中国もあれやこれや その31

平成19年7月度

 1日 中国・中学歴史教科書

中国・歴史教科書の編集方針
生徒の素質を高めることに力点を置き、生徒に祖国を熱愛すること、中国共産党を熱愛すること。社会主義事業を熱愛すること。この四項の基本原則を堅持するための教育を施すことを旨とした。とある。 四項の基本原則とは、
マルクスレーニン主義、
共産党指導、
社会主義路線、プロレタリア専制政治の四つである。
歴然たる、徹頭徹尾中国共産党礼賛の政治目的の歴史教科書である。
 2日 隋の時代の記述 当時は日本では聖徳太子が遣隋使を派遣し古代中華秩序に対等の立場で挑戦した。処が中国歴史教科書では遣隋使派遣を次のように紹介している。「隋の時代、日本の天皇は国交を結ぶ親書を託した使者を派遣してきた。隋の煬帝は喜んでこれに同意し衣装を賜った」。

中国は韓国と違い天皇と記述している。だが、煬帝が喜んでと違う。史実は「大業三年、其の王多利思比狐(聖徳太子)、使を遣し朝貢す。其の国書に曰く「日出づる処の天子、書を日没っする処の天子に致す、(つつが)なきや」云々と。煬帝之を覧て悦ばず。「蛮夷の書、無礼なるもの有り、復た以て聞する勿れ」が史実である。 

 3日 白村江の戦い 唐との関係、663年の戦、日本は当時、唐・新羅連合軍と対峙すべく二万七千余の百済救援軍を送るが大敗をした。中国の歴史教科書では、この戦いに関して一言半句も触れていない。 それどころか、隋と唐が高句麗と激しく戦った事実も記載がない。朝鮮との関係は「唐と新羅の友好関係」の見出しで専ら新羅との友好関係だけ記述している。アンバランスのご都合主義である。
 4日 元寇 中国の歴史教科書では全く触れていない。これが独裁共産主義の通例であるが、自らに都合が悪いと書かない。これは明白なる日本侵略である。頬被りする中国の特徴である。

元寇は、申すまでもなく日本への侵略戦争である。不正義そのものである。このようにこの中国のいい加減な歴史教育の下に国民は飼育されている。この事実を日本人は事あるごとに指摘すべきだ。 

 5日 倭寇1 元寇とは対照的に、倭寇のことは途端に詳述しているのである。これは韓国歴史教科書とて同様である。少し詳しく紹介することとする。中国歴史教科書では「元末から民初、日本の武士、商人及 び海賊はしばしば中国の沿岸地方を脅かした。沿岸地方の住民は、彼らを倭寇と呼んだ。明の中期となると、海防が緩み、東南の沿海地方の悪徳商人が倭寇と手を結んで上陸、略奪を助け、分け前を手にするようになった。」
 6日 倭寇2 「我が国の沿海住民は、非常に大きな被害を受けた。明朝は年若い武将を東部に派遣し倭寇に対抗させた。彼は部隊を組織し厳しい訓練を行った。彼らは勇敢に戦い規律は厳しく人々から戚家軍 と称された。」これは元末から明初の倭寇については、「日本の武士、商人及び海賊」と書かれているが、元末から明初の倭寇の主体が朝鮮人であったことは朝鮮の史書「世宗実録」も認めている事実である。
 7日 日清修好条約 近代日本と清国との外交関係は明治4年、1871年の日清修好条約条規に始まる。これは日本と清国が結んだ初めての通商条約であっただけでなく、欧米列強の不平等条約に呻吟していた日本と清国が結んだ初めての対等な平等条約という意味でも画期的なものであった。 だが、中国の歴史教科書は、この条約を全く無視して取りあげていない。このことは、何を意味するのか。「日本帝国主義の戦争開始と中国への侵略」は「近代以来、日本帝国主義は絶え間なく中国を侵略してきた」があり近代の初めからの日本糾弾をすることが出来ないからであろう。本末転倒とはこのことである。
 8日 日中関係の嚆矢(こうし) 中国にとっても日本にとっても欧米とのように不平等でない画期的な条約の締結を賛美しないとは、これは意図があるか らである。一つは、中国の欧米コンプレックス、侵略の張本人こそ欧米であるのに日本を悪玉にするご都合主義である。
 9日

