安岡正篤先生「一日一言」 そのI

平成25年7月

1日 先考(せんこう) 親を亡くした人の慰霊祭があり通知を受ける度に感じることがあります。亡き父の法事のことを先考(せんこう)の何年、先妣(せんぴ)の何年と書いてあります。先考(せんこう)先妣(せんぴ)と言う字を時々見るたびに感ずるのでありますが、昔の人は実によい言葉を使ったものである。なる程、孝という字は考えるという意味であります。また、成すという意味であります。孝成という言葉がある。これは孝という一字でもよいのであります。それから老いるという意味もあります。しからば、亡き父をなぜ先だった孝,先孝と言うかと申しますと、我々子供の時は親の言う事、考える事が良くわからない、年をとって、つまり人生を久しゅうするに及んで、自分が亡くなった父の年ごろになって初めて、流石に父はよま考えておった、自分が若い時に得意になっておったのはまだ生だった、まだまだ至らんものだった、父はよく考えた人であったと言う事がよくわかる。年をとって初めて父はよく考え、成した人であったことを解するに至る。そう言う意味で、私は先考(せんこう)と亡き父を呼ぶことに非常な意義を感じます。
2日 先妣(せんぴ)

 それと同時に母についてもそうであります。先妣(せんぴ)という()という文字は、ならぶという意味であり親しむという意味も含んでおる。亡き母は亡き父の配偶である。そういう意味でも()という文字を使うのでありますが、それと同時に母というものに限りない親愛を覚える。その意味も含めておる。母が亡くなって自分が母の当年のような年頃になる、或いは自分の連れ添う女房が亡き母の年頃になる。自分の姉や妹がぼつぼつ母に似てくるという年頃になって初めて、母が父に連れ添ってどんなに苦労し、どんなに尽くしたかと言うことがわかる。また母というものに親しき懐かしさがしみじみとわかる。心からものを産み、ものを育てものに親しむということができるようになった。 (講演集)

3日 アナタ 1947年正月、南極探検隊の昭和基地での越冬生活中、全員をシュンとさせたのは、ある隊員の国許の夫人から来たアナタというたった一語の電報であった。たった一語、千万無量の思いである。これ以上の表現はない。
 今日、心ある日本国民は皆このあなた!と言いたい宰相を欲しているのである。そして、俺が俺がというものばかりにウンザリしている。そんな俺がでは駄目。あなた!と呼びたい人がない以上、私は私でやってゆく。せめて私の一隅を照らす。あなたもそうですか。それは嬉しい。これが一燈照隅であり、やがて万燈遍照にもなろう。即ち今はこれしかないのである。    (憂楽秘帖)
4日 元と言う文字には少なくとも三つの意味がある。元は形態的に言うならば、根本、本になる。つくると言う意味から言いますとはじめ(○○○)になる。部分的でない全体的であると云う意味で、これをおおい(○○○)にと読む。そういう非常に複雑な混然たる、天地創造の意味を元、そのエネルギーを元気というのであります。               (講演集)
5日

人間は元気次第

人間に先ず以て大事なものは、この元気であると云うことであります。いついかなる境地に処しても常に元気である、元気というものは朗らかである。晴れ晴れしておる、快活である。だから人間はいつも快活を失わないということ、これが先ず以て人間の徳の初めであります。元気でないというのでは、そのあと何を言うても仕様がない。いかなる事があっても、いかなる場合にも元気である。(講演集)
6日 朝の元気 日本の神ながらの道、古神道と言うものがある。これは民族精神、民族文化の最も、それこそ骨髄、真随であります。神ながらの道の一つの根本は、この元気と言うことであります。これは常に清く明らかである。
7日 清明心 そこで清明心。一口で言うならば朝の元気である。朝の心である。一年で言うならば元旦の心である。天地で言うならば天地創造の初めの心である。常に我々がそこに立つ。これが古神道の一番大切な真髄である。この元気、気力、骨力-元気を持つものが骨力でありますが、これあるによって人間に進歩があり、そこに必ず、現実にありきたらないで限りなく進歩向上を求むる精神が発達して参ります。 (講演集)
8日 暁 その一 ある朝、今まで何やらわけがわからず闇の中を蠢いていたものがだんだんわかるような気がしていた時でありました。私はふと「暁」という字を思い出すと共に、この字をあきらかと読み、さとると読んだ古人の心がしみじみとわかるような気が致しました。あきらかと言う字は外にも沢山ありますが、暁のあきらかは、夜の暗闇が白々と明けるにつれて、静寂の中の物のあやめ・けじめが見えてくる、物のすがたがはっきり見えてくると言う意味で、言い換えればそれだけ物事がわかると言うことであります。 誰でもそうですが、若い時は夢中になって暮らしていても、或る年齢に達すると、丁度暁を迎えたように物事がはっきりしてくるものです。物事がはっきりわかると言うことは、つまりさとるということです。              (東洋思想十講)
