徳永圀典の「日本歴史」P
平成19年7月度

 1日 ペリー来航 嘉永六年六月、1853年、四隻の巨大な黒塗りの軍艦、世には黒船というが、江戸湾の入り口に近い浦賀沖合に姿を見せた。軍艦には100門近い大砲が積まれていつでも発射できるように準 備されていた。ペリーアメリカ海軍の提督で、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えていた。幕府は国書を受け取った。ペリーは回答を得る為に翌年再び訪日の予告して去った。
 2日 ペリーの目的 ペリーは何故日本に来たのか。日本開国の目的はアメリカには二つあった。一つは中国に到る太平洋航路を開くための中継地としての日本が必要であった。産業革命により大量生産した綿製品を

巨大な人口の中国へ輸出する必要があった。アフリカ回りの英国より有利であった。二つ目は、北太平洋で盛んに操業してた捕鯨船の保護であった。鯨肉は捨て、脂肪分はランプ用の油で、工場の夜間作業の照明用である。 

 3日 白旗 幕府が国書の受け取りを拒否出来なかったのは何故であろうか。ペーリーは大統領の国書とは別に、白旗を二本、幕府に渡していた。それには手紙が添えられ「開国要求を認めないならば武力に訴えるから防戦するがよい。戦争になり必勝するのはアメリカだ。愈々降 参という時には、この白旗を押し立てよ。そうすれば和睦しょう。と書いてあった。武力で脅して要求を飲ませるというやり方は「砲艦外交」と呼ばれ、欧米列強がアジア諸国に対して用いる常套手段の侵略の手口である。こうして世界侵略をして植民地を拡大してきた欧米の500年である。
 4日 老中・阿部正弘の苦悩 当時の幕府筆頭老中で外交責任者は阿部正弘であった。ペリーが去り半年後に再訪日する対策に頭を悩ませた。ペリーの要求を拒否し外国船を武力で打払う単純な手法もある。これを「攘夷」とい う。だが、鎖国し250年間もの平和が続いた日本は軍事力が退化しており攘夷を行うことは不可能であった。阿部正弘は幕府だけで方針を決めるよりも全ての大名の意見を聞いて国論を統一しようと考えた。
 5日 公議與論 外交について、外様大名は過去には全く発言の機会は無かったから画期的なことであった。然し、大名達にも妙案は無かった。 しかも、これにより国の重要な政策は幕府の考えだけでなく、多くの意見を聞いて合議で決めるべきだとの「公議與論」の考え方が広がり幕府の権威は逆に低下して行くのである。
 6日 開国への決断 安政元年も1854年ペリーは七隻の軍艦を率いて神奈川沖に来た。幕府はペリーと交渉の末、要求に応じた。3月、アメリカと日本は日米和親条約を締結し、日本は開 国し下田と函館を開港した。アメリカの船に石炭、食糧、水を補給し下田にアメリカ領事を置かせることとした。イギリス、ロシア、オランダとも同様の条約を結んだ。
 7日 朝廷の反対 1856年、下田に着任したハリスは貿易を開始するために新しい通商条約を要求した。日本の攘夷派から激しい反対論が沸き起こった。 幕府は拒絶も出来ないので朝廷の許可を得て条約締結をしようとした。外交権限は朝廷から得ていてた幕府だが、朝廷は条約締結を許さなかった。
 8日 治外法権・関税自主権 幕府は朝廷の許可の無いまま、安政五年、1858年、日米通商条約を結んだ。これにより函館、神奈川、新潟、神戸、長崎の五港が開かれた。 然し、条約は、日本に於けるアメリカ人の不正行為をアメリカ領事館が裁く権利―治外法権―を認めたものであった。また、日本には輸入関税率を自由に決定する権利の無い、関税自主権がない不平等条約であった。
 9日 安政の大獄の導火線 アヘン戦争の結果を知っていた幕府はアヘン輸入禁止条項は付加えていた。同様のものがオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも締結された。 水戸藩主、徳川斉昭などの大名やその家臣、公家たちは朝廷と結び条約締結に反対した。幕府の大老井伊直弼は彼等に激しい弾圧を加えた。
10日 尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)

アメリカにより武力で脅迫されて開国させられた事は、当時の日本人、特に誇り高い武士達には屈辱であった。当然である。これが欧米人という狩猟民族の手法で世界に平安を齎さない近世の根本原因である。