中国の史実の歪曲

日清戦争

この戦争は、朝鮮に対する宗主権を主張する清国と、朝鮮の独立を望んだ日本が激突した戦いである。戦争勃発の事情に関して、中国歴史教科書は「日本海軍は朝鮮の牙山沖合いの半島付近で清軍の輸送船を襲撃しも清国政府はやむなく日本に対して宣戦布告した。かく て中日戦争が勃発した」。とある。
だが、事実は違う。明治27年、7月25日の豊島沖海戦は、日本海軍が「清軍の輸送船を襲撃」したのではなく、「清国の軍艦済遠の発砲」から始まっている。宣戦布告は8月1日、日清両国政府により同時に行われている。中国の史実の歪曲である。
10日 中国歴史教科書の大嘘 開戦経緯もさることながら、旅順に於ける日本軍の「虐殺」に言及していることが問題である。それは「日本侵略軍は旅順でわが同胞を狂ったように虐殺し、死者18千人余に達した。日本侵略軍は自己の罪状を覆い隠す為に、被害者の死体を集めて焼き骨を棺に入れて埋葬し「清国将兵の墓」と書いた木の札を立 てて、世界の非難をかわした。後に中国氏人民が墓地に「万忠墓」碑を建てた。
旅順の虐殺については、外国通信員が誇大な報道が当時から問題になっていたが、英紙「セントラル・ニュース」は「公正な戦闘以外では、一人の中国人も殺されていない」とこれに反論し、外務省もこれに反論し各国駐在公使に訓電している。(明日詳述)
11日 デタラメ中国歴史教科書
への外務省の反論。


「旅順陥落時、清国兵は軍服を脱いで便衣に着替え、一般市民に変装して秘かに武器を携え民家に入りこみ我が軍に抵抗した。「旅順に残っていた市民は武器を取り戦うように命令された。だが戦闘で殺された市民の大部分は実は市民に変装した兵士、即ち便衣兵であった。それは遺体検死の結果、彼らが平服の下に

軍服を着ていたことで証明された」「日本兵は、清国側の捕虜になった味方の兵が、四肢を斬り分けられ、生きながら火あぶりにされたり、磔にされたのを目撃して激昂したが、軍紀を維持した。」。「抵抗せずに投降した者は虐殺されることなく、現に旅順陥落時に捕虜となった355人の清国人は日本側の厚遇を受け東京に護送中である」
12日 陸奥宗光(むつむねみつ)

幕末の志士にして白刃を乗り越えた明治の名外務大臣。彼は「蹇蹇録(けんけんろく)」の中で言う、中国人の死者に関して「被殺者の多数は無辜(むこ)の平民に非ずして清国兵

の軍服を脱したるものなりと言う」と述べている。
日本軍は、中国お得意の便衣兵(べんいへい)を処断したに過ぎない。虐殺など当てはまらない。事実無根で中国得意の史実の歪曲である。
13日 北清事変(義和団事件)1 義和団事件のことである。中国歴史教科書によると「19006月、中国人民の反乱を鎮圧するため、イギリス、アメリカ、ロシア、日本、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの八カ国2000人余りからなる侵 略軍がイギリス海軍司令官E・H・シーモアの指揮の下に、大沽から天津を経て北京に侵攻した。義和団は天津・北京の鉄道を破壊し、勇敢に戦って敵を倒した。侵略軍は廓坊で義和団に包囲され、多くの死者を出し、慌てて天津に逃げ帰った」とある。
14日 軽蔑してよい中国北清事変(義和団事件)の主張 義和団とは「扶清滅(ふせいめつ)(よう)」を掲げる排外的な宗教結社である。中国の歴史教科書は「八カ国2000人余りからなる」と記述している。これは義和団が北京の外国公使館区域を包囲攻撃 したため八カ国が連合軍を組織し、包囲された11ヶ国公使からなる外交団と民間人の救出に向かったものなのである。これを「侵略軍」などというのは事実歪曲も完全間違いで、訂正しなければ世界中の笑いものである。この点のみでも中国を軽蔑してよい。
15日 北清事変(義和団事件)3 当時日本公使館の一等書記官として義和団の包囲の下にあった石井菊次郎は当時を回顧して次のように述懐している。「私は男女、子供を含めて全部で千人ばかりの外国人の一人であったが当時、中国で猖獗(しょうけつ)を極めてい 排外的狂信主義のイケニエとしてまさに虐殺されようとしていた。この武装した狂信者の集団は義和団(拳匪(けんぴ))という名で知られていた。彼らの目的は中国にいる全ての欧米人(彼らは日本人もその中に入るとみなしていたのだが)の根絶であった。明日に続く(中略)
16日 北清事変(義和団事件)4 ・・包囲攻撃が始まってから10週目の初めに、多国籍軍(その九割は日本軍であった)が外壁を急襲して突破し、公使館

