「述而 第七」
原文 | 読み | 現代語訳 | |
7月29日 |
一、子曰、述而不作、信而好古、窃比我於老彭。 |
子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。窃かに我を老彭になぞらう。 |
孔子が申された、 「述べるだけで創作はしない、古代の教えを信じ、それを好む。自分を密かに老彭になぞらえている」 |
7月30日 |
二、 |
子曰く、 黙してこれを識し、学びて厭わず、人に誨えて(おしえて)倦まず。何か我にあらんや。 |
孔子が申された、 |
7月31日 |
三、 |
子曰く、 徳の脩まらざる、学の講ぜざる、義を聞きてうつる能わざる、不善改むる能わざる、これ吾が憂えなり。 |
孔子が申された、 「徳が積まれない、学問が進まない、道義を学んで実践できない、不善を改められない、これが私の悩みである」。 |
8月1日 | 四、 子之燕居、申申如也、夭夭如也。 |
子の燕居(えんきょ)するや、申申如(しんしんじょ)たり、夭夭如(ようようじょ)たり。 |
孔子がゆったりとくつろいでおられる時のご様子は、伸び伸びとしておられ、楽しけであった。 |
8月2日 |
五、 |
子曰く、 |
孔子が申された、 「ひどいものだ、老いて衰えてきた、お慕いした周公の夢を見なくなった」。 |
8月3日 |
六、 |
子曰く、 道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。 |
孔子が申された、 「天の道を求め、徳を幹に据え、人の道を身につけ、学芸の世界を楽しむ」。 |
8月4日 | 七、 子曰、自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。 |
子曰く、 |
孔子が申された、 「自分できちんと社会生活の出来る年齢に達した者=一束の乾し肉を携えて入門、に対して、私は誰でも平等に弟子として指導してきた」。 |
8月5日 | 八、 子曰、不憤不啓、不非不発、挙一偶不以三隅反、則不復也。 |
子曰く、 憤せずんばひらかず、非せざればおこさず。一隅を挙げて、三隅を以て反せずんば、則ちふたたびせず。 |
孔子が申された、 「憤るくらいでなければ物事はひらかない。言いたくて仕方がないくらいにならねば教えない。部分を示して全体を掴もうとしない時には私は教えない」。 |
8月6日 | 九、 子食於有喪者之側、未嘗飽也、子於是日哭、則不歌。 |
子、喪ある者の側に食する時、未だ嘗て飽かず。子、是の日に於いて哭すれば、則ち歌わず。 |
孔子は、喪の人の近くで食事をする時、決して満腹されなかった。また弔問の時、楽器を使ったり歌ったりされなかった」。 |
8月7日 | 十、 子謂顔淵曰、用之則行、舍之則蔵、唯我与爾有是夫、子路曰、子行三軍、則誰与、子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也、必也臨事而懼、好謀而成者也。 |
子、顔淵に謂いて曰く、 これを用うれば則ち行い、これをすつれば則ちかくる。ただ我と爾と是れあるか。子路曰く、子、三軍をやらば、則ち誰と与にせん。 子曰く、 暴虎馮河し、死して悔ゆるなき者は、吾与にせん。必ずや事に臨んで懼れ、謀りごとを好んで而し成す者たれ。 |
孔子が顔淵に言われた、 「採用されれば活躍し、見捨てられれば隠遁する。これは私とお前だけが出来ることだ」。 それを聞いた子路が言った、先生が三軍を指揮され時、誰と一緒に行きますか。 孔子が申された、 「素手で虎に立ち向かうとか、大河を船なしで渡ろうとする、死んでも後悔しないような人物とは一緒に三軍を率いることは出来ない。物事に対処するには慎重で、よく計略を立て、物事を成し遂げる人物と一緒に行動したい」。 |
8月8日 | 十一、 子曰、富而可求也、雖執鞭之士、吾亦為之、如不可求、従吾所好。 |
子曰く、 富、求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾も亦これを為さん。如し求むべからずんば、吾が好むところに従わん。 |
孔子が申された、 「富を求められるのであれば、鞭を振るう馬車の御者にでもなる。もし、富を求めることができなければ自分の好きな事をするだろう」。 |
8月9日 | 十二、 子之所慎、斉戦疾。 |
子の慎むところは、斉・戦・疾なり。 |
孔子が粛然とされるのは祭祀、戦争そして死のことである。 |
