改めて噛み締めよう 「素行自得」鳥取木鶏会

素行自得       
君子は其の位に素して行い、その外を願わず、富貴に素しては富貴に行い、貧賤に素しては貧賎に行う。()(てき)に素しては夷荻に行い、患難に素しては患難に行う。君子入るとして自得せざるなし(中庸)

意気地無く、或いは卑怯に、現実を逃避しないで、正直に、着実に、勇敢に現在の境地に立脚して勇往這進してゆくことを、「素行」という。
 素行にしてはじめて人間は自己を把握することが可能である。これが「自得」である。現実を暖昧にした生活は妄想に過ぎぬ。とりとめのない感傷的気分や観念の遊戯に過ぎぬ明け暮れは徒らに自己を散漫にし、いわゆる「己を(うしな)う」。人間はとかく労を避け、安逸につきやすい、勉強も独りでは往々そういう邪路に陥りやすい。 その為に欲しいものは、明師良友である。明師良友は得難くとも、古人を友とし(尚友と言う)、古典を(ひもと)くことにより、或いはより以上の感化を蒙ることができる。

素行の会=鳥取木鶏会

「人生のキャンバスに思いっきり絵を描いてみたい」と思わない人はいない。それへの挑戦!が人生だといっても過言では無い。自分の人生に主人公になれず、こんなものではなかったはずだと悔やむことが多いのもまた人生。いかにして自分の人生の主人公になるか!これは人生最大のテーマ。

 「その位に素して行い、この外を願わず。富貴に素しては富貴に行い、貧せんに素しては貧賎に行う」(14章)   

(優れた人は現在の地位に付随する使命を自覚し、それを果たすべく力を尽くし、それ以外のことは願わない。生活も富貴であれば富貴な生活をし、貧賎であれば貧賎の生活に甘んじる。少しもこだわるものではない)

  つまり、自己表現の秘訣は、おれが、おれがという自己主張にあるのではなく、逆に雑音には耳を貸さず、自分の使命成就にひたすら邁進し、その結果である富貴も貧賎も甘んじて受け、それには少しもこだわらない生き方にあると説いています。

高下駄履いて背伸びし、自分がさも何者であるように見せ、相手ようりも優位に立とうとすることが多い世の中で、『中庸』が説く「その位に素して行い、その外を願わず」は一つの大きなヒントを投げかけてくれている。

私たちの会は、一度しかない人生を最大限表現するために、先賢に学び、志を養っていく集まりで『素行』のような価値観を保持して、凛と行きたいものであります。 

古典と国家民族の生活

 不幸にも今日の日本は、古典についての教養を持つ、そういうことが酷く荒んでおります。然もその欠陥が、国家・国政ばかりでなく、既に民族生活の核である家庭の中にまで入り込んで、今や日本の家庭生活は歴史的にかってなかったような危機に瀕しておると言えます。

家庭生活の破壊は民族の滅亡につながります。いかに経済政策がどうの、福祉生活がどうのと言うたところで、家庭生活が健全でなければ国は持ちません。従って、これを救うには、結局は国民に本当の意味に於ける教養、単なる知識とか技術というようなものではなくて、人間としての心得である教養を厚くすることより外にはありません。これは政治学から言うても、民族学から言うても、動かすことの出来ない真理であります。     (東洋思想十講) 

人間の五交

 このようにして次第に人間が社会的に出来てゆくわけでありますが、それに従って今度は人間同志の交わりが生じて参ります。儒教はこの人間の交わり、交遊についての研究・観察がまた非常に発達して、一つの立派な学問を形成し、これに関する文献も実に豊富であります。その交遊に関する学問の中で特に面白いというか、興味深いのは、これを「素交(そこう)」と「利交(りこう)」の二つに分けていることであります。 

「素交」とは、素は白い生地という意味ですから、地位だの、名誉だの、何だのと言った、いわゆる為にする所のない交わり、人間そのものの自然なつきあいも一切の手段。修飾を取り去った裸のつきあいであります。これは儒教に限らず、仏教でも神道でも非常に大切にします。その素交の中で一般によく知られておるのが「忘年の交」「忘形の交」であります。但し、世俗はこれをやや誤解し偏用しております。例えば忘年会ですが、忘年をその年の憂さを晴らすことのように思っております。本来の忘年は、そうではなくて、文字通り年を忘れることです。心と心とのつきあいをする。これが「忘年の交」であります。 

                              徳永圀典