45講 斉明天皇の新羅遠征 

朝鮮情勢と日本の思惑

朝鮮出兵とその時代背景

大化の改新はその初期においては一応の成功をおさめたかに見えましたが、(はく)()・斉明朝になってくると、改新政治に対する不満が噴出しはじめました。改革は進展せず、蘇我倉山田石川麻呂の惨殺、孝徳天皇の悲劇、有間皇子の謀殺といった血なまぐさい事件が目だってくるのも改新政治に対して反抗的な勢力が次第にその力を強めていた背景もあると考えられます。

有間事件において、蘇我赤兄が皇子を挑発するときに、斉明天皇の三大失政を挙げていますが、そこに挙げられているような政府による税徴収、労働力の収奪のありさまは確かに人びとの間に政府への不満を募らせていたでしょう。新しい政治体制である官僚主導型の律令制的中央集権化は国家の体面を保ち、政府の権威を示すためにも都や各地に離宮、行宮その他の大規模な建築・土木工事を必要としました。しかし、そのために駆り出された労働力や財は必ずどこかに皺寄せをもたらし、その不平不満が例えば大建築物に対する放火事件などとなって現れてくるのです。とどのつまり、鎌足・中大兄の改新政治から人心は離れつつあり、結果的にはそうした不満勢力を糾合した大海人(おおあまの)皇子(みこ)(天武天皇)が鎌足に代表される官僚貴族による政治を打破し、天皇親政を実現していくのです。

しかし、その天皇親政にたどり着くまでに、日本はまだ朝鮮出兵や壬申の乱という大きな事件を経験しなければなりませんでした。出兵とその敗北後の政治は改新政治に対する不平不満に一層の拍車をかけ、そうした政情を背景に壬申の乱が勃発し、天皇親政が出現するのです。本講義はそうした時代の流れを念頭におきつつ先ず朝鮮出兵をみておきたいと思います。

 

朝鮮情勢

 前世紀中葉、日本は新羅の侵略によって任那から撤退しましたが、その後も朝鮮半島に鼎立した高句麗・百済・新羅と交渉をもちました。例えば、崇峻天皇の四年、591年には任那再興のための遠征軍が派遣され、推古天皇の八年、600年と十年にも、聖徳太子が任那救援のため新羅征伐軍を派遣しています。

結局、任那は新羅に領有され続けたのですが、任那再興、朝鮮における権益の拡大は歴代の天皇・政府の懸案であり続けたのでした。

そして、国内が大化の改新で動揺しているころ、そうした思惑を持つ日本にとって朝鮮情勢は最悪の状況になってきたのです。

白雉五年、654年、日本では孝徳天皇が崩御された年、新羅では唐や日本にも滞在したことのある武烈王が即位しました。新羅はもともと唐の文化を積極的に取り入れていたのですが、唐の力の絶大なるを知っていた武烈王はさらに軍事同盟による半島の統一を目論見ました。

これに対し、東への進出を目論んでいた唐は、高句麗の抵抗に手こずっていたため、新羅と組んで百済を滅ぼし南北から高句麗を攻める作戦を採ったのです。

この動きに対して高句麗と百済が連合して新羅に侵入したことから、新羅も直ちに唐へ救援軍を要請し、斉明天皇の六年、660年三月、唐軍13万と新羅軍による百済侵略戦争へと発展したのです。

百済は大軍を迎え撃って善戦はしたものの七月、遂に百済王とその王子は捕虜となって唐へ連れ去られたのでした。ここに長年月、日本と同盟関係ほ結んだ百済は滅亡したのです。

 

女帝の親征行

日本側の対応

百済滅亡後もその遺臣たちは、再興をはかって反乱を起こしました。そして十月、その反乱勢力の一党・鬼室(きしつ)(ふく)(しん)の使者が日本に人質として滞留していた「百済の王子・豊璋(ほうしょう)を擁して百済再興をはかりたい、ついては日本の援軍もお願いしたい」と申し出てきたのです。

この申し出に応えることは、新羅のみならず唐まで敵にまわして戦うことを意味します。過去、新羅軍にさえ手こずっている日本ですから、かなりに議論があったはずですが十二月に出兵が決定しました。