8月10日 |
十三、 |
子、斉に在りて、韶を聞く。三月、肉の味を知らず。 曰く、図らざりき、楽を為すのここに至らんとは。 |
孔子が、斉に滞在中、韶の音楽を学ばれること三ヶ月、没頭しておられ食事の中味を忘れるほどであった。 そして申された、「意図を越えていた、楽がこんなに素晴らしい境地に達することができるとは」。 |
8月11日 |
十四、 |
冉有曰く、夫子は衛の君の為にするか。子貢曰く、諾、吾将にこれにを問わんとす。入りて曰く、伯夷・叔斉は何人なるや。曰く、古の賢人なり。曰く、怨みたりや。曰く、仁を求めて仁を得たり、また何ぞ怨みん。出でて曰く、夫子は為にせず。 |
衛の内乱を目前にして、冉有が言った。先生は衛の君主を助けるのだろうか。子貢言う、そのことを先生に聞いてみる。先生の部屋に入り質問した、伯夷・叔斉とはどんな人物でしょうか。 先生が言われた、 「古代の賢人である」。子貢が更に聞く、彼らは高い身分を捨て恨むことはなかったのでしょうか。 先生がお答えになった、 「人の道を求め、仁の徳を手に入れたのだ、どうして恨みを残すことなどがあろうか。部屋を出た子貢は冉有に言った。「先生は衛の君主をお助けにはならないだろう」。 |
8月12日 |
十五、 |
子曰く、 疏飯を食らい、水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦その中にあり。不義にして富み且つ貴きは、我に於いては浮雲の如し。 |
孔子が申された、 「高粱(コウリャン)の粗飯を食べ、水を飲み、腕を枕にする。そんな質素な生活の中に楽しみがある。不正な手段で金銭や地位を得ているものは、私にとって浮雲のような存在だ」。 |
8月13日 | 十六、 子曰、加我数年、五十以学、易可以無大過矣。 |
子曰く、 我に数年を加し、五十にして以て易を学ばば以て大過なかるべし。 |
孔子が申された、 「天が私に更に数年間の寿命を与え、五十歳になっても易を学び続けるならば、大きな過失もなく過すことができよう」。 |
8月14日 | 十七、 子所雅言、詩書、執礼皆雅言也。 |
子の雅言するところは、詩・書・執礼、皆雅言す。 |
孔子が文語調にて述べられるのは、詩経と書経と礼法である。凡て正しい文語調である。 |
8月15日 |
十八、 |
葉公、孔子を子路に問う。子路対えず。 子曰く、 汝、なんぞ曰わざる。その人と為りや、発憤して食を忘れ、楽しみを以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らず、しかり。 |
葉県の長官が孔子のことを子路に尋ねた。子路はその問いに答えなかった。 孔子が申された、 「なぜ、お前は葉公にこのように答えなかったのだ、「道の在り方に憤慨すると食事を忘れるくらい努め、道の探求を続け己の老化にさえ気づかぬような人だ」と。 |
8月16日 |
十九、 |
子曰く、 我は生まれながらにしてこれを知る者に非ず、古を好み、敏にしてこれを求むる者なり。 |
孔子が申された、 |
8月17日 | 二十、 子不語怪力乱神。 |
子、 怪・力・乱・神を語らず。 |
孔子は、怪異・暴力・反乱・鬼神について語られることはなかった。 |
8月18日 |
二十一、 |
子曰く、 |
孔子が申された、 「自分を含めて三人で同行する時、必ず師となる者がいる。善い人なら善い行動を見習い、悪しき人なら染まらないようにする」。 |
8月19日 |
二十二、 |
子曰く、 |
孔子が申された、 「天が徳を私に与えられた、(私を迫害しようとする)桓魅ごときが私をどうできるのか」。 |
8月20日 |
二十三、 |
子曰く、 二三子、我を以て隠すと為すか。吾は隠すなし。 吾、行いて二三子と与にせざるものとなし、これ丘なり。 |
孔子が申された、 「お前達は私が何か隠し事をしていると思っているのか、隠さねばならぬことなどない。 実際の行動で、お前達と一緒にしなかったことはない。それが丘の生き方だ」。 |
8月21日 | 二十四、 子以四教、文行忠信。 |
子は四を以て教う。 文・行・忠・信なり。 |
先生は四つの重要なことを教えてくださった。それは、文・行・忠・信である。 文芸=学問知識。徳行=他者への誠意・信義=言行一致。 |
8月22日 | 二十五、 子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恒者、斯可矣、亡而為有、虚而為盈、約而為泰、難乎有恒矣。 |
