「自分が貰う」などと言う者がいて、死後に争うのは醜い。死後にあの人に与えたいと決めた物があるなら生きている間に譲っておいたがいい。朝晩なくて困るものなら兎も角、それ以外の物は何も持たないでいたいものだ。

14日

妙秀の生き方は兼好が記したことと同じであろう。潔い生き方という思想と言える。それこそが本当の財であり、以後、妙秀の思想が本阿弥家の家訓となり代々の子孫の生き方の規範となったのである。

15日

大事なのは他人の目でなくて「己の心の律」だという良い話がある。例え誰独り知らなくても、己れ独り心に省みて疚しいことをすれば、もはや己はダメになったとする心持こそ、最も大切であり露見しなければ法を犯してどんな汚い金でも平気で手に入れようとするような輩--小沢一郎のような--とはまるで心掛けが違う。

16日

本阿弥家は足利尊氏の頃から刀の目利き、研ぎ、磨きを家業としている。その家業の心得に妙秀や光悦の倫理観が働いていた話である。光悦の孫、(こう)()の体験談がある。

17日

(こう)()が江戸滞在中、松平安芸守の屋敷に呼ばれて行くと腰の物奉行の今田四郎左衛門が古鞘に入った錆び刀を取り出して「国元よりこれを代金二枚で払ってくれと頼んで来た故、ほうぼうへ見せたけれども望む者もなく、買い手も見つからぬ、そなたの手でどこぞへ売り払ってくれぬか」と言う。

18日

そこで、(こう)()がつくづく見ると錆びてはいるが刀は正しく正宗である。だからこう言った「よそへ出すには及びませぬ。払うと仰せられるならいか程高価でも我らが引き取りましょう。だが、後で後悔めさるな」と。

19日

するとその場に居合わせた重臣たちが興味を持ち「さいさい、そのほう、その刀が殊の外気に入った顔付であるな、してこの刀は一体何であるか」。と尋ねるので(こう)()は正宗に間違いありませんと断定する。一同大いに驚いた。

20日

(こう)()はその刀を京都に持ち帰り、研ぎあげて見ると、刀は真価を輝かし、見れば見るほどいい刀になった。研ぎあげて一族の長の(こう)(おん)に見てもらうと正宗という(こう)()の判断に間違いなく光温は判金二百五十枚という切紙をつけ、更に正宗と象嵌(ぞうがん)を入れた。

21日

松平家では刀奉行が売り払ってくれと言うのだから、並みの商人であれば、これは勿怪(もっけ)(さいわ)いとばかり知らぬ顔をして二両で買い取ったであろう。別にそれは悪事でもない、が、本阿弥家では、目利きたる自分が見て正宗と分っているものを、相手が知らぬからと云って引き取るような所業を恥とした。

22日

大事なのは金儲けではない、刀の目利きにかけては自分たちこそが権威であるという誇り、自負、これが何より大切であり金に目がくらんでこの誇りを傷つけるくらいなら死んだほうがましだと思っているのである。「己の心の律」が本阿弥家の尺度なのである。

23日

(こう)(おん)の祖父の光徳の逸話がある。或る時、家康に秘蔵の正宗の脇差を見せられた。足利公方家(くぼうけ)の宝とされて来たもので足利尊氏直筆の添状までがついており、家康の予ねての自慢の品であった。

24日

処が光徳が御前でその刀をよくよく見ると、刀は焼き直し物で、到底使い物にならない。そのように正直に申し述べると、家康は途端に機嫌が悪くなり、「なにとてさようなことを言うぞ」と心外でならぬ風であった。

25日

光徳は重ねて言うのであった。「尊氏公の添状があったとて何の用にも立ちませせぬ。尊氏公が刀の目利きであったという評判もなく、なにより尊氏公の頃は正宗も新身(あらみ)でありました。

26日

光徳は断固として言って退けたので、家康は、慮外な奴と、以後二度と光徳を召出すことはしなかった。絶対権力者である家康の前で、最も率直に正直に見る所を言って憚らなかった光徳という人であった。刀の目利きにかけては自分こそが天下の権威という誇りは最高の権力者の前に出ようと聊かも変わらなかったのである。

27日

本阿弥一族にとって何より大事なのは、先ず自己の自己に対する誠実であって、それを重んずる余り社会に対する姿勢は時にこういう愚直な程の剛直さとなって現れた。外に対する器用さよりも「己の心にたがうことを行うのを恐れる心」であった。

28日

本阿弥一族が早くから、このような近代人の意識を持つことが出来たのは、この一族が代々極めて熱烈な法華信徒であった為と言われている。「神仏を畏れる」という垂直な内面的心棒」があった為に、「他に拠ってでなく自分で自分を律する」という「近代的自我」を確立していたのであろう。

29日

本阿弥一族は、足利将軍義教時代、本阿弥清信が獄中で日親上人――焼け鍋を頭にかぶせられるという凄まじい拷問にも屈しなかったので鍋かむり日親と言う傑僧――に帰依して名も本光(ほんこう)と改めて以来、代々剃髪(ていはつ)して光の字を名乗るに至ったもので、みな非常な法華(ほっけ)信徒であった。

30日

こうして本阿弥家は、例え、世間の目が許しても、「見えない存在」に対して許されない行為はしない、という剛直な精神を造り上げて行くのであった。

31日

家父・光悦は一生涯へつらい候事至って嫌ひの人にて、殊更日蓮宗にて信心あつく候。と本阿弥行状記にある。