9日 暁 その二 もう一つ同じあきらかでも少し趣の違うのが「了」という文字です。これは、あきらかと同時に、おわると言う文字であります。弘法大師の詩に「閑林独座草堂暁。三宝之声聞一鳥。一鳥有声人有心。性心雲水倶了々」という有名な七言絶句がありますが、この場合の了々はあきらかと言う意味です。漸く物事があきらかになり、人生がわかってきた時が、もうその生涯の終わる時でもあるのです。人間と言うものは実に微妙なものであります。了の一字深甚な感興を覚えさせるではありませんか。(東洋思想十講)
10日 人間完成の九段階
その一(野と従)
老荘家の人間完成の九段階というのがある。これは荘子の雑篇(寓言)にある有名なものでありますが、例えば、あるがままの人間の状態を「野」と言う。粗野、野蛮の野。これはまだ垢抜けがしていない、修養の加わらないあるがままの状態。これが真理を聞き、道を学んでやや出来てきた状態、と言うよりは、あるがままの無知な素朴な状態ではなく、真理とか道に傾けです状態、そういう状態を「従」という。     (禅と陽明学)
11日 人間完成の九段階 
その二(通と物)
一年にして野なり。二年にして従なり。三年にして「通」。これは真理を聞き、道を学んでだいぶ通じてきた、ある程度の所まで進歩してきた状態である。そこで四年にして「物」、いわゆる物になる。とにかく、あるがままの最初の野より、従、通じて別の物になった。どうやら只の人間ではない、一つの本物になったと言うこと、四年にして物。これが第一次完成である。                     (禅と陽明学)
12日 人間完成の九段階 
その二(来、鬼入、天成)
そうすると、道を聞かざる前には無かった何ものかが、即ち別の力、或いはインスピレーションが現れてくる。これを「(らい)」という。五年にして来。新たなるものが第一次完成から出てくる。つまり道の中にぐんぐん入ってゆく。出て行くのではない、入って行くんです。そうすると第一次完成の後にインスピレーションがやってきた、何か精神的なもの、つまり霊的なものが入ってくる。これを霊と言わずに、老荘流に「鬼」という。六年にして「鬼入(きにゅう)」。そして七年にして「天成(てんせい)」。第二次完成に到達する。
13日 人間完成の九段階 
その三(不知死、不知生、大妙)
「物」までは人成だ。まだ人間的だ。そこから新たなるものが入ってきて、そこに何か神秘的作用が起って初めて第二次の完成、天成となる。人成でなくて天成。つまり人間から天に入った。そうなると、もう人間の生死などというものは問題ではない。八年にして死を知らず、生を知らず。「不知死、不知生」かくして九年にして大いに妙なり。「大妙」。
こう言うのが老荘流の心境、或いは人格発達の段階、道程である。まことによく表している。色々の法というものを最初からつけ加えてゆくのではない。全て去っていく。だんだん奥深く入ってゆく。そうして最後の幹に、根に到達する時に本当の生が働く。即ち大妙になる。
14日 親の顔見りゃ、ボクの将来知れたもの 1 東京のある中学校の先生が生徒に狂歌を教えて我が家を詠わせた作品の発表があった。実に恐るべき家庭の堕落頽廃をよく表現している。これは最も憂うべき民族の重患でもある事を慎思せねばならぬ。
この作品集は矢野寿男「親を見りゃボクの将来知れたもの」という単行本になっている。
1. 哀しさは 勤めに出ての たまにする 母の話題の そのくだらなさ           (中三男)
2. あの親爺 大学出たのは ほんとかな どうもあやしい 教養の無さ           (中三男)
15日 親の顔見りゃ、ボクの将来知れたもの 2 3.   あなたのネ パパが働き ないために こんな暮しをと 母 の口ぐせ           (中二女)
4.   あんな人 選んじゃだめよ あなたはね 体験がにじむ 母 の口ぐせ           (中二女)
5.    心から すがりつこうと する時に いつも父さん逃げてし まうよ           (中一女)
6.    人なみに 叱られてみたい 時もある 俺の親爺は俺がこわ  いのか           (中二男)
7.   家庭とは 父きびしくて 母やさし それでいいのだうちは 違うが            (中二男)
8. 地獄だな 心通じぬ 人たちが いやでも同じ 家に住むとは               (中二女) 
16日 親の顔見りゃ、ボクの将来知れたもの 3 3. みんなだめ 顔とけとげで いらいらで 他人みたいな わが 家族            (中三女)
9.残業と 母から電話 父と吾 ボソボソ食べる 味げない夕飯              (中三男)