申し出を承諾した日本は、翌斉明天皇の七年、661年正月、斉明天皇が自ら皇太子中大兄らを率いて新羅親征の軍を九州に進めたのです。

唐・新羅軍に抗して百済救援を行うという国家にとって重大な意味を持つ救援軍の発進です。しかもその遠征軍が斉明天皇を最高指揮者として行われた親征というわけですから、一大決意をもって事に処したかにみられます。しかし、実際にはこの斉明天皇の親征軍の行動は、それほどの緊迫した政治的・軍事的な作戦行動とき見受けかねる、極めて悠長なものでした。

 

大田(おおたの)(ひめ)皇女(みこ)の船中出産と額田王(ぬかだのおおきみ)の歌

「日本書紀」、斉明天皇紀によれば、七年一月六日、斉明天皇の御座船を含む船団は難波津を発進し、瀬戸内の海路をとって西征の途につきました。

ところが、出帆から二日目の八日、船団が小豆島の北方、現岡山県邑久(おく)郡の海上にさしかかった時、随行していた大田(おおたの)(ひめ)皇女(みこ)(父は皇太子中大兄、母は倉山田石川麻呂の(むすめ)越智娘(おちのいらつめ)、皇太子中大兄の弟。大海人皇女の夫人)が急に産気づいて御座船の中で女児を分娩されたのです。この重大な親征軍の船団の中に、それと知っていて臨月の皇女まで乗船させていたのは常識的にはちょっと考え難いことです。

「斉明天皇紀」には「御船、大伯(おおくの)(うみ)に到る時に大田姫皇女、女を産む。()りて()(むすめ)を名付けて大伯(おおくの)皇女(ひめみこ)()ふ」とありますから、身重(みおも)であった大田姫皇女が長路の船旅で体調を崩して急に異常分娩されたもののようです。そして、大伯(おおく)海上で生まれたこの女子は大伯皇女(大来とも書かれるが成人後に伊勢斎王となられた)と命名されたというわけです。

ともかく、とても親征軍中の出来事とは思えない皇女の出産などがあり、あげくの果て出帆かに九日目の十四日、御船は伊予(いよの)(くに)(にぎ)田津(たづ)に停泊し、そこで(いわ)(ゆの)行宮(かりみや)(現道後温泉)に行かれているのです。実に暢気な親征です。この道後温泉行は斉明天皇の温泉好きの趣向によるものでしょう。

この温泉泊まりについて、「斉明天皇紀」は特に何も記していません。しかし、万葉の歌人として知られる額田王(ぬかだのおおきみ)も斉明天皇に侍して親征軍中にあったらしく、船着場で出立のときを待っていた時の歌が「万葉集」に収められています。

  熟田津に 船乗りせむと月待てば

       潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

              万葉集巻一の八

「熟田津で船に乗ろうと月の出を待っていると、潮が満ちてきた。月も明るい。船出にはちょうどいいころだ。さあ、漕ぎ出そう」と詠んだこの歌は、力強くおおらかで、万葉秀歌の一つとして知られています。しかし、歌の評価はともかく、温泉で一休みしての女性歌人の歌詠みという状況自体、何かしらこの親征が必至のものではない、どこかに躊躇しつつの迷いがあったかのような印象を与えます。

「斉明天皇紀」は女帝の気紛れに当惑したように「三月丙甲の朔庚申(三月二十五日)、御船還りて、(なの)大津(おおつ)(現博多港)至る。(いわ)(せの)行宮(かりみや)におわします」と記しています。

「御船還りて」という表現は、熟田津に立ち寄ったのは、本来の計画予定になかつたことで思いもよらない寄り道をし、やっと本来の航路に戻ったという意味です。しかも、一月の十四日に道後に入り、やっと本来の西征航路に戻って(なの)大津(おおつ)に着いたのが三月二十五日、その間実に二ヶ月以上を費やしており道後温泉の滞在が相当の日数を費やしたことは明らかです。

