鳥取木鶏研究会 7月例会 平成19年7月2日 月曜
テーマ 「人づくり入門C」―小学の読み直しー 安岡正篤先生講話
無欲の生活
呂正献公、少より学を講ずるに、即ち心を治め性を養ふを以て本と為し、嗜欲を寡うし、滋味を薄うし、疾言遽色無く、窘歩無く,惰容無し。凡そ嬉笑・俚近の語、未だ嘗て諸を口より出さず。世利・紛華・声伎・游宴より以て博突・奇玩に至るまで淡然として好む所無し。
安岡正篤先生解説
呂正献公・名は哲、後賢者たらんことを希うて希哲と改む。正献公は諡。疾言遽色・早口で物を言い、顔色を急に変えること。窘歩・窘はせかせか歩く意。
東洋には、こういう人が多い。余り物欲に捉われない。貧乏も浪人も苦にならない。これは精神生活が発達しておるからであります。私が学生の頃から忘年の交わりをした人に、寒川鼠骨という人があります。松山の出身で子規門下の俳人でありますが、深く禅にも参じておった。実に淡然として好むところの無い人で、従って勿論貧乏であった。絵画に画商というものがある如く、俳句にも俳商というものがあって、虚子などもこれを巧く利用して有名になった人でありますが、寒川先生は全くそういうことをやらなかった。
或る時、丁度そういう俳商の一人が訪ねて来て、しきりに先生をおだてては短冊を書いて商売させろと言う。私は側でじっと聞いておったのですが、先生目を丸くして、うーん、○○は、そんなに取っておるのかと言って感心している。暫くして先生が言うのです、そうなると金が出来るね。私は永年貧乏と親友でね。今更金ができると困るんだ。そう言って俳商を追っ払ってしまった。
これは財ばかりではありません。地位でも名誉でもそうです。大学の時分に神奈川県の知事に○○という人がおりました。この親父さんが、土佐の田舎で船頭をやっておった。息子の知事は気になって仕方がない。或る時、田舎に帰って、もういい加減にやめてくれと頼んだが、お前は知事かも知れぬが、わはこれじゃと言って問題にしなかつたと言う。こういう心境を持っておれば、階級闘争などは起こらないでありましょう。どうも今の人間は、功利的にばかり執着して、精神生活を持つことを知らない。その為に世の中が益々複雑になり、苦しくなっている。そうして、みんな悩んでおるのであります。
胡文定公曰く、人は須く是れ一切の世味淡薄にして方に好かるべし。富貴の相あらんことを要せず。「孟子謂ふ、堂の高さ数仭、食前方丈、持妾数百人・吾れ志を得とも為さずと。学者須らく先ず此等を除去して常に自ら激昂すべし。便ち墜惰を得るに到らず。常に愛す、諸葛孔明、漢末に当って南陽に躬耕し、聞達を求めず。後来、劉先主の聘に応じ、山河を宰割し、天下を三分し、身・将相に都り、手重兵を握る。亦何を求めてか得ざらん。何を欲してか遂げざらんと雖も、乃ち後主に与へて言へらく、成都に桑八百株、薄田十五頃あり。子孫の衣食自ら余饒あり。臣が身は外に在って別に調度無し。別に生を治めて以て尺寸を長ぜず。死するの日の若き、廩に余栗あり、庫に余財有らしめて以て陛下に負かじと。卒するに及んで果して其の言の如し。此の如き輩の人、真に大丈夫と謂うべし。
安岡正篤先生解説
胡文定公が言うのには、人間は世の中の味、物欲生活というものには、淡白で丁度好いのである。別に富貴の相あるを要しない。「堂の高さ数仭、食前方丈持妾数百人、吾れ志を得るとも為さず」と孟子も言っておるが、学に志すものは是非共こういうものは除き去って、自らを高めるべきである。激昂は高めることで、ここでは興奮する意味はない。そうすれば堕落せずに済む。いつも好きな話だが、諸葛孔明は漢末に当たっては南陽に自ら耕し、少しも出世する事など求めなかった。後年、劉備の招請に応じて、山河を宰割し、天下三分(魏・呉・蜀)の計を立てて、身は将軍・宰相の地位に、掌中には軍の枢機を握った。