稚拙なものであるが、いずれも痛いほど現実をつかんで投げ出している。政府や議会の堕落混乱、これは固より恥づべく憂うべきことである。会社や産業の不振衰微、これも困った苦しいことである。犯罪の横行、公害の蔓延、これまた一日も棄て置けぬ恐ろしいことである。然し、国家として、民族として、最も根本的本質的な危険なことは家庭の頽廃だ堕落である。国民が相愛し、相信じ、相扶け、相和してゆく家庭を荒ませ、亡ぼすことは、やがて国民・国家の破壊であり滅亡である。                    (憂楽秘帖)
17日 いかに善くあるか how to be good その一 ジョーン・M・ケインズ(経済学者、1883-1946)には絶筆と云っていい、亡くなる少し前に発表した「わが若き日の信念」という書物がある。その中で彼は、Itmuch more important how to be good,rather than how to be good(いかに善を為すかと言うよりも、いかに自ら善く在るかと言うことのほうがより大事である)と言う名言を残しておる。
「いかに善く在るか」と言うことは即ち「徳」のことであります。「善をなすか」とは「知」「行為」の問題である。つまらぬ人格の者でも寄付したり、出世したりすることは出来る。然し、いくら寄付をしたり出世しても、つまらぬ人間はつまらぬ人間で、却って富貴によって益々人間を堕落させ、大害をなしかねない。             (この師この友)
18日 いかに善くあるか how to be good その二 富貴貴賎・順風逆境、なにん処しても変わらぬ自分というものが真実である。即ち、人間は「功利」よりも「徳義」が大事だということであります。そして、人間が「いかに善く在るか」ということを最もよく反映するものは「情」である。
パスカル(1623-1662)などは、頭の論理に対して胸の論理、心の論理を打ち出し、感情と言うものは心の論理だと言っている。この情は愛と同じことで、洗練されないと「情緒」になる。情の糸口だから当てにならない。然し、これが良心・理性や修行・体験で磨かれていくと、一貫性や普遍性ができてきて「情操」になる。それず一つの全体性を持ってくると「情懐」になり、外に表現されてくると「情致」「情趣」になる。そういう人こそ「how to be good」である。「いかに善く在るか」ということを一番よく反映している人である。       (この師この友)
19日 大人の法則その一 我々のような者が世を処するのには、自分が年長だからと云って人を抑えるようなことをしてはならない。自分が善だからといって人の悪を外に顕すようなことをしてはならない。自分だ多能だからといって無能な人が苦しむようなことをしてはならない。          (陰隲(いんしつ)録を読む)
20日 大人の法則その二 自分の才能や知性は内におさめて、無きが如く虚しきが如くし、人の過失を見ては、しばらくこれを許して覆い(かく)してやる。それし一つには、自分から過を改められるように余地を与えてやるためであり、叉一つには、人間は誰しも己を省みて悪い所を忌み嫌う、即ち良心というものがあるから、それをかくたててやって我が儘勝手なことをしないようにさせるためである。          (陰隲録を読む)
21日 大人の法則その三 またその人間に例え小さくとも長所なり、善行なりがあるのを見つけたならば、さっぱりと自分を捨ててその長所・善所に従ってやり、かついかにも美しく(うらやま)()に褒め上けで、広くこれを語り伝えてやる。そうして凡そ日常生活の間に何を言うにも、何事を行うにも、一切自分のためにという考えを起さず、万物のために(のり)を立てるようにしなければならない。これが大人の天下を公となす法則である。(陰隲録を読む)
22日 敏という事
その一
私は常に貧など問題にしないで「敏」ならんことを心掛けておるのであります。敏と言えば、人は簡単に「すばしっこいこと」、「機転のきくこと」くらいに片付けてしまいますが、これは容易ならぬ大切な問題であります。人間は利害、特に目先の欲にかけては、それこそすばしっこい者が多いでしょうが、自分を大成するのに役立つ貴重な問題を捕えたり、自分に潜在している大切な能力を発揮する段になると案外鈍くなるものであります。
23日 敏という事 その二 朝起きて新聞を見てもも決まりきったニュースや、珍しくもないスキャンダルや、株の上がり下がり、人気者の評判記などは目敏く注意するくせに、もっと人間的に大切な記事などまるで気がつかない。映画はまめに見に行くが親の顔は滅多に見に行かない。つまらぬ「問題の小説」は買いに回るが良書を教えてもなかなか買いに行く暇がない。愚劣なことには頭も体もよく働かせるが、貴重なことには殆ど怠慢なのかせ世の常であります。そうならないで、自分も善くする為に仕事のてめに、友人のために、世の中のために、出来るだけ気をつけよう、役に立とう、まめに尽くそうと心身を働かすのが「敏」の本義であります。
