聖徳太子は長男か末っ子か

太子が用明天皇の皇子の中でどのような位置にあったのかという点ですが、「日本書紀」は「用明天皇紀」元年正月の条において、太子を皇后穴穂部間人皇女の四皇子のうちの第一番目にあげています。そして、穴穂部間人皇女の四皇子を紹介した後、さらに蘇我稲目の(むすめ)石付名(いしきな)の一皇子、葛城(かつらぎの)(いわ)(むら)(むすめ)・広子の一皇子・一皇女を順次紹介しています。即ち、用明天皇には皇后穴穂部間人皇女を含めて三人の妃がおられ、その三人から六男一女の御子が生まれ、太子がその筆頭に紹介されているのです。

しかし、「日本書紀」の皇子の記載の順序は必ずしも兄弟順でなくまた庶兄弟との先後も記載順の通りでない場合が多いのです。

実際、先程引用した同じ「日本書紀」の「推古天皇紀」の元年4月の条では、太子は「用明天皇の第二子なりと紹介されています。これは穴穂部間人皇女の第二子という意味ではなく、石付名の子・田目皇子についで第二子なりと言っているのです。と言うのは、「上宮聖徳法王帝説」には、「聖王庶兄多米王(田目皇子)とありますし、稲目の(むすめ)である名付名の方が元妃であり、間人皇女は後から妃になったと見られ、田目皇子は太子よりずっと以前に生まれていたとみるのが順当なのです。

それでは、「推古天皇紀」の言うように太子を用明天皇の六皇子のうちの第二子とみてよいのかと言えば、それも正しいとはいえません。少なくとも穴穂部間人皇女のうち太子の次に紹介されている来目皇子は、推古天皇十年に兵二万五千の新羅遠征軍の将軍になっていますが、その時、太子はまだ二十九才であり、大将軍に任じられた来目皇子がそれより若い年齢であったとは考えがたいのです。つまり、来目皇子の方が太子の兄であろうと考えられます。

こう見ていくと実のところ太子はとても用明天皇の第一、二子とは考えられません。それでは実際のところ第何子だったのかと言えば、私は「推古天皇紀」にも、「上宮聖徳法王帝説」にも、用明天皇が太子を他の皇子よりことさらに寵愛されて常に側において愛育されたと記されていることや、先程述べたように天皇の晩年、56才、の御子であるとみられることから、一番末の皇子ではなかったかと考えます。

恐らく太子が末っ子であり、しかも聡明な皇子であたため、高齢の用明天皇は特に可愛く感じられ、太子に目をかけられたであろうと想像するのです。「日本書紀」が太子を第一子、第二子と記したのは摂政となって天皇を代行して目覚しい治績をあげられた太子を尊んだためであろうと思います。

 

幼少期の成育環境

太子を愛育した父の用明天皇ですが、その用明天皇にせよ母である穴穂部間人皇女にせよ、どちらにも蘇我稲目の女と欽明天皇の間に生まれた皇子・皇女です。従って太子が蘇我的環境にどっぷりつかってその湯幼少期を過されたということは間違いないことであり、当時の蘇我氏が崇仏派の筆頭として排仏派と対立していたことを考えれば、仏教的な教育を受けて成育されたことは想像にかたくないところです。

時の権勢家・蘇我氏の後ろ楯の中で、父母の寵愛に育まれながらその聡明な頭脳に仏教的理念を存分に吸収されていった平穏な幼少期、しかし太子のそうした比較的に恵まれた環境にも次第に当時の政局が影を落としてきます。

太子が14才の時、父用明天皇は亡くなり、母穴穂部間人皇女もその直後に田目皇子に娶られていき、この年太子は父母と離別するという精神的試練に直面しました。然し、そうした父母との離別の悲しみにひたる間もなく、蘇我氏と物部氏の政争の中へ引きずり込まれていったのです。

用明天皇の二年四月、天皇が崩御され、それから三ヶ月たった七月、馬子は諸皇子・群臣を自分の旗の下に集めて物部守屋(もりや)の討伐を決行しました。この時も馬子に随従した諸皇子は、(はつ)瀬部(せべの)()()(父は欽明天皇、母は蘇我稲目の女・小姉(おあねの)(きみ)。穴穂部間人皇女の同母弟。後の崇峻天皇)、竹田皇子(父は敏達天皇、母は欽明天皇と稲目の(むすめ)堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれた額田部(ぬかたべの)皇女(みこ)。額田部皇女は後の推古天皇)(うまや)(どの)皇子(みこ)(聖徳太子)、難波皇子(父は敏達天皇、母は春日(かすがの)(おみ)仲君)、春日皇子(難波皇子の同母弟)の五皇子です。

これらの皇子はみな、蘇我系の妃の皇子か、春日臣族のように蘇我氏に従っていた氏族の皇子なのです。従って、蘇我氏と物部氏の抗争は、崇仏派と排仏派の宗教的対立を表面上の理由としてはいるものの、字月質的には両氏族間の権勢争いという性格を持ったものであることが明らかです。太子は14才にして、否応なくそのような両勢力の渦中に我が身をおかなければならなかったのです。