地区に突入して我々を死の淵から救い出したのである。我々の一部が生き延びて救援軍を迎えることが出来たのは、奇跡以外の何ものでもなかった。 

17日 中国人の
特異な国民性
K・カール・カワカミの「シナ大陸の真相」の序文によると「外国人に対するこのような殺戮発生の原因は何であったのか。簡単に言えば、・・中国人は外国人の邪悪な点だけを指摘して、自分自身の間違いは何一つ認め ようとしなかったのである。中国は自分自身を世界の冠絶した国家であると考えて、あらゆる非難を列強諸国に向け、自分自身を何一つ責めようとしなかつた。このような態度の中に、日本のそれと異なる中国特異な国民性を探る糸口が見つかるであろう」
18日 原因はシナの態度 要するに、シナの態度は、世界の田舎者である即ち、夜郎自大の井戸の中の蛙なのである。それは現代でも然り。伝統的な中華思想という古代の意識のままなのである。韓国と瓜二つ。 それは現在の中国の歴史教科書にも少しも改善されていない。それは韓国とて同様である。両国ともに近代化の遅れた原因が中華思想なのである。謙虚さに欠けた民族性である。
19日 中国の一方的記述 その義和団に関する中国歴史教科書はどう記述しているのか、事件の原因となった義和団の非道には一言も触れること無く、連合軍の非道ふりを次のように記述している。「八カ国連合軍の最高司令官A・ワルデルゼーがドイツ皇帝に出した報告書の中に「連合軍が北京を占領した後、軍隊に三日間の強奪を許し、その後さらに私物化するための強奪を許した。今度の破壊と強奪による中国の損失の詳細な数量は永 久に調べがつかないだろう」と記しこれを認めている。北京の重要図書と文化財や国宝、例えば明朝の「永楽大典」などが八カ国連合軍の強奪にあった。戸部(戸口租税等を司った官署)は、銀庫、銭庫がすべて侵略軍に盗まれた後放火された。一群の避難中の中国人民は、フランス軍により袋小路に追いやられ、そこで機関銃の掃射を受けた。八カ国連合軍は捕虜になった婦女を路地に追いやり、そこで恣に陵辱した。かれらの無法な行為は筆舌に尽くし難い」
20日 日本軍の軍紀だけは極めて厳正で、略奪や暴行は皆無 前日の記述の「侵略軍」は、試用本では、「日本軍」としていた。この時、ロシア兵やフランス兵の「無法行為」は確かに筆舌に尽くし難いものがあったのは事実である。だが日本軍の軍紀だけは極めて厳正で、略奪や 暴行は皆無であったのだ。天津の清国人は「大日本順民」との日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明したのである。最大の略奪をしたロシアには何も言及していない。ましてや全世界が賞賛した日本軍の軍紀について一言も触れていない。
21日

記述皆無の日露戦争

中国の歴史教科書には日露戦争が無い。あの中国の国父と言われる孫文が日露戦争の意義を次のように高く評価していたのにである。「日本がロシアに勝ってからは、アジア全体の民族は、欧州を撃ち破ろうと考え、盛ん に独立運動を起した。エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア等が相次いで独立運動を起こして、やがてインド人も起すようになった。即ち日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くようになった。
(1924年11月、神戸講演)
22日 孫文と日本の関係を記述せぬ中国 中国革命の父、孫文と日本との深い関係を書かないのも魂胆ありの中国である。日本がなぜ「中国革命伝播の中心地」となったのか、中国歴史教科書の記述は皆無である。頭山満や犬養毅を始めとする幾多の日本人が、中国革命を終始支持し、中には山田良政のように革 命運動に参画して犠牲になった日本人すらいたのだ。日本政府の方針に反してまで、亡命した孫文らの革命首領を庇護したからこそ、日本は中国革命の拠点たりえたのである。これは孫文も自伝に明記し頭山・犬養・山田・宮崎滔天・萱野長知などの日本人の名を列記して感謝しているのに無視している。
23日 日本抜きに辛亥(しんがい)革命(かくめい)は不成功 これは過言ではない。それなのに中国歴史教科書は、その事実を無視している。 これは歴史の史実を無視したもので歴史の隠蔽そのものであり、いかにこの国の歴史教科書が欺瞞に満ち溢れているかを証明するものである。
24日 中国の言う済南事件の大嘘 昭和3年、第二次山東出兵の際、日本軍と蒋介石軍の北伐軍が衝突する事件である。中国共産党の歴史教科書は、1928年、国民政府(当時は敵対関係の現今中国である)は奉天軍閥・張作霖に対する北伐を開始した。北伐部隊は、瞬く間に済南を占領。日本帝国主義は国民政府の北伐を阻止する為公然と出兵して済南を占領し、中国の軍民6000余人を殺害した。これが所謂済南事件である。