こうして何を求めて得ざるなく、何を欲しても遂げざることなき有様であったけれども、後主に与えて言うには、成都には桑八百株、荒れた田地ではあるが十五頃(一頃は八畝)ある。子孫の衣食には余りがあります。自分の身は外にあって、別に調度もないし、財産を増やす必要もありません。私が死んだ時に家を調べたら、庫にどっさり食糧がつまっておったり、金も沢山あったというようなことをして陛下に背くようなことは致しません。(若し、そういうことがあるとしたら、これは地位権力を利用して私を肥らせた事になる、胡文定公は南宋の烈士・春秋学の大家安国)。死するに及んで果してその言葉通りであった。こういう種類の人こそ真に大丈夫と言うのである。
我々も子供の時分から、こんなことばかり教えられたので、妙に金などあると苦痛に感じる。だから私はいつも金を持たないことにしております。みんなそれを知っておるので、喜んで用を足してくれる。戦争中でも私は一度だって代用食を食べませんでした。酒にも不自由しませんでした。みんな持って来てくれた。処が世の中というものは面白いもので、今日のように物が豊かになると、誰も持ってきてくれる人がありません。世の中、不自由になると私は豊かになる。誰か持って来てくれる。無は無限に通じると極めてのん気な生活をやっております。
学問や芸術は功利の為にやるのではない
胡氏曰く、今の儒者文芸を学び、仕進を干むるの心を移して以て其の放心を収め、而て其の身を美くせば、則ち何ぞ古人に及ぶべからざらんや。父兄は文芸を以て其の子弟に令し、朋友は仕進を以て相招く。往いて而て返らざれば則ち心始めより荒んで而て治まらず。万事の成ること咸古先に逮ばず。
安岡正篤先生解説
胡子は、胡文定公の子供で、名は宏、号を五峯と申します。本文はその著、胡子知言にあります。今の儒者は、今日の所謂学者・評論家と言った連中は、思想表現の技術である文芸や芸術を学ぶのに、みなそれを名聞利達・出世の目的の為にやっている。そういう心を移して、外に放っておる心を一度取り戻して、そうして自分自身をよくしたならば、どうして古人に及ぶことが出来ないということがあろうか。処が親達はそういう功利的手段に過ぎない知識・技術を以て、やれうまくなれという風に命令する。友達は名聞利達を以て派閥を作って相招く。所謂コネをつくるというようなことをやる。そういうことばかりやっておって一向に反省しなければ、心が初めから荒んで治まらないから、万事成ることみな昔に及ばない。段々に文明が逆に退化するというわけであります。これは千古変わらぬ原則であり、真理であります。
或る有名な学者・評論家に「どうして君はソ連や中共の提灯持ちをやるのだ」と訊いた処、「その方が得だからね」と答えたということでありますが、これが実際の本音であろうと思う。そもそも日本の思想が混乱して来た原因は、勿論色々ありますが、政策的・政治的に言って混乱の始まりは、前大戦直後の政友会内閣が党利党略をかねて旧制高校の増設をやったことであります。その為に、従来の八高校が二十余の高校に増加し、教員不足を中学校の教師を昇格させてこれに当てた。処がなんと言っても大戦後のこととて思想が極度に混乱しております。懐疑的な思想や否定的な行動が流行する。そういう著作が宣伝紹介される。そういう時に、俄か教授たちは、どうすればこの時勢に若い学生達に受けるかというので、みんな便乗して盛んに否定的懐疑的な文学や評論を宣伝したのであります。こうして日本の高等教育機関の混乱が始まったと申して宜しいのであります。今度の戦後も亦同じであります。結局、良心に立ち返らせる以外に道が無いのであります。
人間も植物と同じく剪定する必要がある