ここに派手好みの旅行、温泉好きの斉明天皇の性癖が如実に表れているわけですが、その性癖を容認しえた親征はいかにも悠長なものとみるしかないでしょう。

 

斉明天皇の崩御と敗北の前兆

親征軍にみられる迷いの原因は何か

(なの)大津(おおつ)に到着後、(いわ)(せの)行宮(かりみや)に入った女帝は、その行宮に満足せず、朝倉橘広庭の造営にかかりました。これも女帝らしいといえばそれまでですが、とても決死の覚悟で親征に臨まれていたとは感じさせないものです。

肝心の百済救援は遅々として進まず、百済では日本の不誠意に業を煮やし、四月には鬼室福信がふたたび使者を遣わしてきて、王子・豊璋を早く帰国させて欲しいと要求してきたくらいです。

それにしても、親征に踏み切ったにもかかわらず、日本側のこうした百済救援に対する不誠意、作戦の悠長さというのは何に起因するのでしょうか。

私は、それは斉明女帝の性癖に起因するというより、鎌足と中大兄の迷い、突き詰めれば政権内部における意思統一に乱れがあったことの反映ではないかという気がします。そうした意思統一の乱れが迅速な対応の妨げとなり、斉明女帝の性癖を満たす悠長さを許したと考えるのです。また、軍略上の理由、例えば兵の徴収や軍事物質の調達に時間がかかったとか、朝鮮における勝算ある作戦の見通しが立たない、というような理由も考えられます。

しかし、全体的にみて親征を決定しておきながら、その遂行の仕方が中途半端なものであったことは否めません。兵の徴収や軍事物資の調達に時間がかかったのだとしても、その背景には政権内部における意思統一の不十分さや、政権に対する不満があるわけで、それは鎌足。中大兄主導による改新政治の中に、既に彼らの専横を許さない力が内在しはじめていたことを窺がわせます。

いずれにせよ、こうした中途半端な親征では初めから勝算は望めなかったと言えます。しかも親征中、さらに親征の士気を低下させるような天皇崩御という事態まで起こったのでした。

 

政府への不信が、親征を遅らせた

百済側の焦燥をよそに、斉明女帝は五月九日、新築された朝倉宮殿に還りましたが、この宮殿が悪かったこと「斉明天皇紀」は言います。

即ち、「女帝が朝倉宮を造営する時、用材を調達するために朝倉社の神域の木を伐り倒されたのが雷神の忿(いか)りに触れ、殿(おおとの)が崩壊し、宮中に鬼火が現れ、大舎人(おおとねり)や諸々の近侍の者が多数死ぬという凶事が起こった」というのです。

また、「二十三日、ちょうど(たむ)(らの)(しん)(済州島・百済救援の橋頭堡となる)の使者が帰国途中の遣唐使の船に乗ってはじめて朝貢してきました。ところが、この時、遣唐使の随員・東漢(やまとのあやの)(かやの)(あたい)(たり)(しま)讒言(ざんげん)により遣唐使たちが(みめ)(ぐみ)を蒙られなかったので、その使人たちの怨念が上天(あめ)の神に通じ、雷に打たれて足嶋は死んだ」というのです。

そして、そうした凶事が続いたことから時の人は「大和の天皇の命運も近いようだ」と言ったそうです。

雷神の怒りはともかく、事実、二ヵ月後の七月二十四日、六十八歳の老女帝は突如として崩御されました。さらに、皇太子中大兄が女帝の遺体とともに、磐瀬宮に還った夜のこと、朝倉山(朝倉社が鎮座している麻底良山とその東西の連山)の上に鬼が出て、大笠を着て天皇の御遺骸を望見していたと言い、人びとはそれを奇怪のこととして噂したといいます。

こうした、「斉明天皇紀」の記述からしても、斉明女帝の親征は、少なくとも九州の人びとには余り好感を持たれていなかったように思われます。また、親征にまつわる凶事として、外にも進発前の建造船の異常や奇怪な自然現象などが記され、救援軍は敗北するのではないかという噂もあったといいます。親征に対する不満、あるいは政府への不信は大きく、それが百済救援を鈍らせていたことが考えられます。