国民政府の北伐部隊が済南に進出、占領すると、日本帝国主義は邦人保護を口実に山東に出兵し、済南に侵入した。日本軍は北伐軍に武器の一部を供出させ、占領区域内で銃を撃ちまくり中国の軍民数千人を死傷させた。さらに、国民政府の山東における交渉責任者であった蔡公時らを不当に連行した。蔡が抗議すると日本軍はまず蔡の耳と鼻をそぎ、次に眼をくり抜き最後に殺害した。日本軍将兵の残虐な行為は済南の軍民の反発を引き起こしたが蒋介石は部隊に抵抗しないように命令した。大嘘であり明日説明する。 

25日 済南事件の真実 この話は、当時「外交官虐殺事件」として国民党軍により広く喧伝された事件であるが明白な「捏造」に過ぎない。外務省記録、「済南事件・蔡交渉委員殺害真相調査関係」によると、敵の残兵掃討のため日本軍が交渉公署の建物を探索中、不意に発砲してきたのでこれに応酬し建物の中にいた 16名全員を射殺・刺殺した中に交渉委員の蔡がいた為、国民党の格好の虐殺宣伝材料に利用されたものである。
日本軍が耳と鼻を削ぎ、次に眼をくり抜くという残忍な殺害をする文化はなく中国人の文化であり筆者が中国であることの証明である。この中国文化による酷い方法で日本人居留民が多数殺害されているのである。
26日 中国人の
満州事変とは
中国歴史教科書の記述は「1931年より、日本帝国主義は中国侵略を急速に推し進め、相次いで9・18事変(満州事変)と1・28事変(第一次上海事変)を策動し、わが国の東北領土を占領し て偽「満州国」傀儡政権を樹立した。日本帝国主義が一歩ずつ中国に侵入してきたのはなぜだろうか。中国政府と中国人民は、日本の侵略に対しいかなる態度を取ったのであろうか。本課の内容はこれらに対する解答である。
27日 中国人の
満州事変とは2
1929年、資本主義世界は深刻な経済危機に陥り日本帝国主義は経済危機から逃れようとして中国侵略の速度を速めた。駐中国東北部の日本関東 軍は1931年9月18日夜、南満州鉄道の柳条湖で線路を爆破し中国軍の仕業だと偽った。日本軍はこれを口実に、東北部駐屯地の北大営を爆撃し瀋陽を占領した。これが即ち9・18事変である。
28日 中国人の
満州事変とは
3
東北辺境防衛司令官の張学良は、蒋介石の命に従い部隊に抵抗しないように命令を出した。東北軍10万余りは山海関内に撤退し日本軍はまるで無人の地を進むかのようであった。 半年と経ない間に、東北三省100キロ平方キロ余の美しい国土は全て敵の地に落ちたのである。東北3000万の同胞は、日本軍の鉄蹄の下で虐げられ、ありとあらゆる恥辱を嘗めたのである。
29日 中国説
「満州事変記述」への反論
中国の歴史教科書は「東北三省100万平方キロ余りの美しい国土「なんて白々しいことを言うが、元々万里の長城の外にある満州の地は漢民族の土地ではない。清国の時代には漢民族は満州の地から排除されていた。 日露戦争後のポーツマス条約1905年により、日本はロシアから満州の権益を獲得し、これを同年に清国も承認(満州善後条約)した以上、満州への日本の進出は完全無欠に合法的なもので、中国に今更侵略など言われる筋合いは全くない。
30日 衝突の種は民国が蒔いた 処が、辛亥革命後の中華民国は満州をも己の領土と勝手に詐称し、ここに満州を巡る日本との利害の衝突の種が蒔かれたのである。 満州事変は、平和的且つ合法的に満州の地の発展に貢献した日本と「革命外交」により一切の条約を破棄し、排日運動に狂奔した中国との避けられない衝突であった。
31日 満州事変の原因は中国 当時のアメリカ公使マクマリーは「日本政府は1931年9月まで満州侵攻までのほぼ10年間、ワシントン会議の協約文書並びにその精神を守ることに極めて忠実であった。そのことは中国に駐在していた当時の各国外交官全員が等しく認めていた。日本をそのような行動(満州事変)に駆り立てた動機をよく理解するならばその大部分は中国の国民党政府が仕掛け

た結果であり事実上、中国が「自ら求めた災いだ」と我々は認識しなければならない。」人種意識が甦った中国人には、故意に自国の法的義務を軽蔑し、目的実現の為には向こうみずに暴力に訴え挑発的なやり方をした。この期間、在満州の居留民は排日教育と排日運動の嵐の中で全く進退窮まった状況に置かれていたのだ。満州事変は、中国の条約無視と挑発的排日運動による、起きるべくして起こった事変である。