24日 敏という事 その三 平たく言えば、いつも怠けたりぼんやりしないで、善い意味できびきびしていることであります。その代わり世間の下らぬことには、ずいぶん怠けるも宜しい。ぼんやりしているのも味があります。それは多少いわゆる損をするかもしれませんが、決して大損にはなりません。正直者が馬鹿を見る、とよく憤慨する人がありますが、そんな世の中はまことに善くないもので、少しでも改善しなければならぬことに相違はありませんが、本当の正直者なら、バカのような目にあっても腹は立たぬものであります。別に損とも思わぬからであります。孔子は、もちろん正直者で、だから随分馬鹿を見たらしい。「迂だなあ」と弟子からも嘆息されました。しかし孔子は自ら「敏」を以て任じていました。「自分は努力せずにすらすらと物事に通ずる者ではない。歴史上の模範を好んで、気をきかせ、努力してそうなろうとするものである」語っています。               (運命を開く)
25日 東洋的気分 東洋的気分というものがある。これは通常の気分屋などと使われているのと内容を大いに異にして、生活の中から(かも)しだされる人格の色調をいうのである。この東洋的気分の一つに「(ものうい)(物憂い)」ということがある。(ものうい)とは気が進まない、面倒だということであるが、真の意味は俗事にかかわるのがものうい、功利には気分が進まないということ、これが東洋的気分というものだ。そして、この(ものうい)という気分を少し斜めに見ると「(おごり)」となる。これも単なる傲頑(ごうがん)とか、分らずやの頑固者とは違って、真の人格の自由を保とうとする外圧への反抗、これが東洋では大事にされるのである。それにもうもう一つ、東洋的気分に大切なのは「優游(ゆうゆう)」、つまり物と(あそ)()ぶ気分のことだ。物と游ぶとは、きれいな花を見て、それを手折(たお)ってわが家の花瓶(かびん)()けるというより、自然そのままのその姿を()でる心、これを真の美とする気分である。(安岡正篤先生人間像)
26日 道徳の本義 
その一
道徳を簡単に説明しますと、東洋では、宇宙人生と言うものを一貫して営んでおり、これがなければ宇宙・人生は成立しないという最も本質的なものを名づけて「道」と言っておる。人間は、自然、天の一部ですから天人であり、天に基づいているごとく道に基づいているのです。 (人物を修める)
27日 道徳の本義 
その二
天人一体の考え方に立てば、当然、人が心に持つということは天が心を持つということになる。名高い宋代の名儒・(ちょう)(おう)(りょう)という人は、これを主張して「天地のために心を立つ」と云っております。大自然は長い間にわたる創造の後に、遂に人間というものを創りだして、これに心というものを開いた。人の心は天地の心であり、人間から言えば天地のために心を立てるのです。西洋流に言うと、神の為に心を立てる、即ち人の心は神の心であるということになります。
28日 道徳の本義 
その三
この宇宙生成の本質であり、天地人間を貫くところの創造・変化、いわゆる造化の本質原理である「道」が人間を通じて現れたもの、それを「徳」と言います。道と徳とを結んだのが「道徳」であります。徳は人間が営む社会生活を通じて現れるとものでありますから、それはやがて経済・政治・教育などの社会活動=「功」になって参ります。功はあらゆる人間活動を動かしてゆく「力」なのです。
29日 道徳の本義 
その四
また道は、人間のいかんにかかわらず、自ら作用を営む。それは驚くべき創造であるとともに大いなる変化でもある。そこでこれを「化」という。子供が大人になり、老人になる。これが化であります。道は万物を化する。「道化(どうげ)」です。サーカスなどに出てくる道化師のユーモアは、単なる駄洒落やふざけではなくて、どこか内に痛いほどの道、真実というものが秘められていなければなりません。それでなければ道化にならないのでああります。とにかく行為というものは、全て道・徳から出てこないと本当ではないと云うことであります。 (人物を修める)
30日 事業、徳業 
その一
事業と言う言葉は、言葉としては低い言葉であります。事業が進むと徳業というものになります。事業が徳業になるには、非常な志、いいかえれば理想精神を要する。そこで事業の事を取って志を入れ志業と昔から言いました。志業によって次第に徳業というものが出来上がるのであります。
31日 事業、徳業 
その二
人間は発達すると、単なる事業ではすまんので、事業を徳業までにしないと、本当の人間の仕事ではない。会社のような事業を経営致しましても、ただ人間が寄り集まって、そして組織して機械的に営むというのでは、これは事業であります。その事業に経営者の人柄、志、思想、信念、道徳というようなものが滲み出るようになって即ち事業が人間らしく生きて来るようになって初めてこれを徳業と申します。事業は徳業になるほど価値があり、生命があり、尊い永遠性をもって来る。単なる事業は時勢の変遷に逢っていつ挫折するか分りませんが事業が徳業になればなる程、生命を持ち、永遠性を持ってくるわけです。   (講演集)