幕府が通商条約に調印したのは、朝廷の意向を無視し外国に屈服したことだと武士だけでなく庶民からも沸きあがった。外国を打払うべきとの攘夷である。これは至極当然であり原因は白人のやり方そのものに問題がある。
11日 倒幕へ アメリカの武力による強引なやり方と幕府の弱腰は尊王攘夷へと収斂して行きたのは当然であろう。 万延元年、1860年、井伊直弼は江戸城へ出勤する途上、桜田門近くで、安政の大獄に憤った水戸藩浪士達に暗殺された桜田門外の変である。
12日 公武合体 幕府は権力の衰弱を挽回する為に、欧米の軍事技術を中心とした西洋文明の導入を進めた。また孝明天皇の妹和宮を第14代将軍家茂の夫人に迎え朝廷との関係強化を強め幕府の権威建て直しを 図った。
これが公武合体政策である。朝廷にはこれを推進する公家と、攘夷を唱え朝廷への政権回復を目指す公家の二つの勢力が生まれた。朝廷が次第に政治の要となって行くのである。
13日 吉田松陰 関が原で敗退し領地を縮小された長州藩は幕府批判の中心であった。兵学者の吉田松陰は松下村塾を開き弟子達に尊皇攘夷を説いて大きな感化を及ぼしていた。 松陰が安政の大獄で処刑されると、弟子の高杉晋作、木戸孝允らが藩を動かすようになり、長州藩は一部攘夷派公家と結び朝廷を激しい攘夷論へと誘導して行きた。
14日 欧米への挑戦 朝廷の攘夷論に押された幕府は文久3年、1863年、各藩に攘夷の命令を出した。これを受けた長州藩は下関海峡を通過するアメリカの商船に

砲撃を加え攘夷を決行した。翌年、英米蘭仏の四ヶ国の軍艦が連合艦隊を組んで報復した。欧米の圧倒的な火力により長州藩は無残な敗北を喫した。

15日 二つの戦争の反省 幕末では長州藩と並ぶ有力勢力は薩摩藩であるが1862年、江戸から帰国の途にあった薩摩藩の行列に四人のイギリス人の馬が接触した。これを無礼としてお供の武士がイギリス人に斬りかかり一人を殺した。生麦事件である。翌年賠償を求 めて来たイギリス艦隊と薩摩藩は戦い鹿児島は火の海となった。(薩英戦争)幕末に外国と戦争をした二つの藩は、西洋文明の力を身を以て体験し、単純な攘夷論では国を救えないと悟る。後に長州藩は日本陸軍創設の中心となり、薩摩藩は海軍人材を多数輩出した。
16日 長州征伐・高杉晋作 幕府は1863年、薩摩藩の支持を得て朝廷から長州藩の勢力と結んだ攘夷派の公家を追放した。八月十八日の政変という。徳川氏と薩摩・会津など有力藩主中心の指導体制である。 更に翌年、幕府は諸藩を指揮して長州征伐をして降伏させた。第一次長州征伐である。だが長州藩の高杉晋作は藩政府に反乱を起し、藩の主導権を奪還、再び幕府批判に転換した。
17日 薩長同盟へ 薩摩藩でも大久保利通や西郷隆盛らが藩政の実権を掌握、薩英戦争の経験から攘夷を諦めて軍備の強化に努めつつ、長州追放後、勢力を回復した幕府批判を強めていた。慶応2年、1866年、土佐藩の坂本竜馬は、外国に対抗できる強力な統一 

国家を作る必要性を説いていた。竜馬は反目していた薩摩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允を引き合わせ薩長同盟を結ばせ、両藩が提携して倒幕の密約をさせた。こうして尊皇攘夷運動は、尊王倒幕運動へと転化した。同年、幕府はもう一度長州征伐を試みたが薩摩藩が反対し諸藩も従わず失敗した。

18日 大政奉還 1866年、第二次長州征伐の途上で死去とした将軍家持の後は徳川慶喜である。朝廷では幕府に好意的だった孝明天皇が崩御され15才の若い明治天皇が即位され朝廷内部 では倒幕派が優勢となった。1867年、慶喜は徳川家が幕府という形で政権を維持することは最早や不可能と判断して、征夷大将軍の地位を朝廷に返上した、これが世にいう大政奉還である。
19日 王政復古と徳川の終焉 慶喜は大政奉還後、天皇の下で諸大名が集まる議会を作り、その中で最大の大名である徳川家が実質的な支配を維持出来ると考えていた。
慶喜の意図を見抜いた薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通は公家の岩倉具視、

長州藩の木戸孝允らと結び、慶喜追放と領地没収を朝廷に働きかけた。1867年の暮れ、朝廷は王政復古の大号令を発し、天皇中心の新政府を組織することの宣言を出した。こうして270年に亘る徳川幕府はその幕を閉じたのである。