明道先生曰く、道の明らかならざるは異端之を害すればなり。昔の害は近うして而ち知り易し。今の害は深うして而ち弁じ難し。昔の人は惑はすや其の迷暗に乗じ、今の人に入るは其の高明に因る。自ら之を神を窮め化を知ると謂ひて、而も以て物を開き務を成すに足らず。言周?ならざるなしと為して、実は則ち倫理に外れ、深を窮め微を極めて而も以て尭舜の道に入るべからず。天下の学、浅陋固滞に非ずんば則ち必ず此れに入る。道の明らかならざるに自るなり。邪誕妖妄の説競ひ起こり、生民の耳目を塗り、天下を汚濁に溺らしむ。高才明智と雖も見聞に膠み酔生夢死して自ら覚らざるなり。是れ皆正路の蓁蕪、聖門の蔽塞、之を闢いて而る後以て道に入るべし。
安岡正篤先生解説
程明道先生曰く「道の明らかならざるは異端之を害すればなり」。道の明らかにならないのは、つまり根本に対する異端邪説が害するからである。本筋から離れて行うから、これが害になる。人間も植物の栽培と同じで剪定をしなければならない。異端邪説と言った枝葉末節を取り除かねばならない。昔から植物の栽培に五衰ということが言われる。
第一に懐の蒸れと云って枝葉が茂る。これを取り除かねば風通しが悪くなる、そうすると梢止まり(うら止まり)と言って梢の延びが止まってしまう。これを放っておくと、根上がり・裾上がりということが始まる。地中から養分を吸い上げる根の力が弱くなって、根が上がってくる。それに乗じて必ず虫がつき、てっぺんから枯れて来る。これを梢枯れ(うらがれ)と言う。青少年時代に欲望のままにさせておくと、直ぐ成長が止まり、色々な虫がついて駄目になってしまうことは確かであります。
その弊害も昔は近くて知りやすかったが、今は深くてなかなか弁じ難い。昔の人は知識が余り発達しておらなかった為に、従って無知である。その無知に乗じて人を惑わす。今の知に惑の入りこむのは、知識が発達してなんでも分かる為に、その発達した知識につけこむ。自分自身は深いところを極め、宇宙人間の造化を知っておるんだと思うて、しかもその知性というものはどうかと言うと、開物政務、本当に物の秘めた性能を開発して、それをなさねばならぬ人間社会の大切な努めを完成してゆく約には立たない。文章や議論等が行き届いておるようであって、実は人間同志の理念に外れ、そうした深を極め、微を極めて堂々たる格好はするが、然も人間の本当の進歩向上を計る道に入ることが出来ない。おおよそ世の中の学というものは、浅くて卑しく、或はかたくなに停滞しておるのでなければ、逆にこういう風に開物成務にはならないのである。これはよらねばならぬ本当の道が明らかでないからである。そこで、よこしまな、でたらめな、或いは変なみだりがましい説が競い起こって、民衆の耳目を塗り潰し、天下を汚濁に溺れさせるのである。高知明智のある人も見聞になずんで酔生夢死して自ら覚ろうとしない。これみな正しい路が荊で荒れ阻まれ神聖な門が塞がってしまつておるからで、これを聞いた後に、何が本当の知であり、道であるかという事を明らかにし、然る後本当に人間を向上の道に進めてゆく事が出来る。全くその通りであります。
自然訓
一、人は一の自然である。我々は自然の如く真実でなければならぬ。
二、自然はすこやか(健)である。我々も常に怠ることなく努めよう。
三、自然は造化である。我々もかたくな(固陋)にならず、一生自己を進化してゆこう。
四、自然は無限である。我々も大海・虚空の如く心胸を開こう。
五、自然は円通である。我々も万物一体の妙理を学んで、安心立命を深めよう。
神こそは野をも山をも作りおけ 人に誠の道をふめとて (藤原基家)
天地開闢の心構え、即ち機前を以て心と為し、大元・大本・太初を尚び、俗気を斥けて、神気を嘗め、正直・清浄を行じてゆくのが日本の神道である。
文明と人間の救われる大教である。安岡正篤
平成19年7月2日 鳥取木鶏研究会 徳永圀典