日本を創った人物31人 その一 鳥取木鶏会24年7月 徳永圀典
今回は、古代の三人、聖徳太子、藤原不比等、柿本人麻呂である。この三人以外に天才と言え人物はいない。
1.
聖徳太子 574年?622年
国家意識を植え付けた人、新体制を創った人。
律令社会の理念を作った。17条の憲法であり、三経義疎を著わした。これは、明治維新の理念・精神に反映している。現代まで生きている。
太子は熱心な仏教信者、法華経を基本とし、天台宗最澄、日蓮宗日蓮へと受け継がれて日本の代表的宗派となり現代に至っている。
太子は「日本の根本原理」を作り上げた人物。
『三経義疏』とは、義疎とは「解説書」のこと。聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝
推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。
日本書紀に推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があり、いずれも聖徳太子の著したもの。
2.
藤原不比等 659-720年
太子と真反対の人物、現実主義の天才、日本の政治の基礎、即ち天皇制を作り上げた人物、言葉を変えれば、「摂関政治」の原型の創始者。
摂関政治とは、天皇ではなく摂政、関白らが政治の実権を握っている政治方式。
彼は、701年の大宝律令、718年には改訂して養老律令を作った。そして律令政治の基礎を現実的に規定した人物。中国のものをそのまま受け入れておらない。太政官制度を設けた事は中国と異なる。
「律」と「令」の内容
律……刑法にあたる。
令……行政法・民法などにあたり,かなり広汎な内容をもつ。日本の国情に合わせてかなり修正されている。
大宝律令は、日本史上初めて律と令がそろって成立した本格的な律令である。
養老律令は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。構成は、律10巻12編、令10巻30編。大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能したが、平安時代に入ると現実の社会・経済状況と齟齬をきたし始め、平安時代には格式の制定などによってこれを補ってきたが、遅くとも平安中期までにほとんど形骸化した。廃止法令は特に出されず、形式的には明治維新期まで存続した。
地祇とは地の神。国土の神。
これらの措置により、藤原一門は繁栄する。不比等は政治的天才、現実のツボを押さえて、藤原と国家の利益を巧みに一致させている。
藤原家の繁栄ぶりを検証して見た。
藤原家は、元々は、中臣鎌足が中大兄皇子、即ち天智天皇と組み蘇我入鹿を暗殺しクーデターを起した。その功により藤原姓と最上位の官である大織冠を賜った。鎌足の次男が不比等である。
因みに、不比等は、藤原四家を作った。四家とは、南家、北家、式家、京家ですね。
不比等の母親・鏡王は天武天皇の妻であったが不比等に与えられた。だから鏡王は天智天皇と弟の天武天皇の妹と見られる。不比等には天皇家の血が流れていた。天武が亡くなり女の持統天皇の時代となると、血筋を大切にする持統天皇は秀才の不比等を大切にした。不比等は頭角を現してきた。不比等は中々の策謀家、秀才、不比等の三番目の妻は加茂媛と言うがそのが「宮子」は文武天皇を生む。その子が聖武天皇です。不比等の孫ですね。更に、天武天皇の未亡人と結びつく、乱婚です。これは政治力となりますね。そして、三千代という女と結婚する。その子が飛鳥媛即ち光明皇后なのですね。光明皇后は聖武天皇と妃、どちらも不比等の孫である。この光明皇后以来、明治まで、皇后は殆ど藤原家からであります。不比等というの凄い人間だが、表面には余り出てこないのであります。
3.
柿本人麻呂
日本文学、芸術の基礎を作った。日本の歌の伝統の基礎を作った人間。カナ交じり文を発明した人。この人の格調高い歌は前回ご披露しました。