20日 欧米の脅威 ペリーの来航と武力による恫喝による幕末の混乱、イギリス・フランスによる内政干渉、ロシアの南下。これらの幕末日本を襲った欧米列強の軍事的脅威は当時の日本人に恐怖の感情を引き起こ した。
日本は開国以来、その恐怖を打払うべく必死で西洋文明の導入に努めたのである。その当時の努力・工夫が今日までの日本歴史を動かす原動力の一つとなっていたことは否めない。
近代日本歴史の三大前提
21日   一、
欧米列強の植民地拡大策
彼らの植民地圏拡大の意欲は明治維新以後も続いていた。日本が独立を維持して大国の仲間入りを実現するまでの歩みは、 列強の日本進出と同時であった。北には、不凍港を求めて南下してくるロシアの脅威も不気味であり、当時の日本人はどんなにか心細かったであろう。
22日 第二、シナ・朝鮮の現実 東アジアに怒涛のように押し寄せてきた欧米の恐怖、だがシナ、当時は清国はアヘン戦争に見る如く欧米列強の武力脅威の認識と自覚が欠如していた。清国の服属国・朝鮮も李王朝の退廃と自覚が 無かった。シナは自国文明を世界の中心の考える野郎自大の中華思想によりイギリスなど世界の果ての野蛮民族であると見下し西洋文明に敬意も関心も無く侮り遂に欧米に侵食されて領土の保全も危険となりつつあった。
23日 第三、

江戸武士の意識が幸いの日本
日本は江戸時代を通じて武家社会という側面が強く残っていた。故に欧米列強の武力脅威に対し敏感に反応できた。
また同時に、日本人の旺盛な好奇心が西洋文明を学ぶとい
う姿勢に転化し明治政府の政策に強く反映されたのである。シナ・朝鮮は文官支配の国であり、夜郎自大の中華思想により欧米を見下し、脅威に充分な対応をしなかったのが運命の違いであろう。
24日 英国大使マカートニー 1793イギリス使節が始めて清国を訪問した。清の皇帝に対し英国大使マカートニーは最敬礼の三跪九(さんききゅう)叩頭(こうとう) を拒否した。
英国は開港や貿易の要求を実現できなかった。
当に夜郎自大の中華思想であった。
25日 日本の国旗・国歌 国旗とは、特定の国を他の国と区別する印であると共に、その国の主権を現す神聖なシンボルとして世界のどの国も相互に尊重されるものである。国歌も自主独立性と国を表し、国内の結束を促す

もので国際的な行事・儀式にどの国にても敬意を以て歌われる。日本の国旗は「日の丸」、「日章旗」である。国歌は「君が代」である。法的には平成11年、1999年、国旗・国歌法が成立し永年の慣習が法律に明文化された。 

26日 日の丸の由来1 日本人は古くから太陽を敬う気持ちを持ち続けてきている。太陽があらゆる生命と生活を保つ根源と認識していた。古代人の情緒である「神話」では、大和朝廷の祖先神として最も尊敬されたのが太陽神の化身である天照大神である。 遣隋使が隋の(よう)(だい)に宛てた外交文書には我が国のことを「日出づる処」(太陽が登る場所)と表現していた程である。やがて国の名前そのものが太陽に因む「日本」と定められた。平安時代には太陽を(かたど)った「金の日の丸」をあしらったものが扇などに使われていた。
27日 日の丸の由来2 中世から近性初頭にかけて白地に赤の日の丸を描いた旗が合戦などに用いられている。江戸時代に入り、日本人の海外渡航が禁止されると、日の丸は江戸幕府専用の船印と看做されるようになる。 やがて幕末の開国以降に、日本の船と他国の船と区別する必要が出てきた。この局面で「白地、日の丸の旗」を「日本総船印」、「御国総標」と定め外交に使用した。そこで明治政府も明治元年、1870年、改めて日の丸を「国旗」として布告した。歴史は古いのである。
28日

君が代の由来1

君が代の元歌は、平安時代前期に纏められた「古今和歌集」に長寿を祝う賀歌(他人に幸福がくるように祈る歌)の代表作として、読み人知らずとして掲載されていたものである。 「わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」である。私が敬愛するあなた様、どうか千年も万年も、小石が寄り集まり大きな岩となり それに苔が生える程、末永くお健やかに、の意味である。
29日 君が代の由来2 無名の一庶民の歌、千年前からの歌、素直でない人が無知の為にこの歌を誹謗する。自分の素敵な先祖を忌避するのは自ら貶めることだ。 この古歌が、今の「君が代」と同じ歌詞となり中世から近世を通じて神社や寺院の行事で歌われたり、様々な物語や歌舞などにも取り入れられ広く庶民親しまれてきたものである。
30日 君が代の由来3 明治になり欧米との交流も盛んとなり日本にも国歌が必要になった。そこで古くから多くの人々が愛唱してきた「君が代 」が国歌に選ばれたのである。それに日本的な雅楽調の曲をつけ洋楽風に編曲したのが明治13年、1880年の天長節(天皇誕生日)に公表された。
31日 君が代の由来4. それが明治後半から全国の小学校の祝祭日の儀式唱歌として普及し慣習として定着してきたものである。 君が代」の君とは、日本国憲法の基では、日本国及び日本国民統合の象徴と定められている天皇を指し、この国歌は、天皇に象徴される日本の末永い繁栄と平和を祈念したものである。