子曰く、 聖人は吾得てこれを見ず、君子者を見るを得ば斯ち可なり。 子曰く、 善人は吾得てこれを見ず。恒ある者を見るを得ば、斯ち可なり。亡くなるに有りと為し、虚なるに盈ちてりと為し、約なるに難いとなす。難いかな恒あること。 |
孔子が申された、 |
8月23日 |
二十六、 |
子、釣して綱せず、弋して宿を射ず。 |
先生は釣一本で釣りをされ長縄で寄せ釣りはされなかった。狩猟で弓矢で鳥を射ることはあったが、木に留まっている鳥を射ることはされなかった。 |
8月24日 |
二十七、 |
子曰く、 蓋し知らずしてこれを作る者あらん。我は是れなきなり。多く聞きてその善きものを択びて、これに従う、多く見てこれを識すは、知るの次なり。 |
孔子が申された、 「世人には、自分が正確に知りもせぬものを勝手に創作するものがいる。私はそれはしない。私は多くの人の話を聞き、中から善いものを選びそれに従う。更に多くの書籍を読み、善いもの記憶する。それが正しい理解の前段階である」。 |
8月25日 |
二十八、 |
互郷、ともに言い難し。童子ま見ゆ。門人惑う。 |
郷の村人は、まともな話が通じなかった。村の子どもが会いにきた。門人は突然の来訪に戸惑った。先生は、「私は、面会に来た者に対して話をするので、私の前から去ろうとする者には話をしない。 |
8月26日 | 二十九、 子曰、仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣。 |
子曰く、 仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯ち仁至る。 |
孔子が申された、 |
8月27日 |
三十、 |
陳の司敗問う、昭公は礼を知るか。 孔子曰く、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖してこれを進ましめて曰く、吾聞く、君子は党せず。君子もまた党せるか。君、呉に娶り。同姓たり、これを呉孟子と謂う。君にして礼を知れば、たれか礼を知らざらん。巫馬期、以て告ぐ。 子曰く、 丘や幸いなり、苟しくも過ちあらば人必ずこれを知る。 |
陳国司法長官が孔子にお尋ねした。あなたの国の昭公は礼を知っているか。「礼を知っています」。 |
8月28日 |
三十一、 |
子、 人と歌いて善ければは、必ずこれを反さしめて、而る後にこれに和す。 |
孔子が申された、 「他人と一緒に歌い良い曲ならば必ずもう一度歌ってもらう。その後で、一緒になってその歌を唱和する」。 |
8月29日 |
三十二、 |
子曰く、 |
孔子が申された、 「知識を学ぶに私は人並みに出来る。しかし、実際に君子の如き実践は、私はまだまだである」。 |
8月30日 |
三十三、 |
子曰く、 聖と仁との若きとあらぱ、則ち吾豈(あに)敢えてせんや。 そもそも、これを為して厭わず、人に誨えて倦まざれば、則ちしかりとと謂うべきのみ。 公西華曰く、正にこれ弟子(ていし)の学ぶ能わざるのみ。 |
孔子が申された、 |
8月31日 |
三十四、 |
子、疾いあつし。子路祷らんことを請う。 子曰く、 これ有りや。子路対えて曰く、これ有り、誄(るい)に曰く、爾を上下の神祇に祷る。子曰く、丘の祷ること久し。 |
孔子が病気になられた。それを見た子路が祈祷をしたいとお願いした。 先生が言われた。 「そんな先例があるか」。子路はお答えした。あります。君主から死者に与える追悼の言葉に「あなたのことを、天神地祇に祈祷する」とあります。 孔子が申された、 「そうであれば、私は久しく天神地祇にお祈りしている。(だから、改めて祈祷する必要などない)」。 |
9月1日 |
三十五、 |
子曰く、 |
孔子が申された、 「驕り高ぶる暮らしをしていると態度が不遜傲慢になる、倹約し過ぎると固陋となる。どちらも過ぎるとよくないが、不遜であるよりは固陋のほがましだ」。 |
9月2日 |
三十六、 |
子曰く、 君子は坦たらんとして蕩蕩、小人は長たらんとしてせきせき)。 |
孔子が申された、 「君子は心穏やかでのびのびとしている。小人は勝ろうとして、いつもこせこせいる」。 |
9月3日 |
三十七、 |
子は温やかにして獅オ、威あって猛からず、恭しむあるも安し。 |
先生は温和でありながらも、厳格、威厳はあっても猛々しくない。慎み深く謙譲で、安心して接することができる」。 |