聖徳太子の宗教的姿勢一大転機の物部氏討伐

「崇峻天皇紀」即位前期七月末の記述によれば、物部氏討伐に参加された太子は、この戦いの中で、既にずば抜けた指導力を発揮されたようです。

物部氏は、さすがに部門の氏族らしくその兵の士気が高く、圧倒された蘇我兵の軍は恐怖のうちに三度も退却したのでした。大軍でありながら不甲斐ないその戦いぶりに、後陣につめていた太子は「このままでは敗れてしまう。顔をかけなければ勝利はおぼつかない」と霊木の()()()で切り取ってすばやく四天王のために寺塔を建てます」と誓約され、そうして全軍を鼓舞されて自ら先陣をきって突撃されたのです。そして、

この突撃の最中、物部守屋は太子の舎人(とねり)であった()見首(みのおびと)に討たれ、そしもの物部氏も敗走したのでした。

こうして太子は、14才にして父母との離別の悲しみを味わい、また初めて実戦というものを体験され、その戦いの中で仏敵を討つという純粋な気持ちから奇しくも全軍を鼓舞して勝利されるという卓越した指導力を発揮されたのです。

この物部氏討伐への参陣は様々な面で少年期の太子に大きな刺激を与え、太子の一大転機となったことは間違いないでしょう、太子は戦後、仏敵討伐の誓願どおり、難波に四天王寺を建てられていますが、これも国家護持のための仏教普及という太子の確信が表出しています。

 

太子の仏教観

聖徳太子は崇仏を旗印とする蘇我馬子に与し排仏の物部守屋を討伐する軍にしたがい、率先して討伐軍を鼓舞して勝利に導きました。このため、太子は後々まで純粋な仏教信者であったとみなされることがあります。

しかし、当時の太子はと言えばまだ14才に過ぎず、蘇我氏の仏教的環境の中で育ち、崇仏の教養を身につけておられたにすぎません。自分の確たる信念からというより、ただ蘇我氏の仏敵を打倒するという呼びかけに応じて馬子の下に参じたにすぎないと見るべきでしょう。太子の年齢と成育環境を考えず、外見的な行動のみをもってその生涯にわたる思想を推察するのでは表層的にすぎるといえます。

もとより、物部氏討伐の時点では感受性の強い幼少期を仏教的環境に育たれたため確かに純粋な気持ちで仏敵物部氏を討つという馬子の下に馳せ参じたかもしれません。

しかし、それはその時点の話であって、太子の後の治績やその言動を見れば、太子は熱烈な仏教信者というより、仏教を国家体制に利用するという視点からの冷静なる学究的信徒ともいうべき立場をとられているのです。太子の治世を考える上で、こうした太子の宗教的姿勢は見逃してはならないものです。